「…………は?」
野亥が思わず聞き返すのも仕方がない。
"キミを好き放題したかった!"という独占欲であれば、軽蔑はすれども理屈として受け入れられた。
"ただキミを困らせたかった"という嗜虐欲であれば、納得はできずとも理解できた。
しかし神小の言葉にはそういった"欲"が一切なかった。
一切の執着も見せない……何の特別性を見出していない関係性を表した言葉であったからだ。
それもそうだろう。
彼にとって二人の関係の始まりは一方的な催眠から始まっており、今の関係はその延長線上にあるものだ。
途中でどんな善き行いをしようとも、どんな感情を抱こうとも、自身は加害者であり彼女は被害者であることは変わらない、変わってはならない。
そこに加害者が何か異論や余計なものを差し込むことそのものが、不純であり不義を働く行為だと思っているから。
しかしそれは第三者が抱くべき主観だ。
問題の当事者が抱くべきものではない。
野亥は二人という人間性の関係性について求めているのであり、神小のような社会の中における関係性ではないのだから。
神小がこういう人間であることは、野亥もうすうす気が付いていた。
徹底的なまでに自分に対して冷淡な人間であることを。
それでも……それでも、それだけのヒトにしたくはなかった。
「あ……ぁ……っ……!」
野亥が何かを喋ろうとする。
だが嗚咽のせいで、うまく喋れない。
必死に涙を押し込めようとする。
しかし溢れ出る思いが背中を押し、ついには頬へと流れてしまう。
けれども野亥はそれを隠そうともせず、感情のままに、勢いのまま身体と言葉を神小にぶつけた。
「あなたにとって……私はそんなものだったんですか……!?」
「…………ごめん」
"はい"とも"いいえ"とも言わない、言えない。
だから彼は、胸の中で涙を流す彼女へ謝罪することしかできなかった。
「そんな言葉……聞きたくありません……っ!」
とはいえ、野亥はそれで納得できるはずもなかった。
始まりが間違っていたいたら、その過程も全て間違っているというのか?
ならば催眠という切っ掛けから父親の過去を受け入れた自分は間違っているのか?
父親の死から立ち直ろうとしている母親も、間違っているというのか?
それでは本当に死した父親が救われないではないか。
だから彼女は彼の謝罪を受け入れることは、到底できない話であった。
そもそも――――神小の話には矛盾があったのだから。
「……私が今、あなたからどんな言葉を待ってるのか分からないんですか?」
しばらく考え込み、神小が口を開く。
「えっと……反省しています。許してもらう為なら、何でもします……」
「違います……」
「え? じゃあ……自首します……?」
「それも違います。もっと別の言葉です……」
神小にとって自分は加害者であり、野亥は被害者である。
あとはもう惨めな命乞いくらいしかないが、それを求めるような野亥ではないということは、神小も理解していた。
だからこそ、いま彼女が求めている言葉が分からなかった。
「もう……二度と目の前に現れません……?」
「違う……」
「……………死んで、償います?」
「違うっ!!」
あまりにも痛々しく悲痛な顔をする彼女を見て、神小の心にもわずかなトゲが刺さる。
彼女に罪はないのだから、これ以上の痛みを与えたくなかった。
だが、必死に頭を回転させても彼女の欲する言葉が思い浮かばない。
助けたいのに、助けられない。
それは奇しくも、彼と彼女の立場が入れ替わったものだった。
「あの日いった言葉はなんだったんですか……嘘だったんですか……!?」
嗚咽まじりに野亥が呟く。
神小は野亥に対して嘘を言ったことがない。
何故なら≪催眠アプリ≫を使っているならば記憶は消える、日常でもわざわざ嘘をつくような話はしてこなかったのだから。
「父さんの部屋にいた時の、あの言葉……私は、あれは本心だって思ってたんですよ……?」
神小が必死に脳細胞を刺激して、思い出そうとする。
もしかしたらという言葉はあった。
しかし、あれは本当に何気ない……ただの一言だった。
"好きな人の為に頑張ろうって、みんなやってることじゃないの?"
