あの夢を見たのは、これで9回目だった。
緑色の水に沈んでゆく夢。
ぼくは不良少年になっていた。
中学二年生。
気がつくと周りがみんなおかしい。
こないだ警察に捕まった。なんて話をするようになっていた。
物を盗んだり、物を壊したり。そんなことを普通にする。
普通にやってのけてゲラゲラ笑うようになってた。
特に、親友の『ミズノ』の変化には戸惑いを覚える。
仲間内で一番思いやりがあって、悪いことなど出来そうにないタイプのはずだったが
いつの間にか『竜馬』と友だちになっていて、いっしょに警察に捕まっていた。
『竜馬』というやつは、ぼくの交友関係の中でもいちばん手癖の悪いやつで、ゴブリンみたいな小悪党だ。
しかもミズノが警察に捕まったという話を親友のぼくが知ったのは、しばらく経ってからのことだった。
『竜馬』は名前の立派さが反比例しているホントにヘタレのクズ野郎で、ぼくから持ち物やガジェットを盗んだことがあるほど、手当たり次第に物を盗むどうしようもないやつだ。今なら絶対距離を置くタイプの人間だ。
そんなやつと、ミズノが僕の目の届かないところで付き合っていて、一緒に万引きまでしていたなんて。警察に捕まっていたなんて。取り調べの刑事がヤクザみたいに怖かったことを笑い話にして話してくれたが。なんだかぼくは釈然としない気持ちと。ミズノがぼくの予想しない何かになりかけているような不安を覚えた。その様子は小学校時代から何ら変わらない楽しいミズノだったのだが……。
ぼくらはみんな同じ小学校出身で、その小学校はとても模範的な学校だったと思う。
それというのも、中学になって付近の他の2つの小学校からと合わさって中学に入ると。その他の2つの地区の小学校出身者らが、猛烈に育ちが悪かったのだ。
一つは性風俗店がいくつも建つような古い歓楽街中心でエロエロで風紀が歪んでる。もう一つはなぜか補助金とかもらっちゃう人たちの関係で親がヤクザだったりするヤクザ予備軍みたいなやつだらけ。
でも、そんな大人の事情をこどものぼくらが知っているわけもなく。まったく心の準備もなく無防備に中学に入って衝撃を受ける。とても大きな衝撃。
初めてそれら『野生の王国みたいな連中』に遭遇して、ぼくらの小学校仲間は、ずいぶんと辛酸を嘗めさせられたものだ。他校出身の連中に言わせれば、ぼくらはとんでもなく『ぼっちゃん育ち』だったのだから。
例えば、先生に言ったり、学級会で話し合ったり、そういう事で解決していたこれまでの常識が通用しなくなり。
先生に言うやつは卑怯者。
すべては暴力で解決するのが常識、という世界に一変したのだ。どんな目にあったか想像して欲しい。
ぼくら『お利口さん小学校組』は、たちまち粗暴に染まっていった。
そうしないと、休憩時間にいくつもの他の組の前を通り過ぎてトイレに行くことさえ困難になる。
ただそれでも全国平均の生意気な中学生になったぐらいのレベルであって、多くは別に不良化したわけではない。そもそも根が真面目だったから。
素直で可愛い少年少女では無くなったと言うだけだ。
だが膨れ上がりすぎた生徒数を分散させるために新規に学校が作られ。
ぼくら『お利口さん小学校組』がそれに割り当てられることとなった中学二年の時。
いろいろあって決定的となった。
もと『ぼっちゃん』だった幼馴染たちと再会すると、なんかおかしくなっていた。
ぼくもどんどんおかしくなった。
大きな原因としては、『お利口さん小学校』卒の生徒専用に新しく中学校が建てられることとなり、ガラの悪い地域の連中からの引き剥がしに成功したので、「ここは一発」と先生たちが張り切ったからだろう。ろくでもない張り切り方を。
悪い水にすっかり染まった三年生はもうすでに手がつけられない。──『放置。』
新一年生は悪い水に一切触れていないので問題ない。──『保留。』
残るはぼくら、中途半端に悪い水の影響を受けて生意気になってた二年生であった。
「コイツらをここで徹底して矯正してやろう! そして扱いやすい生徒しかいない学校にしてやろう」という魂胆が見え見えの浅はかな計画で。新学校は、ぼくらの代にのみ、やたらとキビしい体質の学校運営となったのである。
三年生にはビビって見逃すくせに、二年のぼくらには強気という、そんなクソみたいな性根の教師どもの態度と、体罰という一方的な暴力に、ぼくたちが素敵な信頼なんか寄せるわけもなく。強烈な反抗心が湧き上がる。
ああ、めでたく不良の出来上がり。──という経緯になるのかな?
