「信じらんねぇ」
「何が?」
「昨日は貴島に襲われそうになって怯えてただろ?」
「クスッ」
俺の視線と交わると、水野は失礼にも可笑しそうに笑みを零した。
「何だよ」
「べつに怯えたつもりはないけど? 顔には『面倒臭せぇ』って書いてある敬介が、教師らしいことするから可笑しくて、笑いを堪えるのに必死だっただけ」
笑いを堪えていただと? だからあの時、ずっと下向いていたのか!
「それより、穴が空きそうなんだけど。そんなに見惚れないでくれる?」
唖然と見つめる俺に水野からの注意が入るが、それほど衝撃がでかいんだよ。
元々綺麗な顔立ちはメイクで更に磨きがかかって、これじゃ、さっきの男が別れたがらないのも分からなくはない、なんて悔しいながら思ってしまう。
だがな、見惚れてたわけじゃない。断じて違う。俺はな、普通に驚いてんだよ! 俺が知っている水野とあまりにも違う、横に座る水野にな!
学校内では、教師からも信頼の厚い優等生。その風貌からはお嬢様的な雰囲気が漂うあの水野が、裏では、もう一つの別の顔があるなんて知ったら、驚くなというほうが無理な話だ。
それにしてもこの女。ムカつくことに、さっきから俺を呼び捨てだ。
「じゃ、敬介。私、もう行くね」
「お前な、呼び捨ては止めろよ」
「え? だって、マズイでしょ?」
そこまで言うと、俺の耳に顔を近づけ「ここで先生って呼んでもいいの?」と、含みを持たせた小さな声で訊ねてくる。
確かに、そう呼ばれればそれはそれで非常にマズイ。だが、水野が俺を先生と呼んだところで、コイツを17歳の小娘だと、誰が信じるだろうか。素朴な疑問が浮かび上がる。
どう見ても、今の水野は完璧なまでに綺麗なお姉さん。俺たちを見て、教師と生徒の間柄なんて疑う者はいないだろう。普通に恋人同士と言っても通じると思う。但し、先程までの互いの修羅場さえ見られていなければ、と注釈つきにはなるが。
だけど俺たちは間違いなく教師と生徒で、こんな所にいる生徒を注意しなくてはならないのが俺の立場。それが、女と別れるのに一役買ってくれたのが、生徒でもある水野だなんて。
⋯⋯有り得ねぇ。
考えれば考えるほど、冷静になればなるほど、最低な状況下にあると思い知らされる。
「あのな? 水野、今夜のことだけど、」
「誰にも言わないから安心して。私も今まで築き上げてきた自分のイメージを壊したくないし」
頭の良い奴は回転も速い。俺の話を全部聞かなくとも、その先を見越して答えを出してくれるのは、手間が省けて助かる。
「そうか」
今日の件を言わない代わりに、俺も水野のイメージを壊さないでいろと、水野のことも誰にも言うなと、そう言うことだよな。
教師として最低だと思いつつも、非常識な約束を守るしかない。
「早く帰りたいんだけど、もう行ってもいい?」
「いいけど、そんなに慌てて、これから他で夜遊びするんじゃないだろうな。ちゃんと家に帰れよ」
「教師らしいこと言っちゃって」
俺がいるほうとは逆に顔を向け小さな声で言ったつもりらしいが、しっかりと聞こえている。
しかも、自分でも今更だと思うだけに、突っ込みも入れられやしない。
「本当に家に帰るの。さっき言ったでしょ? 敬介の恋人のフリをしたのはお礼が半分。残りの半分は、私が早く帰りたかったから。さっさと別れられない敬介の横を、私が素知らぬ振りして通り過ぎたんじゃ気まずいでしょ? だから、別れるのを手伝ったってわけ」
「⋯⋯そりゃどうも」
「私、こう見えても具合悪いの。早く帰って寝たいのに、モタモタして別れられないでいるんだもん。見ててイライラしてたのよ。じゃ、そう言うことだから」
モタモタして悪かったな! こんなくそガキに言われるなんて。俺のプライドはズタズタだ。
にしても、具合が悪いだと?
全くそんな風には見えないし、強気な語気からしても、そんな様子は微塵も見て取れない。
でも、もし本当だとしたら⋯⋯。
僅かながらも心配が芽生え、目の前の水野の様子を探るように見ていると、バックを手に持ち、少し高さのある椅子から降りた瞬間。水野の身体はぐらりと揺れた。
「危ねっ」
咄嗟に腕が出て水野の身体を支える。
「ありがと。ちょっとふらついただけ。もう大丈夫だから。じゃあね」
体勢を立て直した水野は、たった今、倒れそうになった奴とは思えないくらいの軽い口調で、支えていた俺の手を振り解いた。
「待て。お前本当に具合悪かったんだな」
「だから言ってるじゃない。誰かさんがモタモタしてるから、体調が悪化したのよ」
モタモタを原因にする前に、体調悪いならこんなとこ来るなよ。そう説教の一つでも言ってやりたいところだが、どうせまた、今更の教師面は嫌がられるに違いない。
水野の具合を窺いながら考えあぐねていた俺は、ふとあの感触を思い出す。
そう言えばあの時。直に触れ合った唇は確かに熱く、熱を持っていなかったか?
