この数年。自分の生い立ちを誰かに打ち明けたこともなければ、周囲で話題に上ることもなかった。それを、目の前にいる奈央の口から放たれる、俺の真実。
「⋯⋯いつから知ってた?」
絞り出した声は、自分で思っていた以上に低かった。
「敬介がうちの学校の教師になった時から」
「誰から聞いた?」
「一部の人間なら知ってるでしょ?」
大学を出たら就職活動も飛ばして会社に放り込まれ、いずれは親父の跡を引き継ぐものだと思っていた奴は多い。
でも大学に入ってからは素性を隠していたお陰で、普通に生活していれば沢谷の人間だと気付かれることもほぼなくて。なのに、それを奈央が知っていると言うのであれば、考えられるのは、繋がりのある同じ世界の人間経由で齎された情報だってことだ。
「奈央、お前んちって――」
「水野コーポレーション」
今の二代目社長で急成長を遂げ、外食産業でも業績を伸ばしている水野コーポレーションは、うちのグループ会社とも取引のある大手企業だった。
「水野の娘だったのか」
「⋯⋯一応」
一応も何も、立派な家のご令嬢だ。
俺の頭には、一気に色んな思いが駆け巡っていた。
「紅茶、淹れなおそうか?」
「⋯⋯いや、いい」
奈央が淹れてくれた紅茶は、口を付けないまま既に冷めてしまっている。
折角淹れてくれた奈央に悪いと思いながらも、俺は混乱していた。テーブルに両肘を付き、合わせた拳に額を当て混乱を沈めようとしてもダメだった。
俺の中に浮ぶ、一つの疑念。
そんなはずはない、と思う自分は確かにいるのに、完全に消し去れない自分がいるのもまた事実で。
「俺が沢谷の跡取りだって知ってどう思った?」
訊きたいのに訊きたくないと、相反する気持ちを揺らしながら奈央に問いかける。
「正直に言っていいの?」
「⋯⋯あぁ」
自分から訊ねておきながら、本当は正直に答えられることが怖かった。こいつの正直な思いは、俺の疑念と重なりはしないだろうか。内心、俺は怯えていた。
なのに、コイツと来たら⋯⋯。
「バカ息子」
――――真顔でたった一言、簡潔に言い捨てた。
「俺、真面目に聞いてんだけど」
「私も、真面目に答えたけど?」
バカ息子が真面目に出した答えなんて、どれだけ俺は奈央の中でランクが低いんだ。
「他にねぇのかよ。もっと言い方ってもんがあんだろ」
「自分の運命に逆らった割には、教師やっててもつまらなそうにしているバカ息子」
「余計な一言を無理やり付け足すな」
「本当は親に認めて欲しかったはずなのに、認めさせることもしないバカ息子」
「は? 何言って――」
「私が敬介に近付いた理由が、沢谷と水野のパイプを強く繋ぐため、って疑っているバカ息子」
「っ⋯⋯!」
奈央が最後に口にしたそれこそが、俺が抱いた疑念だった。奈央はそれを簡単に見破っていた。
奈央は、水谷コーポレーションの娘として近付いたんじゃないかって。
俺じゃなく、沢谷ホールディングスの一人息子だから、近付いたんじゃないかって。
沢谷と水野の利益を生み出すパイプとなるために、奈央が意図的に俺との接点を持ったんじゃないか、そう疑って。
「目、泳いでるよ」
真意を突かれ動揺する俺とは違い、奈央の口調に乱れはなく、いつもと変わらない。
けど、次の瞬間。
「帰る」
そう言って、奈央は立ち上がった。
咄嗟に止めることが出来ず、リビングを出て行ってから慌てて追いかけ、玄関で奈央の手を掴む。
「奈央――」
「そう言う目で見るの、正しいと思うよ。私欲にまみれて近付く人は多いもの。沢谷ホールディングスの跡取り息子なんだから」
「俺は、跡取りなんてごめんだ。会社の駒としてしか俺を見ない親父の跡なんて継ぐ気はない」
「そう。それより、勉強するからこの手離してよ」
「待てって!」
俺が止めるのも無視して奈央は手を振り払うと、背を向けドアを開けた。そして、俺を見ることなく、
「敬介は望まれてる。認めて貰えないなら、父親に敬介がいなきゃ困るって言わせるほどの力を付ければいいじゃない⋯⋯私とは違う」
それだけ言うと、謝罪もさせないまま部屋を出て行った。
奈央がどんな顔をしていたのか。どんな思いで話をしたのか。奈央が抱える深い闇を、まだこの時は気付けずにいた。
もっと早くに気付いてあげられていたら⋯⋯。そう後悔するのは、まだ半年以上も先のことだった。