その言葉の動機は不純であった。
無理やりな行為よりも、相思相愛の方が良かった。
愛されたかった、だから最初に自分が愛そうとした。
本当に不純で単純な動機だが……何の装飾も誤魔化しもない、彼の心から出た本当の願いであった。
あの日、神小はたった一人で荷物を運び続けた。
誰かの記憶に残らないと言うことを知りながらも、深夜になるまで歩き続けた。
それだけは、絶対不変の真実であった。
「もしかして…………好き…………です……?」
野亥は何も言わなかった。
"違う"という言葉はなかった。
「………続きは?」
"好き"だという言葉に続く言葉といえば、神小の中には一つしかなかった。
どう考えても自分が言うべきではない、神聖な言葉。
死刑囚が讃美歌を歌うかのような冒涜的な行為。
だからここから逃げようしたが……野亥がしっかりと胸元を掴んでいて離さない。
神小は覚悟を決めて――――――告白する。
「…………好きです。付き合ってください」
彼女は何も言わない。
だが、胸の中で少しだけ震えたような気がした。
それでも彼の心の中では告白の返事は分かり切っていた。
いや、むしろそれ以外の返事などあってはならないと考えていた。
奇しくも、それは彼女と同じ答えであった。
「……ごめんなさい、あなたとは付き合えません。だって……心がメチャクチャにされて……あなたのことが好きなのかどうかも、分からないんですから……」
その謝罪は彼のような灰色の返事ではなく、明確な拒絶を意味するものであった。
告白した時点で、こうなることは分かっていた。
これは二人の関係性を終わらせる為に必要なケジメなのだから。
ふと、彼はこれまでのことを思い返す。
絶対に手に入ることのなかった、かけがえのない事件と日常の毎日を。
「ごめん、野亥さん。それと……ありがとう」
あの日常を一緒に過ごしてくれた彼女に、精いっぱいの感謝を伝える。
今は遠く思い出の中にしかない日常だが……それをもう惜しむことはない。
何故ならそれは、自分には過ぎたものだったのだから。
だからもう、こうして一緒にいる理由もなくなった。
彼はゆっくりと、優しく彼女の肩に手をかけて距離をとろうとする。
―――――だが、彼女の手の力は緩むどころか強まっていた。
「勝手に独りで結論を出して、勝手に独りで納得して、勝手に独りで終わろうとして…………本当に馬鹿な人……」
「……へっ?」
大粒の涙を眼に浮かべながら、彼女が真っ直ぐに彼へと顔を向ける。
「自分の心の中が分からなくなって言ったじゃないですか……もしかしたら"好き"なのかもしれないじゃないですか……ッ!」
「でも―――――」
「でも、じゃありません……! 自分で勝手になんでも結論づけて、終わらせて……私の気持ちはどうでもいいって言うんですか……!?」
そんなことはなかった。
むしろ、心の痛みをいち早くなんとかしてあげたいという気持ちばかりが先行していたくらいだ。
だからこそ、彼女は怒りで身体を震わせたのだろう。
自分独りでは何も考えられず、決断もできないと認めたくなくて……。
「…………待っててください、私の本当の気持ちが何なのか分かるまで。それが、あなたのやったことの責任です」
心が分からないのなら、目を背けず答えを見つめるまでのこと。
彼女は逃げず、彼に向かい続けることを告白した。
答えが見つかる、いつかその日まで―――――。
「あの……えっと……? 結局、俺は……何をどうすれば……?」
彼は何がどうなったのか理解できず、ただ混乱している。
そんな彼に、困ったような声色で彼女は答える。
「私の心の"好き"を見つけるなり、膨らませるなり、"好き"にすればいいじゃないですか」
そうすれば、今度こそ本当に彼の求めていた"好き"が手に入るのだから。
だがその言葉が耳に入っても、脳にまで届いていない。
彼はさらに困惑を極め、フリーズしていた。
彼女はそんな彼の胸元に顔を埋める。
「ほんと…………馬鹿な人」
そう言って、父親とは違う彼の匂いを思い切り吸い込むのであった。