ナミは江川到着に落胆した。『ここに来た』ってことは『巨人契約』以外ありえない。江川の夢であり、巨人の望みなのだから。
「時々いるじゃない? コップ倒して1秒くらい固まる人って……下手すりゃ誰かが拭くものを差し出されるまでフリーズしてる人。わたし、そう言う人大っ嫌いッ。決断力の無い人……なんかさ、やっぱり江川さん好感度ダダ下がり、自分で決断できない人……」
ナミは隣に居るデンちゃんの横顔を見る。太陽はすでに上っているけれども、空気はまだ温まらない。そして世の中の悪事を暴く太陽は今、薄い雲に隠れた。デンちゃんの横顔も籠る感情のない薄っぺらい表情でただそこに在るだけであった。きっとナミの言葉もデンちゃんには届いていなかったであろう。
クエスト失敗という消失感……。
初めてのクエストに舞い上がっていた、根拠もなく成功すると信じていた。準備や段取りが物事の成功への近道と知っていながら、情報や作戦を疎かにした……。その結果が今である。
いつの間にか人集りが増している。2人はマスコミの騒々しさに囚われていて、目も耳もアクティブではなかったようだ。2人が気を張っていれば、見逃すことのない人物が2人。
1人はマスコミに紛れた小太り中年男。そう、あの機内で拳銃を撃ったあの男である。そしてもう一人は……。
「おい、何か中の様子がおかしいらしいぞ」
「緊急会見中止らしいっておい、どういうことだ?」
「やっぱりガセネタ?」
「江川、巨人緊急入団会見じゃないのか?」
「さっき江川がここに来たじゃないか」
「船田副総裁や正力オーナーも中にいるって話だろう?!」
「どういうことだ?」
「何が起こってるんだろう?」
デンちゃんがぼそりと呟いた。そのときマスコミの1人が最終決定を知らせる雄叫びを上げた。
「正子だ! 江川の婚約者の菊地正子が江川を止めたそうだ」
「正子さん? ナミちゃん正子さんだって……いつの間に……ナミちゃん……?!」
この場に正子さんが立ち会った史実は無い。何故ここに現れたのだろう? デンちゃんがナミを見た。太陽は再び、雲の隙間から光を放ちだす。ナミの表情がデンちゃんを照らしたのなら、デンちゃんは黙った。
江川は後年『周りに任せていたらこうなった』と自己弁護した、というのをデンちゃんは思い出していた。
船田代議士、蓮実秘書という政治家の介入。1人の野球選手の就職先は次元の違う話に変貌した。周囲の『関係者』なるものに振り回された事実ももちろん原因であろうが、周囲に委ねた江川自身の生き方に問題がある。
『自分の意思で自分の将来を決められないような立場は将来の禍根となる』広岡監督もそう言ったそうな。
しかし任せられるべき人材が江川を囲んでいた、というのも江川の魅力の一つなのではないだろうか? 決断を任せられるべく伴侶がいた、ということも……。江川は正子さんを心から愛していたのだから。
◆◇◆◇
「江川くん、いいえ、卓さん。そんな今日1日で、たった1日のことで『夢が叶う』なんてことがあると思う? あなたは知っているはずよ。あなたが『怪物』と呼ばれるまでに忍耐と努力なしで来たわけがないでしょう? 今日ダメでも明日のために努力してきたじゃない。今日やらねばならないことは明日のためだったはずでしょう? 『明日』では叶えられない夢なんておかしいと思わない?」
会場に来た正子さんは江川に静かにそう言ったそうだ。慌てたスタッフたちが正子を外へ追い出そうとしたのなら、少し声を大きくして続けたそうだ。
「明日になったら報われない努力だったの? そんなのきっと努力じゃなかったんだわ。だからあなたの努力に誠実でいて欲しい。報われない努力なんてない、努力はただ、願っているところで必ず発揮されるものじゃないってこと。必ずどこかで役に立ってる」
沈黙の周囲に対してではない。正子は真直ぐ江川だけに向いている。
「法律、合理主義云々の前にあなたはスポーツマンでしょう? もしあなたに前例のないことをしたという負い目が少しでも残ったのなら、その心はあなたの成長を邪魔するときがきっとくる。その未来は今日の何倍も大変な思いをしてあなたを苦しめるわ。これから偉大な記録を残すあなたに、こんな記録なんて要らないわ」
ズルした気持ちはない……しかし……江川の心を大きく揺さぶった……。
江川は正子の言葉を以って船田、巨人軍、そして父親に深く頭を下げ、詫びを入れたのなら、正子の下へ駆け寄る。江川は
その後、オークルームへ向かうと記者団にこう言った。
「僕は明日のドラフト会議を待ちます。皆さんお集まりいただき大変恐縮ですが今日の話は無かったことにしてください」
また巨人軍側にこうも言ったという。
「明日のドラフト会議で交渉権を得てくださることを固く信じております。よろしくお願い致します」