「――くん! 危ないっ!」
鋭い声が実験室に響いた。
え? 何が?
振り向いた瞬間、目の前でリービッヒ冷却器の下に置いていた三角フラスコが、「パキン!」という甲高い音とともに割れた。ガラス片が飛び散り、試薬が勢いよく飛び出す。
反射的に身体をひねり、右手で顔をかばう。でも、痛みと熱さが手のひらに広がるのを感じた。
「つっ……熱っ!」
右手を見ると、赤くなった皮膚にガラス片が何本も刺さっている。じわりと血がにじみ出し、やがて腕を伝ってぽたっと落ちた。
痛みに眉をしかめ、心の中でため息をついた。原因は分かっている。
完全にボクのミスだ。
最近、実験器具のセットアップを任されるようになって、自分でも調子に乗っていた。今回も「これくらい大丈夫だろう」なんて甘く考えて、密栓してしまった。中の液体が気化して圧力が高まるなんて、初歩的なミス。研修で「密閉は厳禁」って散々言われていたのに、これじゃ新人以下だ。
「大丈夫か!?」
助手の声にハッとする。気づけば右手をかばい、唖然として立っていた。
「すぐに水道で冷やして、それから医務室に行こう」
「……はい」
促されるまま、水道の冷水に手をさらす。じわじわと広がっていた熱が和らいで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
でも、心の奥では別の熱がくすぶっている。
本当に、こんなんで大丈夫なのか?
自分の未熟さが嫌になる。最近、少し自分に甘くなりすぎていた気がする。これまで築いてきた自信と信用が、今では少しずつ崩れていくような気がする。
手を冷やしてから、助手とともに医務室へ向かった。
*
「北条楓太(ほうじょう ふうた)くんね。あ、所長の息子さんじゃない。で、どうしたの? そのケガ」産業医の成瀬先生が、ボクの名札を見て尋ねてきた。
「えっと……」
口ごもると、助手――山下さんが助け船をだしてくれる。
「濃縮処理で少しミスがありまして……その、フラスコが割れて……」
「それって、山下くんの管理ミスじゃないの? ちょっとどころじゃないでしょ!」
「い、いや、セットアップを間違えたボクのせいです」
思わず山下さんをかばうように口を挟む。自分のミスだって分かっているから、責任を押し付けたくなかった。
「やけどは冷やしたの?」
「えっと、水道で十分くらい冷やして……今はもう痛みは少ないです」
「適切な処置ね。じゃあ、少し診させてもらうわね。ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」
先生はそう言って手早く診察を始めた。傷口を確認すると、ピンセットでガラス片を慎重に取り除いていく。小さな破片が次々とつまみ出されるたび、じわりと痛みが走るけれど、何とか耐えた。
そのあと、先生は傷口を消毒スプレーで洗浄し、ガーゼを当てて圧迫止血をしっかりと行い、包帯で固定してくれた。動きが無駄なく、プロフェッショナルだ。
「やけども軽度だし、冷やしたのがよかったわね。念のため抗生剤と痛み止めを出しておくわ。また明日も診るから、包帯は触らないようにね。それにしても、山下くん、フラスコのガラスってことは、試薬か何かだったのよね? 成分表確認しおいて。傷口から体内に入っているかもしれないから、安全なものかどうか教えてくれる?」
先生の問いに、山下さんが途端に顔を曇らせる。
「ちょっと……まだ試験段階なので……それに部外者には……」
声がだんだん小さくなっていく。
「はぁ? 私は医者として聞いてるの!」
「は、はい……エストロゲンとプロゲステロンを濃縮して、あとは……」
「え、それって卵胞ホルモンと黄体ホルモンじゃないの? 女子化促進剤でも作ってるの?」
「まさに……」
山下さんの声は今にも消え入りそうだった。
え、今なんて言った?
「女子化促進剤? それってボク女の子になっちゃうってことですか?!」
山下さんに詰め寄った。
「い、いやー、動物実験ではうまくいったけど、まだ臨床試験してないし、体内に入った量がどれくらいで変化が起きるかはわからない……ま、まあ大丈夫だと思う」
「まあって……そんな無責任な……」
思わず目を閉じ、深いため息をついた。こんな大事なことを、どうして軽々しく「大丈夫」なんて言えるんだろう。信じられない気持ちで、言葉を失った。
「わかったわ。すぐ所長に連絡してみるわね」
成瀬先生はそう言って、携帯電話を取り出した。
*
ボクは理系オタクだ。学校の理系部活じゃ物足りなくなって、父さんが所長をしているバイオテクノロジー企業の研究所で、夏休みの間だけ研究補助のアルバイトをしている。場所はみなとみらい。近未来的なビル群に囲まれて、ちょっとした非日常感を味わえるのが密かな楽しみだ。
といっても、高校生のボクにできることなんて限られている。実験準備や器具の管理、データ整理、それに実験中のサポートや簡単な実験操作、記録や報告書の作成くらい。言い換えれば雑用がほとんどだ。
それでも、科学の最前線に触れられることが嬉しかった。
でも今日は、その雑用で初歩的なミスをしてしまい、取り返しのつかない事態に……。
父さんからはこっぴどく叱られた。
助手の山下さんには始末書と懲戒処分まで下される始末。山下さんには申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
帰り際、父さんと山下さんが心配そうにボクを見ていたのが少し引っかかったけれど、それ以上話を聞く気力もなく、しょんぼりと研究所を後にした。
女子化促進剤――そんなもの、現実にあるなんて信じられない。でも、仮に傷口から体内に入ったとしても、山下さんが言っていたように、少量だから大丈夫だろう。そう自分に言い聞かせながら、なんとなくだるい体を引きずって帰路につく。
研究所を出て、みなとみらい駅に向かう道を歩く。真夏の晴天が肌に突き刺さり、汗が額ににじむ。
みなとみらい線に乗ると、車内の冷房を感じて、一瞬、感謝した。
けれど、元町・中華街駅で降りてエレベーターで地上に出た瞬間、さらに熱気が押し寄せてきた。 ウチキパンの前を通り過ぎ、代官坂通りを抜ける頃には、シャツが汗でじっとりと重くなる。
汐汲坂通りをだらだらと歩いていると、右手の痛みと頭痛がじわじわと増してくる。息を切らして自宅へ向かった。
アルバイトからいつもより早く帰宅し、リビングのドアを開けたとたん、母さんが手に巻かれた包帯を見て驚いた顔で、すぐにボクのところへ来た。
「えっ、ケガ!? どうしたの、楓太!」
「あ、これ? 実験室でフラスコが割れちゃってさ。でも、ボクのミスだから仕方ないんだ」
「そう……大丈夫なの?」
「うん、たぶん平気。ちょっと頭が痛いから、寝るよ」
それだけ言って、母さんの返事を待たずに自室へ向かう。風呂に入らず、夕食も摂らないで、そのままベッドに倒れ込むように寝入ってしまった。
夜中、エアコンが効いているのにやけに暑く感じて目が覚めた。全身に激痛が走る。だけれど、強烈な眠気に逆らえず、すぐにまた眠りに落ちてしまった。