「ねぇ、敬介君。その人なの? その人が敬介君の───」
「そう。だから諦めてくれる?」
固まる俺に代わり、ユリに最後まで喋らせることも許さずに答える女。
その女を俺は、有り得ないほど見開いた目で見下ろした。
「⋯⋯ホントなの?」
何度訊ねられてもユリの言葉は俺の耳には届かない。
いや、違う。正確に言えば聞こえちゃいるが、そんなことどうでもいい。この際どうだっていいんだ。
「本当よ。だから私の男、もう返して欲しいんだけど」
俺を無視して挑発的にユリに絡む女に、自分を取り戻し声を発した刹那───。
「おまっ⋯⋯っ!」
白く細い腕が伸び、俺の首に絡まるや否や、言葉は瞬時に呑み込まれた。
強制的に柔らかい感触で塞がれた俺の唇には、女からもたらされる熱が伝わってくる。
抵抗も出来なかった一瞬の出来事。
振り払わなかったのは、ユリの手前もあるが、それより何より驚きが上回って冷静な思考をめぐらせずにいたからだ。
首に回した腕を解くこと無く、徐々に柔らかい感触だけが離れていく。
重なり合っていたものが完全に離れると、女は潤んだ瞳で俺の唇を見つめ、それを指でそっと拭った。
そして、ユリに気付かれないように、『しーっ』と、声を出さずに口だけ動かすと、小悪魔的な笑みを浮かべて俺を見る。
たった数分にも満たない出来事に頭はついて行けず、本格的にユリどころじゃなくなった俺は、目の前の瞳にだけ、ただただ意識は囚われていた。
「いつまで見てる気?」
囚われていた俺に放たれた科白じゃない。ピッタリ俺に寄り添った女が、黙って立ち尽くしたままのユリに投げつけた言葉だ。一緒にいた男と別れ話をしていた時と同様、女の声は冷静そのものだ。
その女の声にハッとした顔を見せたユリは、次には悔し気に眉間に皺を寄せると、何も言わずに俺達に背を向け立ち去って行った。
敵うはずがないと思ったんだろう。俺の横で寄り添う女に。
自分より綺麗かと訊ねたその答えを、ユリ自身が目にして理解したのだろう。この女が相手じゃ敵わないと。
ユリには女の連れがいたらしい。ドアに向かって走るユリの後ろを、慌てた様子で連れの二人が追いかけて行った。
「やっと諦めたね」
ドアの向こうに完全に消えた姿を見届けて、俺から離れた女。
ユリが何も言えずに去らざるを得ない程の綺麗な笑みとこの衝撃に、俺さえも言葉を呑んでしまう。まさに鳩が豆鉄砲を喰らった状態だ。
「あっ、これ頂戴。喉渇いた」
なのに、こいつと来たら、人の気持ちも知らずにマイペースで俺が飲んでた酒に手を伸ばし⋯⋯って、待て!
「おいっ、こら! お前ダメに───」
「ここで騒いだらまずいんじゃない? お互いに。それとも、また口を塞いで欲しいとか? マウス・トゥ・マウスで」
俺の唇に人差し指を押し当て、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》で話しやがる。
まるで、『ホラね、何も言えないでしょ』と、言わんばかりに潤んだ瞳で俺を見て、挑発的に酒を口に運んでいる。
────どうしてコイツのペースに呑まれてんだよ⋯⋯。ダメだ、このままじゃ!
自分に気合を入れ、盛大に溜息を付いてから、コイツの手の中にあるグラスを奪い取った。
「これはダメだ!」
グラスを奪った俺に反発こそしなかったが、「はいはい」と適当な返事は、完全に人を小バカにしている。
「それより⋯⋯、お前、全然違うじゃねぇかよ!」
隣にいる俺の声が聞こえないはずはないのに、軽くスルーし彩られた指先を弄っている。
「それに何であんなことした?」
「うん? あんなことって、キスしたこと?」
まるで大したことでもないと言うように、首を傾げ平然と答える。
「⋯⋯あ、あぁ」
俺にとったって大したことじゃない。が、コイツは別だ! 俺が遊んでいる女とは訳が違う! そう思うと、自然とどもってしまうのは仕方がない。
「あれは、昨日のお礼の気持ちが半分」
「昨日?」
あ⋯⋯? あれか?
「キスされそうになったの、助けてくれたでしょ?」
そうだ。あの時は、未遂とは言えショックを受けていたように見えたのに、今は戸惑いもなく人前で自らキスをして、潤んだ瞳のまま僅かな笑みを浮べて俺を見ている。
本当に同一人物か?
これがあの優等生、水野奈央⋯⋯なのか!?