促されるままに足を踏み入れた玄関先で、俺の思考は停止した。
「だから近いって言ったでしょ?」
俺が持っている車のキーを、奈央が指で突きちょこんと揺らす。
「車、出したくても出せないね」
そう言うと奈央は、俺の足元にスリッパを置いた。
確かに車を出す距離じゃない。奈央の言う通り、車を出したくても出せる距離にない。ここは公道じゃない。標識もない。車は走っちゃ行けない。いや、この場所に持って来ることすら出来やしない。
だって建物内だし、何せ────お隣なんだから。
「いつまでそこに突っ立ってる気?」
「いてっ!」
耳を引っ張られ、その痛みでやっと俺の思考は稼働し始めた。
「奈央⋯⋯お前、隣に住んでんの?」
「そう、残念ながらね。ほら、いいからさっさと上がってよ」
残念ってどういう意味だよ。
そう突っ込むのも忘れ「あーぁ、ばれちゃった」と、ぼやきながら歩く奈央に続き、部屋の中へと足を進めた。
リビングに入り立ち止まると、もしかして? と、ふと考える。
昨夜、タクシーの中で『ばれちゃう』と口にしたのは、このことだったのか? 奈央の本性云々より、まさかの隣人だと知られるのを懸念して。
「シャワー浴びてくるから、適当に座ってて」
思考をめぐらせるのに忙しい俺は、リビングに一人取り残された。
辺りを見回すと、部屋全体は白を基調に纏められている。リビングの端には小さめの白いデスクがあって、その上には数冊の参考書が置いてあった。
他にも部屋があるはずだろうに、ここであいつは勉強しているのだろうか。
ゴチャゴチャしたものは一切なく、中央にある大理石のテーブルだけが存在感をアピールしている。それを挟んで置かれたソファーはキャメル色で、この部屋で唯一色の主張を放っていた。
随分とシンプルな部屋だ。これが女子高生の部屋だとは思えない。でも物は良い。
このマンションで、しかも最上階に住んでいるとなれば、アイツが良家のお嬢様なんだろうことは想像がつく。
ここは高級マンションとして有名でセキュリティーも万全だ。女の一人暮らしには持って来いの条件ではあるが、にしてもだ。何でよりによってアイツが隣になんて住んでんだよ。
俺がこのマンションに引っ越して来た時、隣であるこの部屋に挨拶をしようと何度か足を運んだが、毎回ベルを鳴らしても応答はなし。表札も出ていないし、てっきり空き部屋かと思っていたが、最近、引っ越してきたとか?
それより奈央の奴。まだ熱があんのにシャワーなんて浴びて大丈夫か? そもそも俺がいるのに平気でシャワーなんか行くなよ。アイツの危機管理能力は一体はどうなってんだ、と余計な説教までしたくなってくる。
しかし、俺に対して、そんなものは今更か。俺に見られてもアイツのことだ。平然としていそうだし。それより、俺だから安心しているのかもしれない。そう思うのは自惚れ過ぎか。
色んなことが一気に頭をぐるぐると駆け巡る。それも一段落すると、せめて、お茶でもって誘ったんなら、その肝心なお茶を出してから風呂に行け! と文句を垂れる以外にやることもない。
何もする術がない俺は、一人そわそわと居心地悪く過ごすしかなかった。