例えばポテチの銘柄について他者と語り合いたいとき、ボクらはカロリーや食材の原産国、価格やCMに出演している俳優について議論を交わす。けれどボクが自宅でポテチの袋を開けるとき、関心があるのはそのおいしさだけなのだ。
対外的な数値と内省的な感覚には、次元の異なる大きな隔たりがある。そのことを大切に、忘れずに、いつだって心のなかにとどめておかないと。自分というのものが流されて枌尾とされて、削れて丸く量産的になってしまう。
「なんだかとても楽しい日だった。アンリさんはどうだった?」
「一言一句、同感だね」
「軽口ばっかり」
「この空間にルソーちゃんがいてくれたら、どこであれパラダイスだよ。もしくはユートピアの成の果て」
「知ってる? トマス・モアが描いたユートピアの人民たちは、きちんと労働させられているんだよ。天国なんて、楽園なんてないんだね」
「労働だって最高じゃない。辛さがあるから、楽しさがある。平日がしんどいから、休日に幸せを見いだせる」
「支配改装の詭弁だ」
「塩をかけないスイカは甘くないんだよ」
だらだらと館内を歩いていく。小一時間もすれば飽きてしまって、脳味噌を用いない会話のための会話で間を繋ぎ始める。時おりコミカルな作風のルソーを下手上手だなんて評して、得意げにもなってみる。
1時間、24時間、28日なんて時間周期に遮られた今を生きるボクたちだから、休みの日くらい好きに過ごさないと。私はとても、保守的でティピカルな人間だ。外国で生きていても、19世紀に死んでいても、きっとそう。
「アンリさん。ボクはルソーになりたいな」
「どうして?」
「自分の才能を心から信じて精一杯にもがきながら、それでも社会に認められない生涯って格好いい」
「満たされたお子さまの価値観だ」
ルソーはすごい。仕事の合間に独学で学んで、望む評価を大衆から得られずにもがいて、でもたまに極少数の天才からのみ拍手をされて、それでも大衆からは笑い者にされて、その人生を終える。
どんな気分なんだろう。ピカソから天才だと面と向かってお墨付きをもらっても、マジョリティたる世間は苦笑いで、奇人・変人と社会に迎えてくれない日々というのは。
無意味な労力って嘲笑されながら日曜画家を続けるのは、並々ならぬ根性が要る。
死後に多大に評価をされて、アンリ・ルソーは幸せだったのだろうか。分からない。でも、もしかしたらボクは生きている間に幸せになりたいタイプの人間なのかもしれない。
求めるべき理想と妥協すべき現実の線引きが若くして理解できている自分が浅ましくて嫌になる。それと同時に、着地すべき平穏な日々を理解できている自分にほっとする、誇らしくすらなる。