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第32話


 肌が痺れるほど寒い朝っぱらから、最上階のバルコニーに出て煙草を吸う。 

 地上に視線を落とせば、ある一点から目が離せなくなる。

 それは、マンションのエントランス前に停まる、一台の黒塗りの車。丁度、奈央が乗り込むところだった。


 ⋯⋯実家に帰るのか。結局、いつ帰ってくるのかは聞けなかったな。


 深い溜息と一緒に吐き出し紫煙を燻らせる。

 薄っすらとかかる霧の中、走り出した車が消えて見えなくなるまで、視線を外すことはできなかった。




 ガランとした広い部屋。いつもであれば落ち着くはずの空間なのに何かが足りない。それが何なのかなんて、考えるまでもない。


 ――あんな疑念さえ抱かなければ。


 自分の愚かさに、嘆きばかりが心に積もる。

 結局俺は、沢谷と言う呪縛に囚われているのかもしれない。

 どんな愛情をもらったのか、歳を重ねるごとに記憶は曖昧で、気付いた時には、俺自身を見ない父親に抵抗することしか出来なくて。『お前は沢谷の跡継ぎだ』と、顔を付き合わせる度に呪文のように繰り返される日々から、ただ俺は逃れたかった。


 でも、逃げ出すばかりで前に進めないでいるのは誰かのせいじゃなく、俺自身のせいなのかもしれない。

 やってきたことはガキが駄々を捏ねるのと同じ、そう思えた。


『沢谷の一人息子』


 それは、逃げたくても変えようのない事実。解き放たれる日が来ることはない。

 だから、奈央が水野の人間だって知ったとき、俺たちの出会いに計算があったんじゃないかと即座に疑った。俺が沢谷の息子だから、もしかしたらって。

 そう思ってしまうのは、誰よりもそのことに拘り続けている俺自信のせいだって、今更ながらに気付かされる。


 どうせ逃げられないんなら、俺が変わるしかないのか?


「力を付ければいい、か」


 昨日の奈央の言葉が何度も蘇る。

 何年も燻り続けていた思いの先にも、もしかしたら出口があるのかもしれない。逃げるだけじゃない自分の道が、どこかに⋯⋯。


 それまでの思い込みに亀裂が入り、未来の自分の在り方を模索し始めた。




✦✥✦




 神戸だもんな。久しぶりの実家だろうし、泊まって来るよな。

 それなのに、やっていることは思いとは裏腹で。今俺は、玄関を出てフロアにいたりする。エレベーターをチラチラと気にかけては無駄に行ったり来たりの繰り返し。このフロアに他の住人が住んでいないから良いものの、明らかに不審たる行動だ。


 どれくらいそうしていただろうか。腕時計を確認すれば、時刻はもう直ぐ21時。


 ⋯⋯やっぱ帰って来ねぇか。


 諦めて部屋に戻ろうとした時だった。エレベーターが静かに止まり、扉が開いた。


「奈央!」


 条件反射で奈央の元へと駆け出す。


「悪かった」


 開口一番、謝罪をし頭を下げる俺の脇を素通りした奈央は、自分の部屋に鍵を差し込みドアを開ける。


 怒ってるよな? 怒って当然だ。


「何やってんのよ」


「だから謝りたくて。俺が悪かった」


「そうじゃなくて。早く中に入ればって言ってんの」


 ――怒ってないのか? 部屋に入れてくれるのか?


 嫌味の一つや二つ、いや、十や二十は覚悟していたのに。


 開けたドアに寄り掛かる奈央は、


「お土産に貰ってきたの。神戸牛。ステーキにして食べない? もうお雑煮食べたくないの、私」


 何もなかったように普通に話す。


「雑煮のだしを大量に作ったのは奈央だけどな」


 迂闊な口がポロリと本音を溢せば、奈央の手によって閉まりかかるドア。

 ギリギリセーフ、慌ててその隙間に身体を滑り込ませた。

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