それからしばらくはシフトが合う日――週三日、二時間をドギマギしながらアルバイトを続けた。あの日以降、安藤さんとはあまり話す機会もなく、ボクのことを『紗希の従妹』、そしてアルバイト先の先輩として接してくれるだけだったけれど――
その日は金曜日だった。あまり時間を気にせず実験データを整理していたボクは、安藤さんの「お疲れ様です」という声で顔を上げた。
「お疲れ様……」反射的に返したものの、安藤さんの表情がいつもと違うことに気づいた。
「楓さん、少しだけお話できますか?」
「えっ、あ……うん、いいよ」
いつもとは違う雰囲気に、警戒を隠して軽くうなずいた。安藤さんは周囲を見回してから、静かに声を落とす。
「楓さんって、なんだか……私を少し避けているような……」
「そ、そんなわけないよ!」
「でしたら、もっと知りたいんです、私。本当の楓さんのことを」
彼女の瞳がまっすぐボクを見つめる。その眼差しに逃げ出したくなる。
「えっと……ボク、そんな特別なことは何もないよ。普通だし、紗希の従妹だし……」え〜い、なんか説明くさいぞ。
言葉を絞り出すように返すけれど、安藤さんの視線は揺るがない。
少しの間、ためらった後、彼女は一歩踏み込むように口を開いた。
「楓さんが普通の人だなんて、私には思えません……自分のことボクって言いますし。それに、紗希さんの従妹っていうのも……本当ですか?」
黙り込むボクに、彼女はさらに言葉を続ける。
「生徒名簿には、『北条楓』という名前が見当たらないんです。でも、『北条楓太』という方がいらっしゃいます」
息が詰まるような感覚に襲われた。手のひらがじんわり汗ばむのが分かる。あ、これバレたかも……。頭の中が真っ白になる。もう言い逃れは通じない。
「ごめんなさい。でも、仮に楓さんが楓太さんであっても、私は楓さんのことがもっと知りたいんです。そう思っちゃダメですか?」
『もっと知りたい……』と、また同じことを言ってくる。
彼女の声は少し震えていた。真剣な瞳が、ボクの胸を締め付ける。どう答えればいいのか分からない。ただ胸の奥で、焦りとともに芽生える小さな期待――こんなボクでも知ってもらいたい――に戸惑っていた。その視線に心が揺さぶられる。
*
帰宅すると、思わず深いため息が漏れ、リビングに腰を下ろした。
「お兄ちゃん……?」
「安藤さんに気づかれた……『同じ学年に北条楓はいなくて、北条楓太ならいる』って……」
そう切り出したボクの言葉に、紗希は絶句する。
「それから『仮に楓さんが楓太さんであっても、私は楓さんのことをもっと知りたいんです。そう思っちゃダメですか?』って」
紗希は少しだけ間を置いてから言った。
「……隠せなさそうだってこと、わかってたけど。……それに……それって、まさかお兄ちゃんのこと、好きってこと……?」
紗希の言葉に、自分でも驚くほど心がざわついた。胸がぎゅっと締めつけられるようで、言葉が出ない。安藤さんがボクをどう思っているのか、そしてボクはどうすればいいのか――頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「ちょっと疲れたから、部屋に戻る」とだけ言って立ち上がった。
安藤さんに本当のことを打ち明けるべきか、それとも、このまま隠し続けるべきか。ボクのことをもっと知りたいって……? その問いが、頭の中でぐるぐると回り続けているけれど、答えは見つからない。どうしても気持ちが整理できなくて、あかりも灯けずベッドの上に仰向けになっていた。
しばらくして、紗希がボクの部屋の前で足を止めた気配がした。軽くノックしてから、そっと顔を覗かせる。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「うん、ちょっと考えてた……」
それが精一杯だった。
紗希はボクのそばに座りしばらく黙って見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「無理に全部決めなくてもいいと思うよ。何かを決めるって大きなことだし、焦る必要なんてないよ」
紗希のその言葉には、ボクが悩んでいることをちゃんと理解してくれている優しさが込められていた。
「でも……」
「無理に答えを出す必要はないって。お兄ちゃんがどうしたいのか、あたしはそれを尊重するよ」
その言葉が、迷いで揺れていたボクの心にそっと寄り添うように響いた。
紗希は、安藤さんが生徒名簿を調べてボクの正体に気づくことを予想していた。最初はボクを守ろうとしていたのだろう。けれど、安藤さんがボクのことを好きになりかけていることに気づき、ボクの意思を尊重することが一番大切だと気づいていったのだと思う。
その言葉が胸にじんと響いた。
「ありがとう……紗希」
それしか言えなかった。