ただこれは僕の場合に限るかも。
友達は、あんなに可愛い、可愛い、ウリ坊が、アッという間に成長して恐ろしいイノシシになる。そういう感じなのかもしれない。ぼくがその変化に鈍感だっただけで。
そんなこんなで、急激に行き場をなくして夜の闇に溶け込んでいくぼくら。
深夜に徘徊しては暇を持て余し、してもしなくてもいい下らない犯罪行為を繰り返す。
あとひとり『山田』
こいつはバカだった、夜徘徊してると突然他所の家のガラスに石を投げつけて割ったりする。そして真っ先に走って逃げる。というひとりドッキリを嬉々としてやる。
頭のネジが外れていた。何故か風呂嫌いで8ヶ月も風呂に入っていなくて、生徒指導の教師に鎖骨を折られたときは、治ってギプスを外したら体にカビが生えていたという伝説を作った。
そんな連中と徘徊してた。
それは刺激的で、わくわくする新鮮な面白さはあったものの。ぼくは正直少し引いていた。
こんな事していて捕まるのは嫌だなとも思っていた。
でも、友達と遊ぶということは、もうそういうことになってしまってもいた。
なんでこうなったんだろう。
そしてあの夏の日。
僕たち四人は、……四人だったと思うんだが。
緑深い山のため池にやってきていた。池というには大きすぎる。その湖畔をなぞるように山肌を削り取った道が付いている。鬱蒼とした木々が湖面までを大きく覆って暗いトンネル状となっていた、足元を見ていないと池に滑り落ちそうだ。
実際、ところどころデタラメな板や丸太で足場が作られていて、時々穴がぬけて、水面が見えていた。
梅雨の雨水を溜め込んで、湖面は直ぐ側まで来ている。
チャプチャプ、チャプチャプ。
垂れ下がった木々の枝が池の水に沈んで揺れていた。
水の色はきれいな黄緑のバスクリン色だ。
きれいな色だから気持ち悪い。
大量の水が入浴剤色をしているのだから倒錯した光景だ。
その水に沈み込んでいく木々の枝々は、まるでぼくらを水の底へと誘い込もうとしているように見えた。
その池は農業用のため池だったが、池と言うには巨大であった。
山々の裾から伸びた尾根が池の形を複雑にしていて、奥まで見通せない。サッカー場が、五つ六つは楽に入るであろう大きさだ。
ぼくが小さい時に近所の誰かのお父さんが入水自殺したという話を聞いたことがある。怖かった。どことなく不気味さの漂う、民家のある宅地とは隔絶された山の中の池。
入口近くには『キケン! 泳ぐな!』とか『危ない!』だとかそういう看板がいくつも建てられていて、ササヤブに半分埋もれて風にザワザワと鳴っている。奥まったところには自殺者や事故で亡くなった人の供養のための祠がまつられていた。
そんな場所にぼくたちがわざわざやってくるのは、悪さをする以外にない。
この前は別のバカどもが池の水位を管理する小屋の中に隠してあったシンナーを発見したので、ぼくらは池に捨てたらどうなるか実験した。
シンナーは蜘蛛の巣みたいに固形化して大きく湖面に広がった。水が汚染されたかどうかは分からない。まもなく風に吹き寄せられたのか、その後は消えていたので、特に何もなかったのかもしれない。
悪いことをすればするほど盛り上がるので、まぁまぁの実験ではあった。
その日もそんな実験で訪れていた。
付近の自治体から盗んだいくつもの消火器をぶちかまそうというのである。
びっくりした。
暗い中で消火器を発動させると火花が出た。
どんな仕組みか知らないが、パッと手元が光った。
そして辺りがピンクの粉まみれ。
落ち葉も雑草も、エイリアンのタマゴじみた不気味な姿をして薄暗がりに生えている『ウラシマソウ』も。なにもかもがピンクの粉をかけられて気味の悪さに趣味の悪さを追加されて、三面記事を思わせる下品なありさまとなった。
だが、なんとなく消火器の噴出ショーは思ったより盛り上がらなかった。花火のように長持ちするわけでもなく、粉と粉煙が静かな湖畔にブシューと立ち上るだけで、あまり悪さをしている感じがしない。僕らは数度咳き込むと、すべての空き容器と化した鉄製の重い消火器を池に投げ込んだ。
ドブォォォォンとくぐもった音を立てて、赤い消火器はみどりの水中へと沈んでいき、見えなくなる。赤と緑の色が混ざり合って、暗い底へと吸い込まれていく。
こういう力仕事はやたら馬力のある山田がよろこんでやった。
ぼくは目を細め、くわえタバコでその様子を眺めている。
「流石シブいな、なーちゃん(ぼくのこと)はキャビン レッドか」
竜馬が言った。
「おう」と答えるぼく。
タバコの味もわからないのに銘柄にはこだわる。ただ箱のデザインがカッコ良く見えたのでぼくはキャビン レッドを吸っていた。
