奈央が指差すそれは、画面が蜘蛛の巣の如くひび割れたスマホ。どうやら酔っ払った俺は、破壊行為に出たらしい。
「いいの? こんなにしちゃって」
「別にいい」
どうせくだらない付き合いの電話しか登録されちゃいない。そう思ったからこそ、こんなの要らないと、壊してしまったんだろう。
何ら問題はない。新しいものを買って番号も変えてしまえばいい。
「香水の彼女と連絡取れなくて困るんじゃない?」
⋯⋯そうきたか。
「俺、そういうのもう止めたから。くだらねぇ時間だって分かったし。だから、お前も止めとけよ。俺の経験上のアドバイスだ。いつか後悔する時が来ると思う。いや、必ず来る」
「本当なんだ。昨夜もそんなこと言ってたけど、どうせ酔っ払いの戯言だろうと思ってたんだけどね」
「んなことしても、何にも埋まんねぇんだよ」
乗り出していた体勢を元に戻した奈央は、大人しくハーブティーを口に含む。
分かってんだか分かってないんだか怪しい奈央から、どうしても確かな言質をとりたくて、口うるさく迫る。
「ちゃんと分かったのか? そういうことはするべきじゃないって言ってんだぞ? 聞いてんのかよ」
「うるいな。この距離にいるんだから、イヤでも聞こえる」
「じゃ、分かったんだな?」
「私、昨夜も答えたんだけどね。隣りに面白いおもちゃを見つけたから、そんな遊びはもうしてないし、しないって」
「分かればいい。って、おもちゃって、まさか俺か?」
「他に誰がいんのよ。黙ってお化粧までさせてくれるバカな大人が」
俺だって、もうされたかない。それにしても、俺をおもちゃとは⋯⋯。
「化粧はもう止めろよ。風呂場で鏡に映った姿見て、あまりのショックに心臓止まりそうになったんだかんな」
「私だって死ぬかと思ったわよ。『奈央ちゃんと寝る~!』って言って聞かないバカな大人にバカ力で抱きしめられて、絞め殺されるかと思った」
俺はいくつだよ。酒に呑まれたからって、いくら何でもこれはない。
自分でも知らなかった一面をこの年になって曝け出すなんて、恥ずかしさと情けなさが込み上げてくる。
「わ、悪かった。あんなに記憶失くすほど酔うなんて滅多にねぇのに、ホント不覚だ。風呂に入って気付いたけど、腕には
「あー、それね。それなら多分私のせい。シャワー浴びたいのに纏わり付いて離れないから、一発殴っといた」
殴ったのか。痣が出来るほど思いっきり。どっちがバカ力なんだ。
「沢山の彼女と別れを決めたから、自棄酒でもしちゃった?」
俺を窺うように、奈央がポツリと言う。
冗談じゃない。見当違いもいいところだ。奈央といると落ち着けて楽でいられて嬉しいあまりについつい飲んじまっただけだ。
そんな俺の思いにブレーキを掛けるように、奈央が放つ次の言葉で、胸に痛みが走った。
「どちらかに特定の人が見つかるまでは遊んであげるから、元気出したら?」
奈央は気を遣ったつもりだろう。だが、気遣いへの有難みよりも勝るのは、精神的ダメージ。特定の人が見つかるまでと言った奈央にも、その可能性があると突きつけられたがために。
「へぇ、奈央も恋人作る気あんだ」
「⋯⋯⋯⋯作るよ」
どっかで期待していた。そんなの馬鹿馬鹿しいって、まだそんなの考えられないって、そう言ってくれるのを。
なのに奈央は、先を見越しているかのように作ると言いきった。
その言い方に僅かばかりの違和感を覚えたが、それ以上触れなかったのは自分が傷付くのを恐れたのと、変えられない現実があるから。
――俺は教師でコイツは生徒。
それを理由に、俺は気付きかけていた自分の想いに、そっと蓋をした。
今が楽しければそれでいいんだと。奈央も楽しめればいいんだと。時間を共有することに、それ以上の理由を持つ必要はない。
何も求めず、何も望まず。
だけど、もし許されるのならば、この二人の時間が少しでも長く続けばいい、そう願った。
奈央が描くシナリオなど、何一つ知らないままに。