入り口で父さんと別れ、研究室に入る前に更衣室でロッカーに荷物をしまい、白衣を羽織る。
研究室に入り、「おはようございま〜す」と挨拶をしてからタイムカードを打刻する。
山下さんが「おはよう、楓さん。名札できてるよ」と声をかけてくる。
「ありがとうございます。一昨日は早退してしまい、失礼しました」名札を受け取りながら謝る。
「気にしないで。それより、僕の方こそ安藤さんが妹さんと同じクラスだとは知らなくて……」
「山下さんは悪くないですよ。で、今日、安藤さんは……?」
「うん、今日も放課後に来るよ」と、シフト表を確認し教えてくれる。
「じゃあ、実験補助があれば手伝いますね。なければ一昨日の作業の続きをやってます」
「わかった。じゃあ午後三時くらいまで補助をお願いするよ」
お昼休みに紗希から個チャがきた。
『安藤さんのほうから聞いてきたよ。で、返信通りに従妹で、ちょっと事情があって夏休みからウチで預かってるって言っておいたから』
『そうなの? としか言ってなかったけどね。今日は安藤さん研究室に行くって言ってたから、お兄ちゃん、口裏合わせてね。じゃね〜 いとしのお兄様』
臆面もなく『いとしのお兄様』とか……あ、いつも似たようなことを口走っているか。ま、いいや。これでボクの設定は『ちょっと事情があって、親戚の家に預けられている従妹』に決まったな。
『わかった。その設定でいくね』と返信した。
そのあと、実験補助を切り上げ、定時の午後七時まで、一昨日途中で放り出していた実験データの整理を再開する。
もちろん、安藤さんと同じ作業にならないようにするためだ。
*
まだ四時半だというのに、安藤さんが「お疲れ様です」と研究室に入ってきた。
「お、お疲れ様……まだ四時半、早いですね……」ちょっと声が震える。
「はい、五時前にはタイムカードを押しますので大丈夫です。それまで少し時間がありますので、先輩……いえ、楓さんとお話がしたかったのです」
「……」
「楓さん、紗希さんと従妹なんですってね」
「う、うん。そう。家庭の事情で紗希の家にいて……でも今は休学中。で、夏休みからここでバイトしてる」
従妹ということ以外、ウソは言ってない。あ、でも生まれ月を言っちゃったら従妹じゃなくて従姉になっちゃうな。……まあ、紗希が打ち間違えたって言えばいいか。
いや、待てよ。そもそも同じ学校って、こっちから言っちゃったじゃん! 同学年って言わなかったのが唯一の救いだけれど。
それさえなければ、『違う学校の家庭の事情で紗希の家に預けられている休学中の楓』っていう完璧な『楓太』隠しができたはずなんだよ!
これは一生の不覚だ……。うわ、ボクのバカ! 一昨日の自分を小一時間問い詰めたい!
そんなボクの後悔を知ってか知らずか、
「私、冷たそうに見えるってよく言われるんですけど、楓さんって、小さくてかわいらしいですね……これからも仲良くしてくださいね」と、暗いブラウンの瞳でじっと見つめられる。
うわ、やばい。また顔が熱くなってきた。
「え、そ、そんな冷たそうなんて見えないよ? 全然そんなことないって……」
視線を外し、そう答えたけれど、これ以上何を言えばいいのか分からない。焦って口を開く。
「あ、安藤さん。そろそろ四十五分だから、タイムカード押した方がいいかも」
それだけを言うのが精一杯だった。
そのタイミングで山下さんが入ってきた。助かった……。
*
そのあとは特にトラブルもなく、予定通りアルバイトを終えた。
帰宅後、リビングのソファにだらりとのびている紗希に今日の話をする。
「安藤さんはボクのことを、設定通り『家庭の事情で親戚の家に預けられている従妹』で、今は休学中。夏休みからここでバイトしてるって信じてくれたみたい。でもさ、一つ失敗しちゃったんだよね……『楓』が同じ学校だって、一昨日うっかり口走っちゃって。すっかり忘れてた」
「うわ、お兄ちゃん、それやばくない?」
「しかもまた、あの暗いブラウンの瞳でじっと見つめられて、また顔が熱くなって……」
「お兄ちゃん……もういっそのこと、諦めて安藤さんの女になっちゃおうか」
「いや、それだけは勘弁!」
「ごめん、冗談だって。ってか、安藤さん、きっと生徒名簿調べて『北条楓』が在籍してるか確認するよ? だから『楓』イコール『楓太』だってすぐバレるけど……あ、でも中身が男だったら、安藤さん、すぐ興味なくすから大丈夫だよ」
「なるほどな〜!」
「だからしばらく様子見した方がいいって」
紗希には助けられてばかりだ。