「今日のアンリさんは、なんだか退屈な感性をしているようだ」
からかうアンリさんの丸い目元は、ボクのそれより少し高い位置にある。ボクはバレないように履き古したスニーカーでゆっくりと爪先立ちしながら、ほとんど同じ高さとなった目線で、アンリさんに語りかけた。
「仲良しな君の心情を推察して、世間話のテーブルへ取り上げるのは、そんなに悪いことなの?」
アンリさんは笑った。今日は格段によく笑う。
行楽日和の秋晴れの空の青さと、ジメジメな夏とカサカサな冬の中間の適度な湿度と、周囲に並ぶ品と体裁の良い大人たちの余裕ある雰囲気が、移り気なこの人の気質に投影されたのかもしれない。
「だって、十年来の夢だったんだよ。ユートピアを求める幼気なボクにとって、生のアンリ・ルソーを見ることは」
「ユートピア、ねえ。ルソーちゃんはその表現を好むよね」
「子供の頃に図鑑で見てから、素晴らしいなと思っていたんだ。生まれてはじめての一目惚れかな。それで学生時代にお金を貯めて、フランスへの小旅行を計画もした」
「その旅は計画倒れ?」
「結果的には」
「そんな熱意に満ち溢れていたのに、理想郷への旅は実現されなかったんだ?」
「貧乏旅を少しでもリッチにしようと思って、競争馬に夢を乗せて現実を知った。それを三度は繰り返した」
「当時のキミも、やっぱり今と同じく素敵だったんだろうな」
ボクはこの日記に、有益なことのみを書き記しておきたい。
不要なセンテンスは一ミリたりとも・・・、君にとってはどうか知らないけれど、僕の感性で判断すれば記憶に残すに値しないと断言できるものはすべて、ここに残しておきたくはない。
例えばアンリさんに関して、君たちに伝えたいこと。それは、この人はいつもほのかにフローラルな良い香りがするとか、聞き馴染みのないハイセンスなレコードを山のように所有しているとか、フットワークが軽くてフットサルサークルを掛け持ちしてるとか、そんなこと。それから、掃除が下手でビールの缶が部屋に溜まってるとか、公共料金の支払いを滞納しがちでオール電化なのに危うく電気が止まりかけたとか、人の名前や誕生日をすぐ忘れちゃうとか、そんなところ。
反対に、誰にでも一目瞭然なあれこれは、ここには書かない。
つまりは、アンリさんの見た目、職業、性別、収入、社会的地位、出身地、資格、経歴。単純に、書き記すボクのカロリーとスペースがもったいないから。それに余白のある物語の方が、どうしたってボクは好きだから。