健全なる男子ならば聞いたことがあるだろう。
『時間停止』『催眠術』『オタクに優しいギャル』などといった言葉を。
男たるもの、それを一度は信じ……そして存在しないことに涙を流したことだろう。
主語が大きすぎる気もするが、おおむね間違っていないはずである。
つまり、男は『最初から好感度の高い義理の妹』や『幼いころに結婚を約束した幼馴染』という存在しないものを求め続けている。
もしも実在していると豪語する者がいたならば、聖人ですら「その者に石を投げよ」と言うだろう。
しかし、もしも……もしも実在していたならば、どうなるのか?
「なんだこりゃ……≪催眠アプリ≫?」
一人の学生が手に入れてしまった≪催眠アプリ≫。
それこそが彼の人生が狂い始めた瞬間であった。
「いや~……まさか本物とはなぁ」
人気のない放課後、教室に残る一人の女子クラスメイト……この整いすぎた場面で彼は使わないだろうか。
いや、使う。使った、≪催眠アプリ≫を。
「――やることやってすぐ逃げたけど、バレないよな……?」
初めての背徳的な行為を終えた彼はすぐさま自宅に戻り、≪催眠アプリ≫の設定を確認していた。
「うわ、レビュー機能あるじゃん。一応書いとくか。"今まで女性に見向きもされなかった僕ですが、このアプリのおかげで超モテモテになりました。★5です"っと」
まるでBOTで書かれたような文章だが、それを気にせず彼はレビューを送信しようとする。
しかし、何度ボタンを押しても送信できなかった。
「"レビューが送れませんでした。バグです。★4です"っと……」
レビューが送れないなら何の意味もない文章である。
『仕様だわこのクソたわけがああぁぁぁ!!』
そんな馬鹿なことをしていたせいか、彼のスマホから大音量の怒声が飛び込んできた。
「うわああぁぁやっぱりビックリ系のアプリだあああぁぁ!! ★1にしないと!!」
『だから仕様だと言っとろうがこのクソボケがぁ!』
突然の事態に戸惑いながらも、尋ねる。
「えっ! だ、誰なんスかアンタ!?」
『その≪催眠アプリ≫だッ!』
「開発者さん! レビュー送れません! バグです!」
『イタズラや迷惑ユーザーを弾く為に≪催眠アプリ≫をしっかり使うまでロックされているだけだ!』
開発者を自称する男の言葉を聞き、彼は首をかしげる。
「使うまで……? 俺、ちゃんと使いましたけど――」
『あぁ、クラスメイトの女子に使ったな。だが、そのあとどうした?』
「どうしたって……」
『何もせずに走って逃げたではないかぁっ!!』
「ひぃっ! な、なんで知ってんスかぁ!?」
自らの弱みを握られたことで腰を抜かす彼だったが、自称開発者の男は構わずに言葉を続ける。
『なぜ知っているかなど、近所の野良ネコの散歩ルートくらいどうでもいい! 重要なのは、なぜ逃げたのかだ! 言え! 何が悪かったというのだ!』
「なぜって……それは――」
状況を受け入れられず思考が鈍化した彼は、言われるがままにその時の状況を語りだした。
「よーし、まずは下着でも見せてもらおっかなぁ~?」
「…………」
夕暮れに照らされた教室に取り残された一人の女子生徒は、口を引き締めながらもゆっくりと服をたくしあげる。
彼はその様子を見て、満足するようないやらしい笑みを浮かべていた。
「ぐふふふ、いつもお高くとまってる[野亥 薔薇(のい ばら)]ちゃん、いまどんな気持ち? これから俺にエロエロなことされるけどどんな気持ちぃ~!?」
「……最低。触られるのも嫌なのに、こんな姿を見られるなんて、死にたくなるくらい最低の気分です」
「えっへっへ、そうだろうねぇ~!」
≪催眠アプリ≫によって都合のいい操り人形になった彼女の言葉は、彼の欲望をかきたてるだけ。
彼はクラスでモテナイ男のワーストに入る男だからこそ、高嶺の花を穢したいという願望があった。
