雪が舞う大学のキャンパスは、白い静寂に包まれていた。そんな中、ぼく、
同じゼミに所属する
文学部の講義で何度か顔を合わせたことはあったが、ゼミで一緒になってからは、彼女の存在感が日に日に増しているように感じる。
夏鹿さんは、いつも一人で静かに本を読んでいるか、難しい顔でノートを取っている。
誰に対しても壁を作っているようで、話しかけやすい雰囲気ではない。黒縁メガネの奥の瞳はシャープで、近づくものを拒絶するような硬質さを纏っている。
ゼミの担当である雨池教授にさえ、臆することなく遠慮のない意見を堂々と述べ、周囲の学生たちに緊張感を与えるところがあった。そう、彼女がいる時のピリッとしたあの空気感は独特だ。
しかし、最近、ぼくは奇妙な光景を目撃するようになった。
雨池教授が出入りする時間帯、いつもどこかに夏鹿さんらしき女性がいるのだ。
研究室の前で佇む姿、学内のカフェの席で腰を掛ける姿、木々の陰から遠目に見つめる姿。
しかし、ぼくはある時気付いた。
(あれ、今は本屋でアルバイトしてるんじゃなかったかな)
たまたま、バイトについて耳にしたことがきっかけだった。そこから注意深く探ってみると、サークルの集まりに出席して不在にしている時や、別の講義を受けているはずの時にも、似た現象は起きていた。
この奇妙な矛盾に、ぼくは首を傾げた。
単なるそっくりさんなのだろうか。だとしても、この女性はいったい誰なのだろう。
ある日の午後、研究室の前を通りかかったぼくは、またあの夏鹿さんらしき女性を見かけた。
わかっている、これ以上は近づいてこないだろうということを。
遠巻きに、雨池教授を見つめているだけだということを。
ぼくはそれとなく歩み寄ると、意を決して声をかけてみた。
「あの……夏鹿さんですか?」
女性は驚いたように顔を上げた。きつく結んだ髪が揺れる。
いつもの黒縁メガネ。しかし、どこか表情がやわらかい。
「ええ、そうですけれど」
声も穏やかで心地よいトーンだ。違和感。いつもの彼女なら、こんな反応はしないだろう。
「いつも、雨池先生を見てらっしゃいますよね」
「あら。気付かれてしまっただなんて、その、恥ずかしい」
「教授になにか用があるんですか」
率直に切り出してみると、夏鹿さんは首を振って「用と言うほどのものではないのです」とぎこちなく微笑んだ。
そして、小さな声で控えめに、しかし、はっきりと口にした。
「――ただ、教授のことが好きなんです」
ぼくは息をのんだ。
やはり、この
心臓をキュッと締め付けられた感じがして、どうにも放って置けなくなってしまった。ぼくはおそるおそる慎重に尋ねた。
「あの、夏鹿さんは、雨池先生が既婚者だってこと、知ってますよね?」
長い睫毛を伏せた。瞳に憂いの色が混じる。
「知っています。だから、誰にも言えないんです。でも、この気持ちをどうすることも出来なくて」
ぼくは目の前の女性が、夏鹿さんの抑圧された感情が生み出した『
雨池教授への募る想いを表に出せない夏鹿さんが、無意識のうちに生み出してしまった分身。それは、本物の夏鹿さんが心の奥底にしまい込んだ、切ない恋心そのものだった。
(だから、どこか純真で。嘘がつけないほどに無警戒なんだろう)
それからというもの、ぼくは雨池教授の周りに出没する“もう一人の夏鹿さん”を見かけるたびに、こっそりと応援するようになった。