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第19話:ヒトを脱ぎ捨てる時

 むき出しの殺意と狂気を向けられながらも、神小は揺るがなかった。

 ≪催眠アプリ≫、初めての暴力、そして被害者との邂逅……既に非日常へと踏み込んでいた彼は、とうに頭のスイッチを非日常のものへと切り替えていた。


 男が大きく振りかぶったナイフを脳天めがけて振り下ろすが、神小はさらに一歩踏み込み男の懐へと潜り込む。

 男のもう片方の手が神小の髪を掴むが、彼の手には起動済みの≪催眠アプリ≫があった。


 撮影されていると知りながら、それでもその手段を使うことを躊躇せずに男へ画面を向けながら拳を振るう。


「眠ってろおぉ!」


 ここで"死ね"という単語を使わなかったのは、彼の最後の最後の一線だったのかもしれない。


 だが、神小は突如腹部に襲い掛かる痛みに悶絶した。


「ヵ……はっ……!?」


 違法な筋肉増強剤とドーピングを使い身体が肥大化し、さらにナイフを持つ相手にスマホの画面を向けることは正常な判断か?

 否、異常である。


 だというのに、目の前の未成年は恐怖に狂うこともなく向かってきている。

 ならば、そこに何かトリックがあることは明白。


 犯人の男はスマホから視線を逸らし、神小の腹部へと膝を叩き込む。

 目を閉じ逸らしていたことでクリーンヒットはしなかったが、少し遅れて胃液を吐き出させるほどの威力はあった。


 痛みがおさまるまで見届ける義理など犯人の男にはなく、今度は本気の蹴りを神小へと繰り出した。


「っ!?」


 犯人の男の蹴りは掴んでいた髪が引きちぎれ、後方へと吹き飛ぶほどのものであった。

 しかし、神小は立ち上がった。

 髪が千切れたのは、神小が全力で後方へと飛び下がったせいであり、だからこそ蹴りの威力を殺すことに成功していたのだ。


「く……ぁ……!!」


 それでもダメージは大きく、鼻腔が充満するほどの血と臭いが、呼吸に大きな支障を与えていた。

 そして、それよりも大きな問題がある……≪催眠アプリ≫が効かないという事実だ。


 一目でも画面を見せれば勝ちとなるが、逆に言えばそれ以外での勝ち筋は一切ない。

 ここから逃げることだけが正しい選択肢である。


 だが、神小はその選択肢を選ばなかった。


「スゥー…………アセット・ゼロ、起動」


 そう呟いてスマホの画面を見た瞬間、先ほどまで必死の形相を浮かべていた神小の表情が、一切の感情を表さないモノへと変貌する。


 アセット・ゼロ、神小が初めて設定した機能である。

 数字を連番にして間違って使えば大きな問題となるが故に、絶対に間違えないゼロ番台のアセット。


 今の彼は人間……いや、生物として備わった機能の大部分をシャットアウトしている。

 喜び・悲しみ・怒りといった感情。

 触覚・嗅覚・味覚・痛覚といった感覚。

 そして優しさ・同情・良心といったヒトとしてのリミッター。


 目的以外のモノを排して――――"敵を倒す"ことだけに全ての機能を集中させた催眠状態である。


 突如として雰囲気が変わった神小を見て、犯人の男が警戒する。

 警戒した状態でありながらも、身体のリミッターが解除された神小への反応が遅れて一気に距離を詰められる。


 咄嗟にナイフによる反撃は間に合い、防御しようとしたスマホもろともその手を貫通させてしまった。


 これでスマホに注意をする必要がなくなったと、男がほくそ笑む。

 ――――貫通した手で、ナイフごと手を握りしめられるまでは。


「こッ……テメッ!」


 振り払おうともするも、振りほどけない。

 人間が持ちうる限界まで身体能力を発揮しているのだ、そう簡単に手が離れるわけがない。


 犯人の男の動揺を察知し、神小は身体全体を使い男のアゴへと頭突きを炸裂させる。

 一般的な高校生の重量が凄まじい速度で衝突したことで、犯人の男は足をふらつかせ地面に尻もちをついてしまった。


 混乱する男に容赦などするはずもなく、神小は全力で男の顔面を殴りつけた。


 殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る―――――。


 犯人の男がナイフから手を離すと、神小も握っていた男の手を離し――――ナイフが突き刺さったままの手で殴り始めた。


 本来、人間の身体にはリミッターがかけられており、だからこそ自分で自分の身体を壊さないようにしている。

 だが、アセット・ゼロは、神小の用意した最終手段であった。


 身体のリミッターが外れるだけではなく、≪催眠アプリ≫によって限界以上の力を発揮できるようになっていた。


 犯人の男を殴る音の質が変わっていく。

 男の骨は砕け、肉へと突き刺さる。

 それだけに留まらず、神小の腕の骨も折れ、筋線維も千切れ始めていっている。


 それでも殴る手は一向に止まる気配はない。

 何故ならまだ敵を倒したという判定がされていなかったからだ。


 相手は自分よりも遥かに強い敵である。

 もしも立ち上がり反撃を許せば負ける可能性がある。

 だからその可能性を完全に叩き潰すまで、止まらないのだ。


 殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る――――。


 犯人の男の顔からは噴水のように血が吹き出している。

 それでも神小は止まらない。


 殴る両手は自身と男の血で真っ赤に染まっている。

 それでもまだ止まらない。


「か……神小……くん………それ以上は……死んじゃうっすよぉ………っ!」


 惨劇を見ていたゆかりが、なけなしの勇気を振り絞り、大粒の涙を流しながら神小の腕にしがみつき止めようとする。

 彼に……人を殺してほしくなかったが故に。


 腕の骨はとうに折れ、拳からはむき出しの骨すら見えている。

 それでも神小は止まらなかった。


 スマホはその地獄で奏でられるような音を拾い続ける。

 最初は心配していた者達も、一方的な処刑によって繰り広げられるその音に心を蝕まれ、恐怖に呑まれていた。


 犯人の男の顔からはもう血はほとんど出ていない。

 神小の顔は鮮血で真っ赤に染まり、もはや人の顔だと判別することもできなかった。

 それでも神小には止まる理由は――――――。


 視界が急に真っ暗に染まる。

 触覚が動作してないが、誰かが邪魔をしていることは分かった。


「もういい………もう、いいから………大丈夫だから………」


 それは、神小の後を追った野亥であった。

 彼女は返り血に染まった神小を真正面から抱きしめ、優しい声で語り掛ける。


「大丈夫……大丈夫…………もう、怖いものは何にもないから………」


 視界を塞がれ、敵が見当たらない。

 神小は――――――ようやく止まった。

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