すこしずつ雪が解けてきて、路面が露出するようになった。
あれから、ぼくは本物の夏鹿さんと顔を合わせるたびに、なんだか意識してしまうようになった。
夏鹿さんは以前よりも、ぼくに話しかけてくれるようになった気がする。図書館で参考図書を一緒に探したり、ゼミの後に立ち話したり。
ある日、大学の構内で鉢合わせした時、夏鹿さんはなぜか困ったような表情で口を開いた。
「晴渡くん、最近、なんだか様子が違うね」
「そうですか?」と、ぼくは平静を装って答えた。
「うん。前よりも、なんていうか……明るくなった?」
「それを言うなら、夏鹿さんこそ柔らかくなりましたよね。なんというか、人当たりが」
「ああ、ね。わたしは、人見知りだから。物言いも、ちょっとキツい自覚あるし。周りに負けてられないって気持ちが先に立つって言うか」
なるほど、他人の前では態度が強くなる方なのか。本音を言えば、ちょっとキツいどころではないのだけれど。それを指摘するような無粋な真似はしなかった。
しきりに夏鹿さんは、髪の毛をいじりながら言葉を探している。今日はきつく結んでいた髪を、緩く編み込むようにバレッタで留めているようだ。目についたので、思わず口にした。
「似合ってますね、それ」
「えっ、あー。本当に?」
「はい、似合ってますよ。お世辞じゃなくて、とても似合ってます」
ぼくがそう言ったのをきっかけに、黒縁メガネの奥にある瞳が潤んだ。
顔を真っ赤にして、わなわなと震え始める。
「どうしたんですか、夏鹿さん?」
ぼくが心配して声をかけると、夏鹿さんは慌てて顔を背けた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、その……」
肩が小刻みに震えている。なにかを堪えているようだ。
「何かありましたか? ぼくで良ければ、なんでも聞きますよ」
ぼくの言葉に、夏鹿さんはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、やはり涙が滲んでいる。
「あのね、晴渡くん。いきなりごめんなさい」
そして、かすれた声で告げられた。
「わたし、あなたが好き」
「――え?」
ぼくは、信じられない気持ちで夏鹿さんの顔を見つめた。まさか、そんな言葉を彼女の口から聞くなんて、想像もしていなかったからだ。
「え、あ、あの……それは、どういう……」
動揺して、言葉がうまく出てこない。頭が真っ白になった。ついさっきまで、彼女が雨池教授のことを想っているとばかり思っていたのに。
夏鹿さんは顔どころか、いまや耳まで真っ赤になって、少し息を切らしている。今にも泣きそうな表情だ。
「そのままの意味よ。あなたのことが、好きなの」
今度こそ、はっきりと告げられた。そこには、迷いや嘘偽りのようなものは感じられなかった。
「で、でも、夏鹿さんは……雨池先生のことが……」
ぼくがそう言いかけると、夏鹿さんは悲しそうな表情を浮かべて首を振った。
「やっぱり。それは誤解よ」
「え、いや、誤解って」
「なんだか、うすうす変だなって思ったわ。たまに、周りにも変な噂をされてるし。あのね、確かに、雨池先生のことは尊敬しているし、子供の頃から知っている大切な人。でも、それは恋愛感情とは違うのよ」
夏鹿さんは、ゆっくりと話し始めた。
「先生は、困った時にいつも助けてくれたし、わたしの才能を認めて、伸ばしてくれた。だから、感謝の気持ちは人一倍強い。でも、それはあくまでも師弟関係。恋愛感情なんて、一度も抱いたことはないわ」
ぼくはしばし絶句した。
結局、その場で付き合うとは答えられず、もっと一緒に過ごす時間を増やしてから、改めて返事をすることにした。
まだ、ぼくの失恋の傷は癒えていなかったし、混乱してそれどころではなかったのが本音だった。
ぼくは、頭の中でこれまでの出来事を整理しようとした。あの研究室の前で佇み、時に学内カフェで教授を見つめ、木陰に隠れていた姿……あれは、一体何だったのだろうか。
あの時、ぼくに「教授のことが好きなんです」と告白した意味とは?
その答えはすぐにわかった。