「どうしてもダメですか?」
「悪いな。生徒を恋愛対象には見れない」
「生徒は絶対無理? 相手が水野さんだとしても?」
水野?
何でここで水野が出てくる?
あいつだって一生徒。どんなに顔が良くたって、俺から言わせれば所詮ただのガキだ。それにアイツは勉強以外にあまり興味なさそうだし、対象外もいいとこだろ。
「水野にしたって同じだ。生徒にそんな感情は持てるはずないだろ? 教師なんてやめて、お前に相応しい相手をちゃんと見つけろ。今しかない時間を無駄にするなよ」
水野でも無理って言葉は効き目があるのか。納得したか否かは分からないが、纏わり付いていたものは俺の腕からゆっくりと離れ、顔を上げたその瞳には涙が浮かんでいた。
「気持ちに答えられず、ごめんな。週明けからは期末も始る。ちゃんと勉強しなきゃ駄目だぞ」
浮かべていた涙が雫となり零れ落ちると、川島はコクンと頷き、走ってこの場から立ち去っていった。
俺のことなんて何も知らないのに、涙を流せるほど本気になれるもんなのかよ。そう思う自分と、あんな風に誰でもいいから想うことが出来たら、俺も少しは変われるのか? ふと頭を過る、らしくもない考え。
あるはずないか。俺が誰かを好きになるなんて。あんな一時のあやふやな感情に流されるはずなんてない。
再び誰もいなくなった屋上で、壁に寄りかかりながら煙草に火を点ける。肺まで吸い込んだ煙を吐き出すと、ポケットの中からスマホを取り出した。
────コイツでいいか。
苗字を省いた女の名前を適当に呼び出し、手早く文字を打つ。
“今夜付き合えよ”
たった一言で、大人の付き合いをしてくれる女。
「俺にはこんな付き合いが丁度いい」
風に消えいく紫煙を見ながら、一人ポツリと呟いた。
いい加減仕事するか。
煙草を携帯灰皿に押し潰し、ドアに手を伸ばしかけた時。ドアの向こうから男女の声が聞こえ、俺の手は空で止まる。
「ずっと前から好きだったんだ。付き合って欲しい」
チッ、と小さく舌打ちをする。
───今度は誰だ!
授業中だって言うのに、どいつもこいつも、くだらないことでサボリやがって。これじゃ、俺が出るに出られないだろうが。
「ごめんなさい。私、貴島君のこと良く知らないから」
「これから徐々に知ってもらえれば⋯⋯。それとも水野、付き合ってる奴いるの? いないなら考えてもらえないかな?」
貴島に水野?
これまた聞き覚えのある名前に盛大な溜息が漏れる。
ふざけんなよ、二人ともうちのクラスだろ! 他の先生にばれたらどうすんだよ。頼むから担任と副担である俺達の手を煩わせないでくれ。
うちの学校は進学校で真面目な生徒も多く、授業をサボる奴等も少ないだけに、教頭なんかに知られたら俺たちまでが嫌味を吐かれるのは確実だ。
真面目な奴等が集まってるクラスだとばかり思っていたら、自習になるとこうも自由気ままになるとは。
気持ちは分からなくもないが、しかし、俺に迷惑を掛けて貰っては困る。かと言って、今出て行くのも正直煩わしい。本来ならば、出て行って注意するのが正しき教師の姿なんだろうが、さてどうするか……。
俺は5秒で即断。
結果、伸ばしかけの手をジャケットのポケットに移動させ、2本目の煙草を吸うことを選択した。
「ごめんなさい。私、彼氏とか作る気なくて」
あの噂は本当なのかもしれないな、と一人ひっそり思う。アレだけ美人なのに、水野は恋人を作らないことでも有名で、何人も玉砕しているらしいと言う話は、俺の耳にも届いていた。
それなのに貴島、おまえチャレンジャーだな。
あれだけの成績をキープしてる女だ。来年の大学受験に向けて一直線で、愛だの恋だのに浮かれている暇などないのだろう。
教師の俺達からすれば、優等生そのもので理想の生徒だが、女としたらどうなんだよ。堅物な女は面白味がないぞ! と、貴島の勇気を称え教えてやりたいくらいだ。
「どうしても無理?」
「ごめんなさい」
「いや、俺も無理だから」
「え⋯⋯? 痛っ、ちょっ、やめて!」
───はっ? 何やってんだよ。
「どうやっても受け入れてくれないなら、力ずくで手に入れるしかないだろ!」
「お願い、やめて!」
貴島、残念ながらお前の勇気も台無しだ。こんな所で暴走されちゃ、流石の俺も無視できないだろうが。