瞳だって潤んでたし。もしかしたらコイツ熱あるんじゃないか?
俺から離れた水野の腕を引っ張り距離を縮める。
「ちょっと何?」
「いいから」
やっぱり。
バカなのかコイツは。こんな状態で酒なんか飲みやがって。
「お前、熱あるじゃねぇかよ」
「大したことない。寝れば直ぐに良くなる」
大したことあるだろ。
無理矢理、水野の額に押し当てた俺の手の平には、相当高いと思われる熱が伝わってきた。
「水野、送ってく」
「ヤダ」
『いいです』『大丈夫です』と、断るならまだマシだが、ヤダって何だよ、ヤダって。しかも、即答しやがって。第一、こんな高熱があって一人で帰らす訳にはいかないだろ。
教師として失格だと言われようとも、この状態の水野を放って置けるほど、俺だって薄情じゃない。
「煩い。黙って送らせろ」
「聞いてた? 私はヤダって言ったんだけど」
「お前こそ聞いてんのか? 黙って送らせろって俺は言ってんだよ」
「一人で帰れる」
「お前、ホント可愛くねぇな。そんな身体で途中ぶっ倒れたらどうすんだ。担いででも送ってくからな!」
熱のせいだと思われる潤んだ瞳で俺を軽く睨むと、諦めがついたのか、わざとらしいまでに盛大な溜息を落としている。
それを無視してバックを水野から奪い取り持ってやると、肩を抱き寄せ店を出た。
「一人で歩けるってば⋯⋯エロ教師」
「聞こえてんぞ」
「聞こえるように言ってるの」
熱があるとは思えない口調。全く可愛げがない。
だけど、それに反して足取りは段々と頼りなくなってきている。一人で歩けると言うのに、俺から逃れようともしない。辛ければ辛いって、そう言えばいいものを、強がんなよ。
水野が離れられないように、倒れてしまわないように、華奢な肩に回していた手の力を少しだけ強めた。
煌びやかな街中で、流しのタクシーを捕まえ二人で乗り込む。
「水野んちどこ?」
「⋯⋯世田谷」
強気な声ももう出ないのか、蚊の泣くような声の水野と偶然にも俺は同じ地区に住んでいる。
「世田谷のどの辺?」
「近くなったら言うから」
とりあえず、運転手に世田谷方面とだけ告げた。
「それより、親御さん心配してるだろ。俺から電話してやろうか?」
別におかしなことは言っていない。なのにコイツと来たら何故か口元を緩ませた。
「何が可笑しいんだよ」
「別に。ただ、敬介らしいなと思っただけ。把握していない所が」
把握? 何の?
全く理解ができない俺は、頭の中に疑問符ばかりが浮ぶ。
「うちの親、神戸に住んでるの。私は一人暮らし。調査書に書いてあるはずだけど~?」
語尾を延ばし嫌味を含む水野。その嫌味は甘んじて受けよう。
副担が決まった時に、クラス全生徒の家庭調査書なるものを渡され目を通した。目は通したが、完全なる斜め読み。ペラペラとしか捲っていない俺に、インプットされている情報は数少ない。
でも一人って⋯⋯。
「おい、他に誰もいないのか? 本当にお前一人?」
「そう」
こんなに熱だってあんのに、一人で大丈夫なのか?
かと言って、俺の部屋に連れて行くのはマズイだろうし。
どうすっか⋯⋯。
「余計な心配ならいらないから。これくらい何てことない」
あっさり心の中を読み取られる。
だが、そうは言ってもな⋯⋯。
横目で水野を捕らえながら考えていた時、車はカーブに差しかかり、遠心力で水野の体は力なく倒れそうになる。その水野の頭を引き寄せ、俺の肩に凭れかけさせた。
「近くなったら起こすから、それまで寝てろ」
大分辛くなってきたのだろう。言われるままに目を瞑り、俺にその身を預けた。
「⋯⋯やだな⋯⋯ばれちゃう」
そう水野は弱々しい声で呟くと、そのまま深い眠りへと落ちて行った。
何がばれちゃうだ。コイツの本性のことなら自らばらしたも同然だろ? 大胆にもキスまでしてきた癖に。
熱がまた上がったのだろうか。呼吸が少し乱れた水野に、心の内で突っ込みを入れながら顔にかかった髪の毛を掬うと、額にうっすらと滲んだ汗を拭ってやる。
「一人にさせられるかよ」
弱々しい姿に無意識に口を付いて出てしまったらしくもない科白は、ラジオから流れる曲に掻き消され、運転手にも聞こえなかったはずだと、一人安堵の溜息を漏らした。