そして深夜…………神小の病室に音もなく忍び寄る一つの影があった。
その影は悠々と病室へ入り、神小のアゴを手で支えてスマホの画面を……≪催眠アプリ≫を見せつけた。
「≪催眠アプリ≫……解除」
その呪文の言葉によって神小の止まったままの時は動き出し、正気を取り戻した。
「ぁー…………はっ!? え、あれ? 野亥さん!? なんで≪催眠アプリ≫を!?」
突然の事態に驚きつつ、神小は嫌な予感を感じていた。
なにせ、相手の手に≪催眠アプリ≫があるのだ。
アレがあれば何でもできる……文字通り、生殺与奪の権利が握られているのと同義である。
だが、その心配は杞憂に終わるのであった。
『まったく、アセットミスでこうなるとはな。次からセーフティも組み込んでおいてやる』
野亥が持っているスマホから、聞きなれた声が聞こえる。
忘れようにも忘れられない、≪催眠アプリ≫の開発者だ。
「ちょっと待った! なんでそっちのスマホから喋ってんの!? ってか野亥さんに≪催眠アプリ≫渡したのアンタなの!? ってかイダダダ! 腕がめっちゃ痛い!」
『騒がしい奴だな。もう一度画面を見ろ、何とかしてやる』
そう言うと≪催眠アプリ≫の画面が切り替わり、神小に新しい催眠がかけられる。
『痛みを緩和しておいた。それと、傷の治りも多少は早くなるはずだ。感謝しろ』
「お、おぉー……ありがと。……ってか、今どういう状況なの!?」
痛みがなくなっても騒がしい神小を見て、開発者がやれやれといった感じで説明する。
『自分でアセット・ゼロの催眠をかけてからこれまでの記憶はあるな?』
「そりゃあね、消す設定を入れる理由ないもん。だから事件が解決したっぽいことは知ってるけど」
『端的に説明するなら、こちらで催眠を解こうにもお前のスマホが壊れたせいで干渉できなかった。だから新しいスマホを調達し、女のカバンに仕込んだというわけだ』
神小が頷きながら聞いていたが、途中で首をかしげる。
「ん? 野亥さんのカバンに仕込んだ?……ってことは、直接来たの!? 野亥さん、どんな顔してたか分かる?」
「いえ、見てないです。怪しい人が接触したなら、覚えているはずですが……」
『馬鹿者。私はアプリの開発者だぞ? 遠隔から他人を催眠して仕込むくらい出来る』
こんなアプリを開発したのはどんな奴なのか気になっていた神小だが、手がかりがないことを聞かされると分かりやすく肩を落とした。
「なぁ~んだ……SNSにアップしようと思ったのに……」
『ブチ殺すぞ、クソガキ。お前に最新のスマホを調達してやったというのに。なんならお前の口座から代金を引き落としてもいいんだぞ』
「あれ20万くらいしなかったっけ!? いやー、流石は御大臣様!」
『恐らく勘違いしているから教えてやるが、"おだいじんさま"は"お大尽様"と書くのが正しいからな』
「マジで!? ずっと賄賂とか受け取る腹黒大臣だと思ってた!!」
『そうか、そうか。つまりお前は私のことをそう思っていたのだな?』
いつものように軽口を叩き合う神小と開発者。
それを野亥は暗い顔をして見ており、神小がそれに気付いた。
「あれ、どったの? もしかして野亥さんも新しいスマホ欲しい感じ?」
「…………何も、変わってないんですね」
明るい神小とは対照的に、野亥は深刻そうに顔を俯けている。
「もう少しで人を殺すところだったんですよ……なのに、どうして普通にしてられるんですか」
「あー……ふ、不謹慎ってことっスよね? はい、分かります、反省して――――」
「分かってないじゃないですか!」
今まで聞いたことのないくらいに張り上げられた声に、思わず驚く。
「あれだけのことがあったんです……もっと取り乱したり、弱音くらい吐いたっていいじゃないですか」
それを聞き、神小はギブスをつけた両腕を器用に組む。
「弱音……弱音…………いや、特にないかなぁ。だって、ああなるだろうって知ってたし。死なせなかっただけ上等かなって」
「し、知ってた……?」
「うん。じゃないと、あんなアセット組まないよ。あ、殺意はなかったよ!? あったらナイフ奪った時にそれで刺して終わりだったし」
信じられないものを見るように、野亥が後ずさる。