「こらっ 何やってんだ!」
「っ!……」
突然の怒声に言葉を詰まらせ固まる貴島と俯く水野。全く、俺に余計な手間掛けさせやがって。
「貴島、好きな女に乱暴して楽しいか?」
「そ、それは⋯⋯」
怒鳴りつけるのを止め淡々と訊けば、少しだけ奴を冷静にさせたのか、壁際に追い込んでいた水野の肩から、そっと手を離した。
「水野⋯⋯ごめん」
体の力が一気に抜けたように、貴島は頭を垂れ下げ弱々しく謝罪する。
水野の顔を見れないのか、視線は床を彷徨い続けたままだったが、顔を上げた所で相手の水野もまた俯いたままで、俺にもその表情は見えない。
「貴島、二度とこんな事すんなよ?」
「⋯⋯はい」
「水野? 貴島もこう言ってるし許してやるか?」
貴島の様子を見ると、自分のしでかしに相当な動揺を見せている。元々、チャラチャラしている奴でもないし、勉強も出来るだろう真面目そうなタイプだ。これ以上、追い詰めない方がいい。
ましてや、教師の俺にこんな場面を見られたんだ。今後のことを考えると焦りと不安と後悔とが入り混じって混乱に陥っているに違いない。何より、俺が騒ぎにしたくない。面倒な仕事が増えるのは、まっぴらごめんだ。
「もう、いいです。私なら大丈夫ですから」
俯きながらも、漸く聞こえた水野の声。
「本当にごめん、水野」
女を襲おうとしていた奴とは思えないほど情けない声を出す貴島に、もう一度声を掛ける。
「今回のことはここだけの話にしておいてやるから、馬鹿な真似はもうすんなよ? 分かったらお前は先に教室に戻れ」
貴島は俺に向けて頭を下げると、上履きで床をキュッと鳴らしながら向きを変え、逃げるように階段を駆け下りていった。
貴島がいなくなり、静まり返る屋上扉の前の踊り場で、未だ水野は顔を下に向けたままだ。
「大丈夫か? 何なら、少し保健室で休むか?」
「⋯⋯いえ、大丈夫です」
大丈夫と言いながらも、右手で左腕を包むように押さえ俯く水野は、僅かに肩を震わせていた。その様子からは、相当怖かったのだろうと窺える。
───コイツ、男に免疫なさそうだもんな。だったら、ノコノコ男に付いて行かなきゃいいのに。
「水野、お前は人気があるからな。気を付けた方がいい。男は抑えが効かなくなる時があるんだよ。これからはお前も注意しろよ?」
「⋯⋯先生も? 先生も、抑えが効かなくなる時があるんですか?」
コイツのことだから、“はい”と、素直に頷くかと思いきや、意外な切り替えし。しかも、俯いていた顔を持ち上げ、上目遣いで俺を見てくる。
俺は今、気をつけろと言ったはずなんだが⋯⋯。
年頃の男に、そんな顔向けてみろ。十中八九、貴島みたいに暴走すんじゃねぇのか? 俺だからいいようなものの。
「俺は教師だぞ。ちゃんと理性は持ち合わせてる」
「でも、先生も男だから⋯⋯」
そうだな、その通りだ。でも、まともに言えるかよ。女をメチャクチャにしたくなる時があるって、正直に言うほどバカじゃない。
欲望に勝てない男もいるってことは、経験でお前が徐々に学んでいけ。生憎と高校教師の教える範囲に、それは含まれちゃいない。
「男でも大人の男は違うんだよ」
「そうなんですか?」
「そうなの。って言うか、お前とこんな所で課外授業してる訳にはいかないんだよ。大丈夫ならお前も教室に戻れ。自習だからって、もう抜け出すなよ?」
「はい、すみませんでした」
水野はお辞儀をすると、いつものように綺麗な顔で微笑んで、再び口を開いた。
「あの、沢谷先生? 助けてくれてありがとう」
真っ直ぐに向けられる澄んだ瞳。その大きな瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
────あんま見んなって。
澱みのないそんな綺麗な目でジッと見つめられると、俺が汚らわしい人間に思えてくんだよ。実際そうだけど⋯⋯。
「いいから早く戻りなさい」
「はい」
取って付けた様な先生口調に、更に増した笑顔で答える優等生。さっきまで怯えていたっていうのに、もうそんな笑顔かよ。
汚いものに染まってない水野は、人を疑うってことを知らないに違いない。そんなんだと、また馬鹿な男に危険な目に合わされるぞ。
立ち去る水野の華奢な背中を見つめながら、余計な忠告を胸の奥でひっそりと吐いた。