学園祭前日、悪い噂ばかりであるせいで人が近づかない伝説の樹。
遠くから聞こえる学園祭の準備に勤しむ学生達の声を背に、二人の学生が対峙していた。
「……なんで土下座してるんですか」
「いや、そういう話の流れ的なやつなのかなって……」
神小は野亥からの呼び出しのメッセージを受けたが、メッセージから怒りだけではなく殺意まで滲み出ていた。
だから少しでも穏便にすませる為に、初手で土下座外交を選択したのであった。
「はぁ……見下されるのが好きなんですか? こんな状況でも自分の欲求に正直なんて、見下げ果てた人ですね。どんな人生を生きてきたんですか? あぁ、道具を使って女性を好き放題する人生ですよね? 知ってるので言わなくていいです」
「は……わ、ぁ………」
ある種の人間にとってはご褒美になるが、神小にとっては抜身の刀を振り回されているのに等しい状況であった。
ひとしきり言って満足したのか、野亥は一息ついてから再び口を開く。
「とりあえず立ってください。自分をわざと卑下させることで、私を悪者扱いしたいなら話は別ですけど」
「はいっ! 立ちます! ありがとうございます!」
まるで神小の方が催眠にかけられたかのように、素早い動作で起立する。
≪催眠アプリ≫を使っていた時とは全く逆の立場である。
そうしてしばらくの沈黙が訪れる。
怒りに身を任せていたものの、野亥の中では事前にどうするかを決めていた。
だが、いざここに来てみれば他の感情が湧き上がり、頭の中にあった段取りの全て吹き飛んだ。
つまり、神小以上にどうすればいいのか分からなくなっていた。
それでも顔に表さず、無表情をつらぬいているのは流石だ。
おかげで神小は余計に恐ろしく感じ、心胆は冷えきっていた。
野亥は必死で頭の中で理屈を組み立てる。
だが、そのどれもがピースの合わないパズルのようにうまくいかなかった。
当然である。
感情の問題を理屈で解決しようとすれば、歪みが出てしまうのだから。
だから彼女は、感情を感情のままに吐き出すことにした。
「今から独り言を言います。返事はしないでください」
「え? は、はい……」
「返 事 は し な い」
神小が慌てて口をふさぎ、首を縦に振る。
あきれるような顔をして、野亥はとつとつと語りだした。
「あなたは最低の人間です。未遂だろうと、あなたはあの時、私を襲おうとしました。しかも、泣いてる私を放っておいて勝手に逃げて……本当に、最低です」
「憎くて、憎くて……なのに勝手に"好き"だなんて感情も植え付けられたせいで、見たくもないのにあなたのことを勝手に目で追うようになって……」
「家族の問題にも恩着せがましく頭を突っ込んで、ゆかりの問題にまで頭を突っ込んで、何なんですか本当に……"好き"って気持ちがなかったら突き放せたのに……」
「しかも事件の時なんか血まみれになってて……あの時、本当に怖かったんですよ。なのに"好き"だから止めないとって思って……本当に厄介な感情で……」
「入院して催眠状態のままの時なんか、本気でどうしようって悩んで……事件の時もですけど、どうしてそこまで傷つくことに慣れてるんですか……!」
「"好き"って気持ちがなければとっくに見捨ててたのに、どうして……どうして、そんなに自分を粗末にできるんですか……心配させないでくださいよ……!」
「全部、全部……あなたのせいなんです……! "好き"だなんて感情がなければ、あんなことしなかった、思うこともなかった……!」
「なのに、急にそれを"好き"って感情だけを取り上げて……何なんですか!? 意味が分からない……!! もう自分でもツライのかニクイのかカナシイのかも分からない……!!」
「こんなことになるなら………最初から"好き"だなんて感情、要らなかった……! 一生、気づきたくなかった……!!」
まるで慟哭のような野亥の叫びが、神小の心へと突き刺さる。
野亥の感情の問題は、想像よりも根深いものであった。
催眠状態は通常状態の記憶も保持しているが、通常状態では催眠状態の記憶を保持していない。
だが、感情だけは別であった。
記憶はパーテションで分けられても、心という器は一つ。
かつての凶悪犯が神小を見た時に殺意を思い出したように、感情は心の奥底で眠らされているだけで、なくなってはいないのだ。
だから野亥にとって≪催眠アプリ≫の再起動は大問題であったのだ。
いつもの日常で積み重ねた感情が大きければ大きいほど、記憶と感情の統合で発生する反動はとてつもないものになるのだから。
それでもコンクリフトを起こしていた心の不整合性を吐露したことで、少しだけ彼女の心は楽になった。
「はぁ……はぁ……結局のところ、何も分からないんです……自分のことが……だから聞かせてください」
目は潤み、肩で息をしているが、野亥の顔は真っ直ぐに神小を見つめる。
「あなたにとって、私は何なんですか?」
問題の根本といえば≪催眠アプリ≫と神小だろう。
ならばこれは、二人の関係性の本質をつく問い。
これほどまでに野亥を振り回した神小にとって、彼女はどういう人間なのか。
それは神小という人間を表す問いでもあった。
他人のことならばまだしも、神小は自分のことになると大雑把……おざなりになる。
だからこの問いには簡単に答えられないはずだった。
だが、彼は答えをとうの昔に用意していた。
「……被害者の一人だよ」
それはある意味において、最低最悪の答えであった。