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第28話:呪いの開放

「今までの催眠……全部?」


 その言葉に、神小は思わず唾を飲み込む。

 催眠が解けるということは、今までかかっていたセーフティが全てなくなるということだ。


 無論、警察に駆け込まれる可能性も考えられるが、≪催眠アプリ≫の存在が知られることはない。

 そもそも痕跡を残さずに遠隔でアプリのインストールやアンインストールなどを行ってきたのだ。

 アプリを消してしまえば警察は追うことができず、野亥が錯乱したと判断するしかない。


 その後はどうなるか?

 怒りに身を任せて罵詈雑言を投げつけられるくらいならば、まだマシだ。

 誰にも信じられなくなったことで心を病み……そして……最悪の結末も考えられる。

 神小がそれをどうにかするには、≪催眠アプリ≫を無理やり使うくらいしかない。


 ≪催眠アプリ≫によって引き起こされた問題を≪催眠アプリ≫で解決する。

 それはつまり、≪催眠アプリ≫という鎖に縛り続けられる一生ということだ。


 また、≪催眠アプリ≫で錯乱する野亥を正常な状態に戻したと仮定する。

 表面上はマトモに話すこともできるだろうが、神小の内心は穏やかではない。


 正常な反応を、催眠によって無理やり抑えつけ、都合のいいようにする。

 それは心の凌辱だ。

 そうなれば、神小は野亥と話す度に己のしたことを直視することになる。


 神小ならばそれにも耐えうるだろうが、ツライことには変わりない。

 それが一生続くということならば……いっそ、病めた方がマシだろう。


 もちろん野亥が錯乱しない可能性も有るが、どちらにせよ今までと同じように接することはないだろう。


 つまり≪催眠アプリ≫の効果を解くということは、これまで積み上げてきた時間の全てを、自分の手で壊すことと同じことなのだ。


 言葉を失う神小に、開発者が悪魔の囁きを呟く。


『まぁ催眠を解かないという選択肢もあるがな』

「は!? 解かなかったら治らないって言ってなかった!?」

『定期的に頭痛はあるだろう。だが死ぬこともなければ病気を併発することもない』


 頭痛は催眠の上書き時に発生したコンクリフトが痛みとして出力されているだけである。

 故に脳に何か異常が起きることもなく、本当に痛みがあるだけなのだ。


 開発者としては、発生した問題をそのままにしておくことをプライドが許さなかった。

 だから野亥の頭痛について説明したのだ。

 だが、今その問題をそのままにしてもいいと言った。


 自身のプライドと、神小と野亥の一生。

 それらを天秤にかけ、選択させることにしたのだ。


「解かなくても……いい……でも、そうしたら頭痛はそのまま……」


 眠る野亥を見て、神小は自分の頭に拳を突き立てて力を込める。

 当たり前のように痛みが頭を襲い、野亥がこれと一生付き合っていくことのツラさを想像してしまった。


 頭痛というものは思っているよりも日常的なものである。

 気圧によるものや片頭痛を小さな頃から味わっており、それが普通であるという人は珍しくない。


 だから野亥の頭痛もそれと同じだと思えれば楽だったが……彼には無理だった。


 もしも頭痛が自分のものであれば、いくらでも我慢できただろう。

 だが他人に痛みを背負わせることには大きな抵抗があった。


 神小は独りで生きていられる人間である。

 目の前で誰かが車で轢かれたとして、その痛みを感じることはない。

