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第3話 ぼくのひみつ

 その日の帰り道、ぼくは大学の正門前で、“もう一人の夏鹿さん”を見かけた。

 夏鹿さんは、雪の降る中、じっと雨池教授の研究室の方角を見つめて立っていた。


 ――その姿は、ひどく寂しそうで、今にも消えてしまいそうだ。


(なんでだろうな、すぐにわかっちゃうのだよな。どっちがどっちなのか)


 ぼくは夏鹿さんにそっと近づき、声をかけた。


「……夏鹿さん」


 ゆっくりと振り返る。頬が赤くなって、息が白い。驚いたように目を見開いた。目が零れ落ちそうだった。


「あれ、晴渡くん。また、会いましたね」

「こんなところで、どうしたんですか? 寒いでしょう?」

「ただ、すこし。教授のことを考えていたくて」


 いつもより、ずっと弱々しい声。これが夏鹿さんの本当の姿なのか、と思うと何とも言えない気分になる。


「教授は、今日も遅くまで研究室にいらっしゃるみたいですね」と寂しそうにつぶやいた。


 掛ける言葉が見つからない。夏鹿さんの募る想いは、決して報われることがないものだから。


「あの、夏鹿さん。もし、何か辛いことがあったら、いつでも話してくださいね」


 今日、ぼくが掛けてもらった言葉を真似するように、想いを伝えた。なにかをしてあげたいと言う気持ちに、衝き動かされていた。


「ありがとう、晴渡くん。あなたの優しさには感謝しています」


 しっとりとした声が、胸にじんわり染み込んだ。本物の夏鹿さんにも、いつかこの言葉をかけてもらえる日が来るのだろうか。


「でも、どうしてそんなに親切にしてくれるのですか? だって、そんなに仲が良くないですよね? わたしたち」

「え? ええ、まあ。 ……確かにそうですね」


 そこまで仲が良いのかと問われたら、確かにそんなことはないだろう。悩みを共有できるほどの友人には、とうてい足りていない。

 ただ、ぼくが彼女の味方をする理由はきちんとあるのだが、言ってよいものか悩んだ。

 しかし、本物ではないこの“もう一人の夏鹿さん”になら、伝えて良い気がした。


「わかりました。ぼくの秘密を1つ、お伝えしましょう」

「秘密?」

「そう、秘密です。……すこし、ついて来てもらえますか?」


 そう言うと、わずかな逡巡を見せた。女性ならば、当然だろう。たいして仲が良くない男に、無条件でついて行くと言うのは難しい話だ。


「ええ、かまわない。ついて行く」


 しかし、結局は“もう一人の夏鹿さん”は僅かな警戒心を見せながらも、頷いた。


 雪が積もった細い道を抜け、階段を上がっていく。人気ひとけがない道を通るが、それでも彼女はなにも言わずについて来てくれた。


「ここです」


 ぼくが連れて行ったのは、大学のキャンパスから少し離れたところにある古いアパートだった。


 アパートを見上げながら、不思議そうな顔で夏鹿さんは尋ねて来た。


「このアパートがどうしたって言うの? 晴渡くんが住んでるとか?」

「ええ、すこし前まで、ね」

「すこし前まで?」

「実は、ぼくはここで恋人と同棲していたんです」


 突然の告白に、夏鹿さんは目を丸くした。なおさら自分がここに連れてこられた理由がわからないと言った様子だった。

 と、同時に、好奇心のようなものも感じられた。


「ぼくは彼女のことが、本当に好きで。そうですね、将来は結婚も考えていました。でも、向こうはそうじゃなかったみたいです」

「……なにかあったのですか」

「浮気ですよ、よくある話。田舎から一緒に大学に入り、同棲を始めて。でも、向こうには新しいカレシが出来て」

「それは、なんというか……」


 夏鹿さんの様子は気を遣っている、と言うよりは、お互いの距離感で返す言葉がわからないようなそぶりだった。

 ぼくの人生の、ほんの一部。まったくもって、つまらない話だった。だから、別に慰めて欲しいわけではない。


「まあ、聞いてください。あの部屋なんです」


 そこまで話してから、ぼくはゆっくりと指をさした。

 自分が住んでいた部屋の窓を。カーテンは閉められているが、隙間からうっすらと光が漏れている。

 きっと、もう誰かが住んでいるのだろう。


「あそこに見えますか?」


 夏鹿さんは、言われた通りに窓の方を見た。


「あれは……ぼくなんです」


 ぼくの目には、確かに自分の姿が見えていた。窓際に立ち、ぼんやりと外を眺めている。それは、幸せだった頃の自分自身。

 でも、その隣に好きだったあの娘はいない。いなくなってしまったあの子が、アパートに帰ってきてくれるのをひたすら待っている。そんな女々しい自分がそこに立っていた。


「……何も見えないよ、窓際に誰もいない」


 夏鹿さんは、信じられないといった表情で呟いた。きっと正直に言ってくれたのだろう。あれはぼくにだけ見える、幻覚か妄想に過ぎないことは理解していた。


 「ええ、そうなんでしょうね」と、ぼくは曖昧に答えた。


「でも、ぼくにはそこに、未練の化身のようなものがはっきりと見えるんです。あの頃のぼくは、彼女と暮らせて本当に幸せだった。だから、そんな気持ちがあの場所に残ったまま、前に進めずにいるんだと思います」


 借りていた部屋を引き払って、写真も連絡先も消し、思い出の品もすべて捨てて。

 そうして、前に進もうと頑張ってみたが、ふとこのアパートに赴くと、そこには自分がいた。

 お前はここから出る事なんて出来ていないと、言われている気がした。


「出来れば、戻りたいです。――やり直せるものなら、やり直したい」


 夏鹿さんは、何も言わずに窓を見つめていた。不可解そうにしながらも、瞳には、深い悲しみのようなものが宿っているように見えた。


「あなたも、そうでしょう?」


 ぼくはそっと問いかけた。


「雨池教授のことが好きで、でもその気持ちを誰にも言えずに、苦しんでいる。だから、もう一人の自分を生み出して、せめて分身だけでも、その気持ちを表現させているんじゃないですか?」


 夏鹿さんは、ハッとしたように顔を上げた。黒い瞳が、大きく揺れている。


「だから、親身になってくれたの?」

「ええ。あなたをみていると、自分を見ている気がするんです。ぼくだけじゃなかったんだって」


 雪が激しくなってきて、凍える寒さに夏鹿さんは震えた。どうやら長居をさせ過ぎたらしい。


「すみません、こんな寒いところに連れ出してしまって」


 ぼくは謝ったが、夏鹿さんは気まずそうに首を振った。


「今日のこと、他の誰にも言ってないの?」


 躊躇いがちにされた確認。ぼくは頷いた。


「ええ、そうですよ。あなただから話したんです」

「そ、か。……あの、他の誰にも言わない方がいいよ」

「もちろん、約束します」


 夏鹿さんは微笑むと、ゆっくりと歩いて行った。

 ぼくは、小さな背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

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