名前と同様、履歴書を引っ張り出したらすぐに分かること。一度も挨拶をしなくたって、一緒に飲まなくたって、映画の感想を共有しなくたって、簡単に知れて理解したつもりになれること。
そんな雑多で粗悪な情報に、ボクの内省的な気分まで侵略される筋合いはない。
「怒らないでよ、ルソーちゃん」
アンリさんはこのとき、ボクの名前を呼んだ。便宜上、ここではボクのことを“ルソー”とする。自分の名前が嫌いとか、気に入っていないとか、その他の高尚な理由なんて別にないけれど、今回はボクの名前にも仮称を用いる。理由なんていつだって単純で、ただの個人情報の保護のためだ。
「怒ってないです」
ボクはそっぽを向いた。灰色や茶色の目立つシックな服装の見物客の大群の向こうに、真っ赤なダリアの花が揺れていた。
「ルソーちゃんの反応がいいから、つい意地悪を言っちゃうね」
「セクハラくさくて気持ち悪いです」
「今後気をつけるよ」
この人はいつも、成人して久しいボクを、ちゃん付けで呼ぶ。
ちゃん付けなんて見当違いな子供扱いだが、それでもボクは割と、承諾なしに勝手に心の中まで踏み込むその馴れ馴れしさを気に入っている。好意的な感情を面と向かって伝えることは、この人とこれから会わなくなるまで生涯、一度だって無いとは思うけれど。
「それにしても、今日のルソーちゃんはかわいい。期限の悪いときの君はひどく愛らしい」
「すこぶる上機嫌ですよ」
「研究は順調?」
「まあ、それなりに」
「その言い方は、上手くいっていないということか。天邪鬼な君は弱い点を嘘で覆い隠すクセがある」
「何でも理解し終えたみたいな言い方しちゃってさ」
「だってそのとおりだから」
「それこそ嘘ばっかり」
「そんなことより、それって新しいピアス? 昔から持ってた?」アンリさんはお構いなしに、ボクの耳で揺れるシルバーに手を伸ばす。
「だめですー。秋の良き日に、屋外でスキンシップ厳禁です」ボクは身体をよじって、その手から逃げのびた。
「けちだなあ。今さら減るものなんて何もないのに。誰が君にあげたのかは知らないけれど、とてもよく似合ってる」
「ずっと前に自分で買ったものだよ」
ボクはわしゃわしゃと後頭部の髪を撫でて、秋晴れの晴天を仰いだ。アンリ・ルソーまでは程遠い進まない長蛇の列の中ほどで、アンリさんはさも愉快そうに笑った。
アンリさんについて、日記の中でまで特筆することがないように、ボクに関する情報でここに記せるものも多くはない。ボクはボク自身の今日までの軌跡について、おおむね肯定的に捉え、ある程度誇りを持って受容している。
「ルソーちゃんは、キミ自身が作り出した架空のあれこれに支配されている」
「どうでしょうね」
けれど、それをここに記録するかどうかは別。学業も仕事も容姿も資産も性自認も何もかも、他者に伝えるべき要件で、僕自身が心にとどめる必要がある事項かどうかには、何の相関性もない。