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第二話 女子化の朝

「――ちゃん! お兄ちゃん! お・に・い・ち・ゃ・ん! 起きないとバイト、遅刻しちゃうよ〜!」


 耳に届く妹の声。まだ夢の中にいたいけれど、これ以上無視すると布団を剥がされる未来が目に浮かぶ。


 ボクには同じ高校に通う妹、紗希(さき)がいる。父さんと母さんが頑張ったおかげで、ボクが四月生まれ、紗希が三月生まれ。だからクラスは違うけれど、同じ高校一年生だ。


 案の定、布団がガバッと剥ぎ取られる。エアコンの冷たい空気が肌に触れて、思わず身を縮める。

「きゃっ! 誰よ、あなた!」紗希の声が鋭く響いた。

「紗希、おはよ〜……えっ、だ、誰ってボクだよ、ボク……?」

 ……なにこれ? 自分の声に違和感を覚えた。鼻にかかった、妙に高い声。アニメでよく聞く『ツンデレ声』だ。


「だ、だってお兄ちゃんはスラッとした体型にダークブラウンの短髪で、切れ長の目が黒くて――!」

 まくしたてている紗希の言葉から、ボクへのブラコンっぷりがにじみ出ている。


「少しつり目なのはお兄ちゃんに似てるけど……華奢で小柄なあなたが、なんでお兄ちゃんのベッドにいるのよ!? ありえないでしょ!」


 その声に二階の騒ぎを察したのか、父さんが急いで部屋に入ってきた。「楓太! やっぱり、あの試薬の影響か……」眉間にしわを寄せた父さんの表情が、普段の冷静さを失っている。


「えっ?」ボクと紗希の声が重なった。


 父さんはため息をつき、真剣な顔で話し始める。「実は……アストラル製薬の依頼で、女子化促進剤の研究をしていたんだ。臨床試験もまだだったのに、実験は成功してしまった。だが、まさかミスで楓太が被験者になるなんて……」


 それから父さんが、女子化促進剤について説明してくれた――


 名称は「エクソジェンダーエリクシル」 (ExoGender Elixir)、通称「ジェンダーエリクサー」または「Gエリクサー」。

 開発背景は、性別適合手術の代替手段や、特定の遺伝子疾患を治療する薬としてアストラル製薬が秘密裏に研究していたもので、倫理的な問題から公表されていない。

 作用メカニズムは、ホルモンを操作して男性から女性に変えること。これが大まかな説明だった。


 父さんの口から出てくる専門用語はほとんど理解できなかった。ただわかったことは――「父さん……ボク、本当に女の子になっちゃったの?」


 震える声で聞き返した。髪は短髪だったはずなのに、気づけば肩を覆うほどに伸びていて、パジャマも明らかにブカブカだった。


 紗希が涙を浮かべながら叫ぶ。

「パパ! 研究とか実験とかどうでもいいよ! あたしのお兄ちゃんを返してよ!」父さんは困ったように額を押さえる。

「……と言われてもなぁ……」


「お兄ちゃんが女の子になっちゃった……」紗希はその場に座り込み、声を震わせながら言った。ストレートの黒髪が揺れる。静かな涙が頬を伝う。

「どうしよう……」その声には、混乱と悲しみが混じっていた。


 こんなに泣く紗希を見るのは久しぶりだ。ボク自身の混乱よりも、紗希の悲しみのほうが胸に刺さる。


「……紗希……」



 紗希は少し渋い顔をしたけれど、中学生の頃の服を貸してくれた。母さんにも手伝ってもらって、なんとか着替え終える。

 鏡に映る自分の姿にちょっと戸惑ったけど、これが今の『ボク』なんだと自分に言い聞かせる。そこには見慣れない女の子が写っていた。ブラウンのショートボブ、黒目で少しつり目なのはあまり変わっていないけれど、背丈は以前の百七十五センチとはまるで違って、小柄で華奢な体型に変わっていた。


「本当にお兄ちゃんかどうか確かめたいから、あたしもついていく!」

 紗希がそんなに言い張るものだから、母さんを留守番に残し、結局、親子――いや、今は親娘三人か――で父さんの運転する車に乗り、研究所へ向かうことになった。もちろん、ボクの身体を調べるためだ。


 車内は妙に静かだった。首都高速神奈川一号横羽線を走る車内で、誰も口を開かない。普段なら徒歩と電車で約三十分かかる研究所までの道のりも、車なら十分くらいで着いてしまう。聞こえるのは、走行音だけ。なんだかその音が妙に重く感じられた。