「だって、犯人が死のうが死ぬまいが事件は解決するじゃん? まぁ警察に色々言われたりするだろうけど、未成年だし正当防衛もワンチャンあるし、それに――――」
野亥を安心させるように、笑顔で言う。
「俺が人殺しって言われるだけで、もう被害者が出ないならそれでハッピーエンドじゃない?」
人殺しと呼ばれようとも、それが最高の結末だと言い切って見せた。
本人に自己犠牲のつもりはない。
利害の天秤に、自分が存在していないわけでもない。
ただ、彼の見た犠牲者は皆大きな傷を負っていた。
それこそ一生を費やしても癒せるかどうか分からないほどのものを。
それに比べれば、己の悪評くらいなんでもなかった。
他者からの評価に頼らず、拠って立たずとも、なんともない人生だったから。
良く言えば、精神が自立していると言える。
悪く言えば、他者を必要としていない言える。
確かに神小はモテたいと言っている、承認されたいと思っている。
だがあったら嬉しいが、無ければ無いで構わないとも思っている。
要約してしまえば、彼にとって今回の事件は――――必要ないものの、延長線上にあるものでしかなかった。
もし人類が彼を一人残して滅んだとしても、彼は最期まで独りで生き続けるだろう。
なぜなら他者が無くとも、生きていけるからだ。
「…………っ!」
「あれ、野亥さん?……えっ、泣いてる!? ァィェ、ナンデ!?」
野亥の心から溢れ出る悔しさが、涙となってとめどなく流れ出る。
他者を必要していないとはいえ、それで傷つかないわけがない。
彼女の目には、全身がズタズタになりながらも笑っているように見えた。
そしてその傷に何もしてあげられないことが……悔しくてたまらなかったのだ。
「やばい、やばい、やばいよぉ!? どうすればいいのこれぇ!?」
『ナースコールでも押せばどうだ』
「それだぁ!!」
両腕をギブスで固定されていたが、器用に扱いなんとかナースコールのボタンを押す。
その数秒後、病室の扉が開かれた。
「おー!……なんだ、意識不明とか聞いてたのに元気そうじゃねぇか」
「げぇっ、とーちゃん!?」
入ってきたのは、まさかの神小の父親であった。
「助けて、とーちゃん! 何もしてないのに泣いちゃった! どうしたらいいの!?」
「死ぬしかないな」
「!?」
流石は親子というべきか、ほとんど一緒に暮らしたことがないとはいえ呼吸はバッチリであった。
「つうか、かーちゃん泣かせたことないからな。とーちゃんも知らねぇんだ」
「さらっと惚気ないで……助けて……」
げっそりとした顔で神小は助けを求めるが、父親は豪快に笑うだけだった。
「いやー、それにしても病室に彼女を連れ込むとはやるなぁ。……やったのか?」
「やってないよ! っていうか彼女じゃないよ!? 殺されるからもう喋らないで!」
「……彼女じゃない女の子を病室に連れ込む方がやばいんじゃないか?」
「ッスゥー……それは、そのぉ……ほら……持ってきてほしいものを頼む為というか……」
神小はとても気まずそうに目を逸らし、言葉を濁す。
「おー、それで思い出した。着替えとか持ってきたぞ」
「それは普通に助かる。ありがと」
「だがその腕じゃ着替えられんな。どれ、久々にとーちゃんが替えてやろうか」
「いだだだだ! 腕を無理に動かさないで! ふつーに痛いから!」
久しぶりの親子のスキンシップを味わい、神小もようやく日常を実感した。
その日常を壊すように、誰かが入ってきた。
「すみません、ナースコールが鳴ったのですが……って、意識が戻られたんですか! よかったぁ~……」
看護師は元気に動く神小を見て、ひとまず安堵のため息をはいた。
「それはそうと神小さんのお父さん、今日はもう面会時間は終わっております。担当医もいませんので、明日また改めてご来院ください」
「いやはや、すみません。かなりの重体だと聞いてたもので、つい」
看護師に促され、神小の父親が病室から出ていく。
「入院……ヒマだったら、メールしてくれていいから」
そう言い残し、野亥も病室から出ていった。
「え……メール? つまり……文通ってこと!? ひゃっほぅ!」
浮かれる神小だが、忘れていた……自身の腕がギブスで固められ、ロクにスマホを操作できないことを。