そういえば、とふと思い出す。
以前も日記に書き記したけれど、アンリさんと出会ったのは、六本木の国立新美術館。
「文化資本を愛するおしゃれな出会い方だね」って、昔の友人にからかわれた。
なんてことはない。ただ、ボクが声をかけた。
「この絵っていくらだと思いますか?」
「え?」
ボクの唐突な声かけに、アンリさんは首をかしげた。不思議に思う雰囲気を醸し出していたけれど、ボクを否定する気分は感じられなかった。
そのおおらかさが、はじめての日から今日まで大好き。
「あなたがお金持ちだったとして、いくらだったら買いますか?」ボクは話を続けた。
「難しい質問だね」
アンリさんはあごに手をやり、真剣に目の前の絵画を見つめた。
「私なら・・・、ボクなら、いくら資産があっても買わないな。3つ隣の抽象画なら、リビングのはしに飾ってみたい気もするけれど。雰囲気的に、なんか後々値上がりしそう」
「そう? 自分はカードローンですら買っちゃうかも」
「美術的な価値を感じますか?」
「感性的な彩りを感じるから」
アンリさんはにこりと笑った。ボクを見上げる瞳の透き通ったグレーに、ボクはどきりとして息をのんだ。
ボクはごほんと咳払いをしてみる。
「美術館でまずはじめに確認すべきは、『あなた個人はこの絵に心を揺さぶられますか?』という、感受性の方向性かと思います。どの評論家がこの絵を高く評価したとか、値札のゼロの数の多さのような、雑多な諸情報ではなくてね」
アンリさんは苦笑いしながら、ぶしつけなボクの問いかけをいさめた。
正反対なボクたちは、ガラガラの常設展を一緒にまわって、その後に駅前のカフェでお茶をした。
それからは普通の友人や恋人と同じ経路をたどる。なんとなく気が合う気がして、運命の赤い糸のような幻想に夢を見て、幸せってこういうことなんだとお互いに言い聞かせて、質素で排他的な感情を共有しあった。
出会いが別れのはじまりであるように、別れは次の幸せの福音でもある。
思えば、前の人とはじめて会ったのもここだった気がする。いや、その前の人だったかも。時間の経過とともに、思い出は遠のき褪せて正確さを欠いていくから、もう、どっちだっていいことだ。
東京は好き。大好き。文化があるから。
博物館があり、美術館があり、図書館があり、神社があり、動物園があり、ついでに整合性の取れた緑まである。