 轢かれたのが他人で、自分は関係ないからだ。

 だからこそ、その痛みについて人一倍考える人間だった。


 痛みを共感すること、それは他人にできて自分にはできないこと。

 邪魔なように感じてしまうソレを捨ててしまえば、本当に独りでしか生きられなくなるだろうから。


 "独りで生きていられる"ということと、"独りでしか生きていられない"というのは似ているようで全く違うものだから。


 それを理解しながら、なお苦悩していた。

 ≪催眠アプリ≫が切っ掛けで野亥と普通に会話できた、一緒に帰ることもできた。

 一緒に寄り道をしたこともあれば、一緒に勉強もしてメールで連絡もした。


 これからもそんな日常と青春を謳歌できるかもしれない……その可能性を、自分の手で潰すだから。


 悲壮な顔をして悩む神小に、もう一人の犠牲者が声をかけた。


「あたしとしては、どっちでもいいと思うんすよね。それこそ頭痛なんて一か月に一回あるのが当たり前っすから」

「それってもしかして……あのぉー……ひな祭りの日的な……?」

「頑張ってぼかしたと思いますけど、減点ものっすからね」


 ゆかりは一つ咳払いをして、続ける。


「それでも神小くんは催眠を解いてあげたい、だけどこれまでと関係が変わるから怖い……ってことっすよね。なら実際にそうなるのか本番前に試してみればいいじゃないっすか」

「本番前……?」

「ちょっと、忘れちゃったんすか? あたしも催眠されてるんすよ」


 そういえばそうだと神小が手を叩くも、すぐに頭を横に振る。


「いやいやいや! だからって、それに何の意味が!?」

「あたしの催眠を解いてもいつも通りだったら成功。もし……もしも変わったら失敗……催眠を解くのは延期にしようってだけっすよ」

「延期……? あ、そうか。別に今すぐやらないと駄目ってわけじゃないから!」

「そうそう! でも、あたしは大丈夫だと思うっすよ」


 ゆかりが笑顔で太鼓判を押すも、神小はそれを信じ切れていなかった。

 だから彼女は、両手で彼の手を包み込むように握る。


「確かに催眠しちゃったのはマイナスっす。けど、神小くんのカッコイイところも、頑張ってきたところも見てきたっす。だからきっと大丈夫っすよ!」


 そう言って、神小を励ました。

 その笑顔はまるで太陽のようであり、鬱屈としていた神小の心の影を少しだけ晴らせることができた。


「うん……分かった、やろう。≪催眠アプリ≫リブート!」

「えっ!? ちょっと流石に心の準備くら―――――」


 問答無用といわんばかりに、ゆかりにかかっていた催眠効果が解除された。

 彼女の動きは止まり、神小はどうなるかと固唾をのんで見守る。


「………………ぁ」

「あ?」

「ぴょわあああああぁぁ!? いやああぁっ! 恥ずいっ! 恥ずかしい~~!!」


 ゆかりは両手で顔を抑えて地面を転がる。

 スカートがめくれるのも構わずに転げまわっているせいで、パンツが見えてしまいそうであった。


「ゆ、ゆかりさん!? スカートが!! っていうか、失敗!? やっぱダメだった!?」

「あああああううぅぅ!………ちょっと……ちょっと待ってほしいっす……」


 ひとしきり転げまわった後、ゆかりは呼吸を整えて立ち上がった。


「はい……大丈夫っす……」

「大丈夫って様子じゃなかったんですが」

「いやぁ~予想以上に色々とあったというか、納得できたというか……」


 どうして神小と野亥に接点ができたのか?

 どうして神小と野亥の距離が近くなっていったのか?

 どうして自分がその間に入ろうとしたのか?

