一方、本物の夏鹿さんは、相変わらず周囲に壁を作っていたが、時折、ぼくに対してだけ、わずかに言葉尻が柔らかい時があるように思えた。
とは言え、表情は硬いままだし、つっけんどんな時の方が多いけれど。
「晴渡くん、すこしノートを見せてくれないかしら。バイトで受けられなかった分があって」
「うん、もちろんいいですよ、レジュメも見ます?」
正直、ぼくはある種の親近感を夏鹿さんに抱いていた。
普段から目で追ってしまうし、ついつい気を回してしまう。本音の繊細さを知ってしまえば、多少、冷たくされたところで、素直になれない人なんだな、と思えてしまって、それが自然と態度に表れた。
この日も、夏鹿さんの方からぼくに話しかけてきた。
「晴渡くん。この間のレポート、少し難しかったね」
「ああ、そうですね。雨池先生の専門分野は、やっぱり奥が深いですよ」
夏鹿さんが気安い態度になって来たな、と感じた。そう、どこか距離を詰めてきている。
「でも、晴渡くんのレポート、先生が褒めていたよ。着眼点が面白いって」
「へえ、雨池先生が? ……それは嬉しいですね」
これはどういう意味なのだろうか。
わざわざ、雨池教授の方から話題として振ったと言うことだろうか。少し邪推かもしれないが、ぼくは彼女に牽制されているようにも感じた。
つまり、自分はあくまで雨池教授が好きだから、勘違いするなよ、という意味かもしれない、と。
ふと、ぼくは雑談のていで質問を投げかけた。
「ところで、夏鹿さんって長女ですか?」
「え、どうして、そんなことを聞くのかしら」
「なんとなく、そう見えたから」
特に正当化できる理由が思いつかなかったので、ぼくはそう答えた。
「……ええ、そうよ。長女だけど、それがなにか」
「双子の妹さんとか、いないですよね?」
「なにそれ。さっきから冗談のつもり? わたしに妹なんかいないわよ」
少し声が強張った。眉間にシワが寄る。 もともと、目つきが鋭いものだから、迫力が増した。怖くなって、ついぼくは謝る。
「いえ、その。……すみません、夏鹿さんに興味があったから聞いてみたかっただけなんです」
ぼくがそう答えると、夏鹿さんは途端に無表情になって黙り込んでしまった。
なんだか、気まずくてこの日の会話はそれっきりだった。
この後も、ぼくは雨池教授の周りに現れるもう一人の夏鹿さんを何度か見かけた。
彼女はいつも物憂げな表情で、教授の姿を遠くから見つめている。まるで抜け殻のようで、どこか痛々しかった。
だから、何をするわけでもないけど、一言二言ほど声を掛けることが日課になって来た。
本物の夏鹿さんが、ゼミでは鋭い質問を教授に投げかけ、周囲をぴりつかせるのは相変わらず。でも、わずかに緩んだ表情が、ぼくには気になった。
特に、ぼくがレポートの内容について質問した時や、何気ない会話を交わした時、口元には微かな笑みが浮かぶことがあった。
「晴渡くん、この前話していた参考文献、見つかった?」
ある日、大学併設の図書館でばったり会った夏鹿さんが、そう声をかけてきた。以前、彼女が興味を持っていると言っていたドイツ文学の研究書籍のことだ。
お互いに共通しているテーマだったから、それとなく情報交換をしていた。
「ああ、いくつか良さそうなのが見つかりましたよ。コピーしておきましょうか」
「ありがとう、助かるわ」
いつもの夏鹿さんからは想像もできないほど、柔らかな物言いだった。まるで、別人みたいだ。でも、その変化は、ぼくにとってどこか心地よかった。
素っ気ない彼女が、ぼくには気を許した態度を見せること。そこに特別扱いされているような優越感を覚える。
(もしかしたら、あのもう一人の夏鹿さんの存在が、本物の夏鹿さんの心にも、少しずつ影響を与えているのかもしれない)
そんなことをぼんやりと考えていると、夏鹿さんが少し躊躇いながら言った。
「あの……晴渡くんは、何か悩み事とか、ないの?」
突然の問いかけに、ぼくは少し戸惑った。
「え、別に……特にないですよ」
「そう? なんだか、いつも考え込んでいるように見えるから」
夏鹿さんは身体を傾げて、ぼくの顔を覗き込むように眼差しを向けてくる。思わぬところで、人の暖かさに触れて嬉しくもあり、戸惑う部分もあり、複雑な気分になった。
すこしだけ、化粧品の香りがした。よく見たら、ほんのりアイカラー使っているのだな。
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですよ」
ぼくは曖昧に笑って答えた。『半分はあなたのことですよ』とは、さすがに言えなかった。
もう一人の夏鹿さんのこと、雨池教授のこと。そして、実際に起きている夏鹿さん自身の変化について。色々と考えていることはあったけれど、それを本人に話すわけにはいかない。
「あの、夏鹿さん」
「……なにかしら。何でも聞いて」
「雨池先生のこと、どう思ってますか?」
「どうって。……いい先生よね、独特の感性だけど」
そういうことではなく。と、言いかけた。でも、ぼくには本音をまだ話せないのかもしれない。下手に踏み込むことは出来なかった。
すると、何を思ったのか、夏鹿さんは黒縁メガネのズレを直して、「ふぅん」と声を漏らした。
「実は、雨池先生にはね。むかし、家庭教師をしてもらっていたの」
「家庭教師?」
「そう。わたしの父の教え子だったのよ、すごい気に入られてて。それで、お小遣い稼ぎを兼ねて家庭教師をしてくれていたの」
「つまり、子供の頃からの知り合いだった、と」
「そうよ。だからかな、ゼミでも遠慮なく話せるのは」
細い指で髪をいじりながら、夏鹿さんはそう語った。どこか遠い目で、思い出を懐かしむように。
ああ、だからか。と、ぼくは腑に落ちた。
(だから、夏鹿さんにとって雨池先生は大事な人なんだ。遠慮なく、自分の意見をぶつけられるくらいに好きなんだ)
少しだけ雑談をして、そのまま別れた。
きっと長い間、片想いを続けてるのだと思えば、なおさら応援してあげたかった。