 研究所に着くと、父さんと紗希にはいったん医務室の外で待ってもらい、ボクだけが中に入ることになった。診察室に入ると、成瀬先生がボクをじっと見つめる。


「たしかに、楓太くんね……右手のケガも昨日のままだし、面影はあるわね」

 先生の視線がボクを探るように動く。目が真剣すぎて、思わず目をそらしてしまいそうになる。


「それじゃあ、少しだけいいかしら? そこのベッドに仰向けに寝て」

 ラテックス手袋をつけながら、触診の準備を始める。

「あ、ちょっと……胸とか触るんですか?」

 恥ずかしさで顔が赤くなる。

「静かにして……ほら、早くブラウスのボタン外して、ブラとパンツを脱いで。スカートはそのままでいいから」

 指示に従ったけど、恥ずかしさで目をギュッと閉じた。


「ひっ……」

 先生の手が胸やお腹の下や、腰のあたりを触れるたびに、体を硬直させた。

 触診が終わり、医療用ペンライトを消す音がし、目を開けていいと言って触診の結果を教えてくれる。


「胸もちゃんと膨らんでるし、股間には陰毛がないけれど、体のラインも女性的ね。完全に女性化しているかは精密検査をしないとわからないけど……今の段階では、かなり進んでいると思うわ」


 しばらく考え込んだ後、外で待っている二人を呼び入れた。

「所長と妹さん、診断結果をおしますので、お入りください」


 診察室に戻ってきた父さんと紗希の前で、先生がボクの状況を淡々と説明していく。

「楓太くんは、外見的には乳房や女性器が確認でき、かなり女性的な体形になっています」


「え、やっぱりその子……お兄ちゃん?」紗希の声が少し震えている。

「はい、そうです。ただ、こちらでは設備に制限があるため、完全な検査は難しいです。本人確認や、完全に女子化したかどうかを調べるためには、CTやMRIによる身体の検査が必要です」落ち着いた口調で続ける。

「本人確認については、アストラル製薬中央研究所の専用設備を使い、昨日のケガで付着した血液と現在の血液を比較するPCR法で確認できます」


「なるほど……」父さんがうなずいた。

「なら、すぐにでも中央研究所に行こう。たしか、あそこにはMRIもあるはずだ」父さんが即断する。

「先生、中央研究所への検査の手配をお願いできますか? 必要であれば、私が直接連絡を取りますが」

「その必要はありません。後ほどこちらからご連絡いたします」

「頼みます。では、所長室でお待ちしています」



「ね、あなたは、本当にお兄ちゃん……なのよね?」

 紗希がボクの顔をじっと見つめて問いかける。その目には、まだどこか疑いが残っているようだ。


「ああ。身長は紗希より十センチも低い百五十センチになって、女の子の体になっちゃったけど、ボクは楓太。紗希の兄だよ」

 なるべく冷静に答えたつもりだけれど、自分で言っていても現実味がない。


「そ、そうよね……話し方はお兄ちゃんそのままだし……」

 紗希は納得しきれていない様子で、ボクの顔と声を交互に確認するように見つめていた。

 その様子を見て、少し胸が締めつけられるような気がした。まぁ、ボク自身もまだ完全に信じられていない。


「なら、それもこれも全部パパのせいなんだからね! 男を女の子に変えられるんなら、逆もできるんでしょ? その研究を進めてよ! お兄ちゃんがこんな目に遭うなんて……」

 紗希が声を荒らげる、むしろ、混乱の中で必死に現実を受け止めようとしているのが伝わってきた。


「紗希、あんまりパパを責めるんじゃないよ。元はといえば、ボクが実験で――その、ミスをしたせいだし」

 声が少し震えた。ミスとはいえ、自分が招いた結果なのだから。

「そうだな、紗希……楓太を元に戻す研究はアストラル製薬とは関係なく、研究所独自で進めることにする」

 父さんが穏やかな口調で応じる。その声に少しだけ救われた気がした。


「そうだけど……! だからって、お兄ちゃんが犠牲になるなんて!」


 紗希の声が詰まる。怒り悲しみが混ざった感情が、痛いほど伝わってきた。でも、その言葉の裏に、ボクのことを兄として少しずつ受け入れ始めている気配も感じられる。


 成瀬先生から連絡があり、午後には中央研究所でボクの精密検査を受けられることになった。子会社とはいえ、研究所長の要請だからだろうか。そのスムーズさが、なんだか頼もしい。


 研究所へ向かう準備をしながら、ちらりと紗希を見る。少しでも安心させてあげられたらいいのに、そんな簡単な言葉すら思いつかない。


 ――結局、ボクは不器用なままだな。


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