 どうしてあんなにも彼に惹かれてしまったのか―――――。


 ≪催眠アプリ≫から解き放たれ、全ての答えを得た。

 彼女は自身の感情の理由を理解してしまい、羞恥心でおかしくなりかけたのであった。


「ハァ……ハァ……なんにせよ、これで信じてもらえたっすね?」

「なんか別の問題がありそうだけど、まぁ大体は……」


 若干の不安はあるものの、最悪を想定していた神小からすれば問題のない反応であった。

 そして、もうすぐで睡眠が解除される30分となっていた。


 心臓がバクバクと鳴り緊張している神小に、ゆかりは優しい声で励ます。


「大丈夫、成功するっすよ。だってこれまで何回も一緒に勉強したり、話したりしてたじゃないっすか。嫌いだったら、絶対にそんなことしてないっすよ」


 野亥の目が覚める。

 神小はゆかりの声に背を押され、野亥に≪催眠アプリ≫を向けた。


「≪催眠アプリ≫………リブート!」

「えっ?」


 下手に躊躇すれば迷いが生まれるが故の速攻であった。

 先ほどと同じように野亥の動きは止まり、ゆかりと神小がその様子を見守る。

 ほどなくして、野亥が重苦しい動きでベッドから身体を起き上がらせた。


「あの~、野亥ちゃん? 大丈夫そう……っすかぁ?」


 ゆかりが恐る恐る話しかけると、野亥がゆっくり彼女の方へと顔を向ける。


「ぁ……………」


 そうして神小の顔と―――――その手に持つ≪催眠アプリ≫が目に入ってしまった。


「ああああああああああああああッアアアアアアアアァァ!!」


 絶叫、そして暴走。


「ちょ、ちょっと野亥ちゃん落ち着いて!?」

「あああアァッ!! ウアアアアアアアァァァ!!」


 ゆかりが肩を抱いて落ち着かせようとするも、暴れる野亥によって突き飛ばされてしまう。


「ゆかりさんっ!」

「あたしは大丈夫っす! それより野亥ちゃんを!」


 神小が野亥へと向き直るが、彼女はさらなる狂乱状態となってしまった。


「お願いッ止めてェ!! それを!! あたしに向けないでえええぇぇ!!」


 野亥の視線の先に≪催眠アプリ≫があることに気付いた神小。

 これが彼女の暴れる理由なのだと判断し、すぐさまスマホを投げ捨て両手を上げて降参のポーズを取る。


「はい! 捨てた! 大丈夫! 何もしないから、大丈夫だから……!」

「ハァー……ハァー……! ハアアァァ……!!」


 野亥の動きが少しだけ落ち着く。

 そこでようやく、神小は彼女の瞳を真っ直ぐに見ることができた。


 そこにはたった一つの……それでいて、彼女から一度も向けられたことのなかった感情に満たされていた。

 怖れだ。


 今まで野亥は神小と普通に接することができていただろう。

 それには大きな理由があった。

 ≪催眠アプリ≫で二番目に埋め込まれた"この男を好きになれ"という呪いである。


 一番最初、彼女は憎しみを抱いていた。

 それこそ好きという感情を凌駕するほどに。

 だが、この呪いは野亥の心の奥底に住み着いた。


 それはつまり、神小の全てに対して好意というフィルターが掛かっているということだ。


 友人を助けてくれて感謝している?

 当たり前だ、好きなのだから。


 クラスで注目されるのに話しかけてくれた?

 当たり前だ、好きなのだから。


 一緒に下校し、デートのような寄り道もした?

 当たり前だ、好きなのだから。


 人殺しにならないよう、身体をはって止めた?

 当たり前だ、好きなのだから。


 父親の面影を重ねてしまった?

 当たり前だ――――――自分ではどうにもできない、好きなのだから。


 だが、その呪いが解かれた。

 今までの行動の全てからそのフィルターが外れてしまった。


 自分が絶対に言わないようなことを言った。

 自分が絶対にしないようなことをしていた。


 まるで自分が自分ではないような記憶は、恐怖でしかなかった。


 だから野亥は暴れているように見えて、怯えていたのだ。

 自分を自分ではないものにしてしまう神小と……≪催眠アプリ≫を。


「の、野亥さん? 落ち着いて……とりあえず、深呼吸して……何もしないから……」

「くっ、来るな……来ないでェ!!」


 怖がらせないよう神小が優しく声をかけるも、それすらも野亥にとっては自身を脅かすモノにしか見えなかった。


 野亥はベッドから滑り落ちるように離れ、扉を開けようとする。

 しかしカギがかかっているせいで、ガチャガチャと音を鳴らすだけだった。


「なんで、なんで、なんで!……なんで開かないの!?」


 カギがかかっていることに気付けないほど錯乱していたが、なんとかカギを外してそのまま逃げるように保健室を出て行ってしまった。


「あっ……野亥ちゃん、待って! お願い!」

「お、俺も!」

「ダメっす! 神小くんが来ないで!!」


 ゆかり本人はそこまで強く言うつもりはなかったが、切羽詰まった状況のせいで声色が強くなってしまう。

 そのせいで神小は一歩も動けなくなってしまった。

 だがそれを気にするよりも先に、野亥を追わなければならなかった。


 野亥の後を追うように、ゆかりも走って保健室を出ていった。


 あとに残されたのは、ただ独りだけであった。


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