夏鹿さんに自宅に招かれた時のことだ。
「アキラくん、紹介するわね。この子が弟の
そこにいたのは、見覚えのある顔をした男子高校生。
記憶との違いは、眼鏡を掛けておらず髪が短いこと。
男子としては背が低い。いや、姉である夏鹿文絵さんが背の高い方なので、二人が並ぶとちょうど同じくらいに見えると言うべきだろう。
「きみが、夏鹿さんの……弟さん?」
ぼくは目を見開いて、文生と呼ばれた少年を見つめた。すると彼は、はにかんだような笑顔で頭を下げてきた。
「はい、はじめまして。夏鹿文絵の弟、文生です。姉に似てるって、よく言われるんですけど。そっくりでしょ?」
己の唇にこっそり人差し指を当てて、「しーっですよ」と悪戯好きな笑みで囁いて来た。
まさに瓜二つの姉弟。
信じられない。物憂げな表情で雨池教授を見つめていたのは、この少年だったというのか。「教授のことが好きなんです」と、あんなにも切ない声で告白したのは。
夏鹿さん、いや、文絵さんがお茶を用意してくれている間に、ぼくは疑問を解消することにした。
にやにやしている文生くんに向かって、声を潜めて話しかける。
「じゃあ、あの時、研究室の前とか、学内カフェとかで雨池先生を見ていたのは……」
「ああ、それはオレです」
文生くんはあっさりと認めた。
「髪の長さは?」
「エクステですよ、付け毛。あとは、まあ、化粧で誤魔化せるし」
なにかが違うと思ったら、髪質と化粧の仕方が違ったんだ。声までそっくりに似せてきたから、まるで気付くことが出来なかった。
今、彼が出している声は、女装していた時よりも、ずっと落ち着いている。それでも、かなり高い声に聞こえるけれど。
「……姉に化けて、大学に来てたのか」
「そうですよ。ちょうど、姉さんがいないタイミングにね。鉢合わせしたら困るでしょ」
クスクスと面白がるように笑う。全然、姉弟でタイプが違う。確かに、妹はいないと言っていたけどさ、まさか弟がいるとは思わないじゃないか。
「……笑うなよ、ぼくは真剣だったのに」
「だって、まんまと騙されてたじゃないですか。姉さんのドッペルゲンガーとか、面白いこと考えて」
「はあ。くそっ」
思わず悪態をついたが、彼はとうとう腹を抱えて笑い始めた。だが、コロッと神妙そうな表情に戻る。
「あー、でも、ごめんなさい。騙して、秘密を聞き出したみたくなっちゃった。アレは本当に申し訳ないと思ってます」
あの時の憂いを帯びた瞳。長い睫毛に伏せられた表情を見せられて、ぼくは実感する。
ああ、この子だ。本当にこの子が“もう一人の夏鹿さん”だ。
そして、今までのことが演技や悪戯などではなく、素直な気持ちの表現だったと伝わって来た。弟の文生くんの感情表現に裏表を感じない。彼が、雨池教授に特別な感情を抱いていたことは、間違いないように思えた。
まさか姉にそっくりな容姿を利用して、密かにその想いを遂げようとしていたのだろうか。
「あのさ。なんで、こんなことしたの」
お互いの時間が止まったように、ぼくらは見つめ合った。視線が混じりあって、そこにありもしない熱を感じた。
「教授の……好きな人の傍にいたいと思ったら、いけませんか?」
ぼくはそれを否定できない。非難する資格がないから。
「いけないことなのかもしれないけど。ぼくは……なにも言えないな」
「そうですか。……ありがとう、優しいですね」
優しいとかじゃない。ぼくは、前に進めない自分を捨てきれないだけ。思わず、唇を噛んでしまった。
すると、気を遣ったように、文生くんは笑った。
「そうだ、ドッペルゲンガーの話だけど。オレ、誰にも言ってないですよ」
「……ぼくも、きみ以外には話してないよ」
「へへ、そっか」
年相応の少年らしい笑み。ぼくは、率直な疑問を口にした。
「で、お姉さんは知ってるの? この状況」
「まさか! 知ったら、姉さんはカンカンになりますよ。堅物なんだから。オレが勝手にやったことです」
「まあ、たまに女装して出歩いてることは公認ですけどね」と、また悪戯っぽく笑った。 女装外出を認めてくれるのなら、堅物どころか、十分に柔軟性がある家族と言えるのではないだろうか。なんて、ぼくは思ってしまったが。
「でも、どうして雨池先生のことを……」
「それは言えません。オレの問題だけじゃなくなるんで」
好きになったんだい、ときっかけを問いかけようとしたら遮られた。
きっぱりとした口調。先ほどまでの明るさとは打って変わって、文生くんは真剣そのものだった。無理に聞き出すのは野暮だろうと思い、それ以上は追求しなかった。
その時、文絵さんが温かいお茶を持ってリビングに戻ってきた。
「二人とも、何の話をしていたの?」
「ちょっと、昔のテレビ番組の話で盛り上がってましたよ」
とっさに、ぼくは嘘をついた。追従するように文生くんも、合わせて軽く頷く。
「そう? まあ、いいわ。アキラくん、ゆっくりしていってね」
文絵さんは、優しい笑顔でそう言った。
家庭内での彼女は、大学にいる時よりもずっと和やかだった。
「ああ、そうだ。姉さんが付けてるバレッタ、オレが選んだんですよ。あの髪型、似合ってるでしょ」
「そうか。そうだったんだ、うん、似合ってる」
ぼくが同意すると、なぜか文絵さんは怒って、「文生っ! わたしをからかうんじゃないの!」と叱りつけた。深堀されたくなかったのだろうか。
なんとなく、普段の様子がわかる一幕だった。
帰り道、ぼくは複雑な気持ちでいた。
夏鹿 文絵さんからの思いがけない告白。そして、その弟、文生くんの秘密。どちらも、ぼくの心に大きな波紋を広げていた。
文絵さんのことは、もちろん嫌いではない。
むしろ、一緒に過ごすうちに、知的な魅力や、時折見せるギャップに惹かれていた。でも、告白された事実をすぐに素直に喜べない自分がいた。
あの時、雪の中で雨池教授を見つめていた文生くんの姿が、どうしても頭から離れないのだ。姉の姿を借りてまで、誰にも言えない想いを抱えている。その姿が、自分と重なって見えたから。
(文生くんは、本当に、雨池先生のことを愛していたんだ)
ぼくは、まだ自分の気持ちを整理できていない。文絵さんの告白にどう答えるべきか。そして、文生くんの秘密に、どう向き合うべきか。
もうなんだか、心がかき混ぜられて、どうにかなりそうだった。ぼくが作り上げていた『夏鹿 文絵』という人物像の半分は、思い込みによる虚像だった。抱いた好意がなくなったわけでもないのに、どうにも処理が出来なくなっている。
雪はすっかり止み、夜空には星が瞬いていた。冷たい夜風が、ぼくの頬をかすめていく。
「ぼくの未練は、まだあのアパートの部屋にあるのだろうか?」
行き場のない問いかけは、風に乗って跡形もなく消え去る。
この答えを知るには、アパートを見に行けばよいのかもしれない。
ぼくの影は、未だにあの部屋から外を見ているのだろうか。もう帰ってこない、あの娘の帰りを待っているのだろうか。
――それとも?