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第22話


 外灯の仄かな明かりに照らされる奈央を見て、思わず俺は息を飲んだ。


 ⋯⋯やっぱり出掛けてたのか?


 やり切れなさに支配され、その姿をただボッーと立ち尽くし見つめる俺に、


「あ、敬介も今帰り?」


 いつもと変わらない奈央の声が届く。


「お、おぅ」


 返事一つも上擦り、近付いてくる奈央を凝視してしまう。


 普段、部屋ではラフな格好で化粧も薄かったりノーメイクだったりするのに、今は、俺たちがバーで会ったあの時と同じように、しっかりと化粧を施して大人の雰囲気を醸し出している。


「何してるの? 寒いんだから中に入れば?」


 隣に並んだ奈央は、エントランスを潜る気配のない俺を急かしただけで、立ち止まりもせずにさっさと中へと入っていく。


 掛ける言葉は見つからないものの、反射的に動いた足で小さな背中を追いかけ、一緒にエレベーターへと乗り込んだ。



 狭い箱の中、唾をゴクリと飲み込む音さえ聞こえてしまいそうな静けさと緊張感。僅かな時間と言えども、頂上を目指しノンストップで上り詰めるエレベータの中を、無言で過ごすのは居心地が悪い。


 元々奈央は、自分から喋り捲くるタイプではないが、ここまで口を開かないのは違和感を感じる。

 どうして奈央は何も話さないのか。気まずい沈黙は続いた。


 俺から声を掛けるべきだろうが、気の利いた科白一つ浮かんでこない。


 本音を言えば『どこへ行ってた?』と、訊いてしまいたい。だが、そんなことを訊いて何になるのか。『関係ないでしょ』と、ピシャリと撥ね付けられるのがオチだ。

 それにもし、正直に男と会っていたなんて言われでもしたら、俺は更に言葉をなくすに違いない。


 どうすれば良いのか⋯⋯。


 ぐちゃぐちゃになる頭の中で漸く見つけた言葉は、


「こんな時間まで夜遊びか? 女一人で歩いてたら危ないだろうが」


 教師が口にしてもおかしくない科白を選択して、この静かな時間を無理やり繋ごうと試みる。


「⋯⋯」


 けれど、奈央からの返事はない。


「⋯⋯奈央?」


 表情の見えない奈央の背後から恐る恐る声を掛ければ、奈央はバックに手を入れ、そこから取り出したものを俺に見せた。


「おまえなっ!」


 奈央の手にしているものを見て思わず跳ね上がった俺の声と、目的の階に着いたことを告げるエレベーターの音が重なる。


 扉がゆっくりと開き始めると、それを両手で押し広げた奈央は、先を急ぐようにフロアへと飛び出した。


「お前、何だよそれ!」


 後に続いて下りた俺は、奈央が手にしているものを取り上げようとしたが、素早くバックへとしまわれてしまう。


「⋯⋯近くのコンビニに⋯⋯買いに行ってた⋯⋯だけ。夜遊びなんて⋯⋯してない」


「じゃあ、何でそんな格好してんだよ!」


「じゃないと⋯⋯売ってくれないじゃない」


 叱るのは大人びた格好についてじゃない。コンビニで買ってきた物自体に問題がある。


「奈央! 未成年の分際で煙草なんて買ってんじゃ⋯⋯て、おい。どうした?」


 叱りつけるつもりだったが、良く見ると奈央の肩が小さく上下に揺れていて、息が苦しそうだと気付く。


 そう言えば、言葉もどこか途切れ途切れだったような。


「奈央? もしかして具合悪いのか?」


 俺の声に顔を上げた奈央は、無表情ながらも目の奥には苛立ちが垣間見れた。

 深呼吸を何度か繰り返してから、奈央が口を開く。


「キツイ」

「きついって奈央、どこがだ? どこか苦しのか? ちゃんと教えろ!」


 言葉少なで要領を得ず、すぐさま聞き返す。

 しかし、心配で一色となった俺に返された答えは、


「その香水、きつくて苦手」


 予想だにしないものだった。


 もしかして奈央は、エレベーターの中で息を止めていたのか? だから話さなかったのか? いや、話せなかったのか。


 でも今日の俺は、何もつけていない。それに、コロンならいつもつけているが、今まで一度だって奈央から指摘されたことはない。

 だとするならば、考えられるのはただ一つ。


 ――――女の、残り香。


 俺が予定があると言った時点で、察しの良い奈央のことだ。女との逢瀬だと勘付いていたかもしれない。けど、俺は知られたくなかった。無意味な時間だったと痛感してしまった俺には、女といたなんて開き直るのも、もう難しい。


 しかも、こんな形で。

 香りと言う効力で事実が明らかになってしまうのは、言葉で告げるよりも生々しい。


 最低な形で知られ、過去に経験がないほど気持ちが沈む。


「じゃ、おやすみ」


 言葉を紡ぎ出せずにいれば、既に呼吸の乱れが収まっていた奈央は、あっさりと別れを告げ振り向きもせずに部屋の中へと消えて行った。


 煙草なんて吸うな! と注意もさせないまま「おやすみ」すらも返せないままで。奈央の部屋のドアからは、ガチャリと鍵を閉める小さな音だけが悲しく響いた。



 自分の部屋に入り、バスルームへと直行する。

 匂いの染み付いた洋服を脱ぎ捨てランドリーボックスへ乱暴に投げ入れると、ひんやりとしたブースに足を踏み入れた。


 シャワーの栓を捻り、壁に両手を押し当てた俺に勢い良く降り注ぐのは、まだ温もりを持たないただの水。

 体の表面は、冷たさでジンジンと痺れて麻痺していくのに、胸の奥深くに疼くものは一向に消えそうにない。


 くそっ!


 硬い壁に拳を繰り出してみても何も変わらず、空虚な時間を過ごしたばかりに、こんなにも俺を自己嫌悪へと陥れていく。


 水がお湯へと変わると、まとわりついた匂いを消し去りたくて⋯⋯。いや、自分の過ち全てを流してしまいたくて、己の身体を痛めつけるように擦り洗った。


「何やってんだよ、俺は」


 蒸気に包まれながら、エコーのように響くくぐもった声。誰に言うわけでもない自分への問い掛けに、俺はハッキリと答えを見つけていた。


 こんな気持ち初めてだから、と。あまりの短期間で変わり行く変化に追いつかなかったのだ、と。

 そんな言い訳をこじつけて、自分が変わるのが怖いんじゃないと思い知る。


 奈央との時間が大切になり過ぎて、俺は、それを失くした時の自分が怖いのだと、胸の痛みをもって思い知った。

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