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第7話


「水野。おい、水野」


 何度か声をかけても反応なし。

 俺に寄り添かかりながらぐったりと眠る水野に、これ以上声を掛けるのは諦めた。

 コイツの家で看病してやろうかとも思ったが⋯⋯、変更だ。


「運転手さん。この先の突き当りを右折して下さい」


 俺の自宅で面倒見た方が動きやすい。コイツの家に運んだ所で、何がどこに置いてあるのか分かりもしなければ、訊ねた所で、この状態じゃ水野も説明できないだろう。


 暗闇に静かに停まったタクシー。支払いを済ませ、なるべく振動を与えないように、ゆっくり水野を抱きかかえる。


 ⋯⋯軽い。

 コイツ、ちゃんとメシ喰ってんのか?


 力が入らず腕をダランと落とした水野を見下ろしながら、壊れ物を扱うように、そっとエレベータへと乗り込んだ。



✦✥✦



 ⋯⋯9度近くもあるじゃねぇかよ。


 部屋に入るなりベッドに横たえ測った体温計を見て、顔をしかめた。指し示すそれは、思っていた以上に高い熱であることを証明している。


 起きる気配はなく、赤い顔で少しだけ呼吸を乱し眠る水野。一刻も早く冷やしてやらなくてはと思うと同時に、もう一つ選択せねばならない事態に躊躇する。


 ――着替えさせるべきか否か。


 拭ってはまた滲む額の汗。白い首筋に纏わりつくブラウンの髪。放って置いたら、この汗が身体を冷やし、更に悪化させてしまうだろう。


 このままで良い訳ねぇよな。


 考え抜いた挙句、持ってきたバスローブを手に、目が開くことはないだろうと予測しながらも、少しだけ起きてくれと願いを込め名を呼んだ。


「水野。水野起きられるか?」

「⋯⋯」


 だよな。起きれねぇよな。


「水野、汗掻いてるから着替えさせるぞ? いいな?」


 当然返事があるはずもなく、ただ黙って着替えさせるには戸惑いを感じる俺だけのために掛けた声が、静かな部屋に虚しく響いた。


 目の前にいるのは病人、病人だ。しかも、俺の教え子。まだ17の小娘だ。


 何度もそう自分に言い聞かせ、水野の上半身を起き上がらせると服に手を掛けた。


 ────くそっ!


 脱がすのは得意とするはずのこの俺が、思うように事を進められないでいる。

 完全に力をなくしている女を脱がせているからか、それとも生徒だと思うと、疚しい気持ちがなくても戸惑いを隠せずに焦るせいか。それでもやるしかない俺は、少しでも肌を視界に入れないよう、バスローブを羽織らせながら脱がしていった。


 視線を逸らしながら汗ばむ身体をタオルで拭く。だけど、完全に視界に入れないのは不可能なわけで、時折チラリと見える白い肌と、アクシデント的に触れてしまう柔らかな感触にドキッとさせられながら、全てをやり終え水野を横たえた時には、俺も相当の汗を掻いていた。


 ふぅーっ。って、溜息付いて休んでる場合じゃない。とにかく、この熱を下げてやんねぇと。


 準備をするのに一旦部屋を出たが、暫く経って戻ってきても、俺が出て行く前と変わらず動いた形跡もない。


 水枕を頭の下に置き、額には冷却シートを貼り付ける。

 首にある動脈にも氷嚢ひょうのうを当てるが、流石にこれは冷たすぎたのか、子供が嫌がるように首を左右に大きく揺らした。


「少しだけ我慢しろよ?」


 反射的に首を動かしただけなのか、落ち着かせるように頭を撫でてやれば、水野は再び大人しく眠りについた。


 何やってんだろうな、俺は。


 こんな状況ならば、面倒を見るのは人として当然の行為だと思う一方で、あまりにも自分には似合わな過ぎると苦笑する。


「早く良くなれよ」


 似合わないついでに優しく一言告げると、撫でていた手を止め、一服する為に立ち上がった。


 部屋の電気を消し、代わりにベッドサイドのライトを点ける。


 ⋯⋯大丈夫だよな。


 もう一度水野に目を向けた時だった。

 淡いオレンジの光だけが、ほのかにアイツを照らし出す中で、俺は見つけてしまった。


 見つけてしまったそれに吸い寄せられるように、また水野の傍に腰を下ろしてしまう。

 固く瞳は閉じられているのに、目尻から流れる一筋の雫。それを指でそっと掬う。


「辛いのか?」

「⋯⋯いで」


 僅かに漏れた声は、何を言っているのか聞き取れない。


「⋯⋯ないで⋯⋯いかないで⋯⋯」


 油断していたら聞き逃しそうなほどのか細い声。それでも今度はコイツが何て言ったのか、はっきりと俺の耳にも届いた。

 苦しそうに少しだけ顔を歪め、細い指はシーツを弱々しく掴んでいる。


 熱でうなされているのか?


 この夜、水野は幾度となくうわ言のように呟いた。『行かないで』と、何度も何度も⋯⋯。


 そのうわ言に付き合うように、俺はずっと水野の傍から離れることはなかった。

 シーツを握っていた手を外させ、その手を包み込んだ俺は「大丈夫だ」と、その度に返しながら、明ける夜を静かに待った。

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