しかし、それが間違いだった。
「しかも相手がこんなの……死んでいっか」
「ほぁっ……?」
"死"という単語が彼の脳に叩き込まれ、一瞬正気に戻りかける。
"それでも”という気持ちから彼女に手を伸ばすが――
「―――死んでやる」
「ゎ……ぁ……ぁっ………」
さしも欲望に身を任せた男であろうとも、ただの学生だ。
涙を流し、死を決意する女性に手を出す勇気などあるはずもなく……。
「わあああぁぁぁぁっ!!」
逃げた。
それはもう陸上部ばりにダッシュで逃げた。
「…………ぁれ? えっ!? 私、なんでこんな格好してたの……?」
残されたものは、≪催眠アプリ≫の初期設定により催眠中の記憶をなくした彼女だけであった。
話を戻し、そうして彼は一つの結論を導き出した。
それは―――
「可哀相は!!!! 抜けないっ!!!!」
スマホ越しからでも届くほどの迫力に≪催眠アプリ≫を開発した男は怯みながらも、問いただす。
『か、可哀相は抜けない……!? どういう意味だ説明しろォ!!』
「言葉の意味のまんまだよ! 可哀相だとエロイことできねぇんだよ!!」
『そんな訳があるかぁ! キサマのスマホの検索履歴、キャッシュ情報からもそういったものを好んでいることは分かっている! 嘘や誤魔化しが通じると思うなよ!』
「そうだよ! そういうの好きで二次元で色々集めてたよ! だから実際にやろうとしたんだよ! だけど……だけど……実際に目の前にいる人の人生がメチャクチャになるって考えたら、可哀相って感情がきてどうしようもないんだよッ!!」
それは優しさか、あるいは小心か。
どちらにせよ、あまりにも若く……涙を流すほどの哀しき慟哭であった。
『記憶を消せば問題あるまい。その為の≪催眠アプリ≫だぞ』
「いや、ムリっす。というか俺、気づいたんスよ。人に嫌われながら好き勝手するよりも、現実なら相思相愛のラブラブちゅっちゅな甘々エッチがいいって」
ちなみにこれは、今の彼には夢や理想という言葉よりも遠い願望である。
「あとついでにいろんな人に好かれたい。めっちゃ人気者になりたい。学園のアイドルって呼ばれたいし、登録者100万人の動画投稿者になりたい……」
『お前、繊細なのか図太いのかどっちかにしろ』
補足するまでもないが、これは先ほどの願望よりも更に遠く果てにある願望とも呼べないナニかである。
「……まぁそういう理由があるんで、≪催眠アプリ≫を使うのは止めときます。だから他の人の所に行ってくれませんか」
『いいや、駄目だ。許さん』
「ほぁっ!?」
『いいか? その≪催眠アプリ≫のコンセプトは"どんな馬鹿でも欲望のままに人を操れる"ものだ』
「その通りでしたね。失敗しましたけど」
『そう、その失敗が重要だ。確かの他の奴に≪催眠アプリ≫を渡せば想定した通りの動きをして、想定した通りの結果を出すだろう。それでは意味がないのだ』
不思議そうに首をかしげる彼に、開発者の男が説明を続ける。
『分かりやすく例えてやろう。"子供でも人を殺せる銃"のプロモーションで"軍人が銃を使う場面"を出したところで、何の証明もできんということだ』
「その例えで言うと……俺、子供ッスか」
『クソガキといっても過言ではないがな。まぁそういう訳だ。お前のような奴が≪催眠アプリ≫を使いこなせて、初めてこのアプリの有用性が証明されるというわけだ』
そこで改めて、彼は首をかしげた。
「それで……結局、俺はどうなるんスか?」
『お前はテスターだ。≪催眠アプリ≫を使い、あの女で童貞を捨てろ。それが達成されるまで助言と監視を行う、覚悟しろ』
「ほ…………ほわぁぁぁぁあああいっ!?」
こうして彼……"神小 物部(かみしょう ものべ)"≪催眠アプリ≫が巻き起こす台風の中心に引きずり込まれることになったのだった。