竜馬は、こういう風なことをいいタイミングで言ってくれるので、一緒に居て気分がいい。
どう考えても友達は選んだほうが良いぞと言いたくなる相手なのだが、不良を気取った子どもにとってはそんなことの優先順位はずっと低かった。
ターン……。
池の奥の森の中から銃声がこだました。
猟銃の音だ。
このあたりでは、別に珍しいことではない。狩猟シーズンならやたらめたら音が聞こえる。
ただ、今はそのシーズンでは無かったが。
その辺の山には散弾銃の薬莢がたくさん落ちていた。
この池の奥は果樹園で、◯◯狩りと称して果物を食いに来る観光客も訪れる場所。
ホントは狩猟なんかしちゃいけない場所なんじゃないだろうか。
そういえば近くの山の畜産場と謳っているなぞの施設は覚醒剤を作ってる疑いがあることを従兄弟から聞いたことがある。このあたりでは聞かないが、隣町に住んでいる従兄弟から情報が入ってくるというのが、よけいに真実味があった。──その筋では有名なんだとか。
覚醒剤というのは、製造過程で酷く悪臭がするらしく、それを誤魔化すのに、畜産業の家畜の糞尿の匂いがちょうど都合が良いとのこと。
そういえば某宗教団体も香水を調合してるなどとのたまい、強烈な悪臭を周囲に撒き散らしながら、じつは覚醒剤を密造していたという事件があった。その後、警察の手入れが入って事実が発覚、世間の知るところとなるのだが。ああいう感じなのかも知れない。
ぼくも前から、あそこは畜産なんて言っているが、生産された物が出荷されるのを見たこと無いし、静かな山奥なのに家畜動物の鳴き声ひとつも聞こえやしない。奥へとつづく道には秘密基地めいた厳重なゲートが設えてあって中の様子が一切伺えない。あの施設はなんなんだとは思っていた。
ぼくたちのような、たかだか知れている青臭い悪ガキの生活圏の直ぐ側に、とてつもなく深く大きな闇が息を潜めていたりした。 ……チャプチャプ、チャプチャプ。
竜馬が自慢の、どでかいサバイバルナイフで藪を薙ぎ払いながら進む。
ため池の奥で果樹園をやってるオヤジが、観光客を入れない奥地で商品単価の高い特別製の『ジャンブラ』だかいう果物を作っているという話を思い出し。一丁いだだきに行こうということとなった。
だが道はだんだんと藪が深くなり、こんな先に秘密の果樹園なんかあるのか怪しくなってきていた。
でも夏場はあっという間に草が伸びるし、足元は散弾銃の薬莢だらけだったので、人が寄り付かない道に迷い込んだというワケでは無さそうだ。
森に捨てられた童話のこどもらがパンくずを頼るように、ぼくらは湿った黒い腐葉土の上でもやたら目立つ、赤や青の散弾銃の薬莢を心の拠り所にどんどんと奥へと進んでいった。
沢のチロチロ流れる水が苔むした岩を凹ませていた。どのくらいこの窪みに流れ続けているのだろう? 何十年も人が入っていない原生林にでも踏み込んだ気分だ。
よく見ると、ところどころにこの緑の自然とは不釣り合いな空き缶を見かける。錆だらけの朽ちかけた古いデザインの空き缶。今は存在しないようなメーカー名の付いた空き缶。……それに混じってそれほど古くもない見覚えのあるデザインの空き缶も。
────どういうことだ?
いやこれは捨ててあるのではなく、目印か。枝に挿してあるぞ。
何かある。
わざわざ目印まで残して何度も訪れる価値のあるものが確かにこの奥にあるんだ。
これは当たりだな。心細かった気分が急に自信へと塗り替わっていく。
お宝だ。この先にお宝がある。と、ぼくはみんなに説明した。
陽気なミズノは「ウケケケ」と笑いだし、その楽しい気持ちはたちまち僕ら全員に広がって歩を進めた。
サバイバルナイフがあまり評価されない上に、先頭は損な役回りだと察した竜馬は、さっさと体よく山田と交代していた。山田が元気よくぶっとい棒切れを振り回して邪魔な小枝や蜘蛛の巣を払ってくれる。
あのサバイバルナイフは、他校のヤンキーに絡まれた時、死んだふりをしてやりすごそうとした伝説を持つ竜馬が、強さを求め憧れた結果だ。
だが、ぼくらは護身用にナイフを隠し持つ事はあっても。悪目立ちするサバイバルナイフなんてまるで関心を示さず、それどころか内心「なんで竜馬はこんなものをわざわざ通販で買ったんだろう?」と不思議に思ってたくらいなので、この塩対応は仕方がない──。
急に開けた場所に出た。
周りの山がすり鉢状に囲んでいて、真ん中に草原みたいに木の生えていない広場となっている。広場の土は工事現場のように車両が走り回った轍(わだち)のデコボコが残っており、それを草が覆っていた。どこからクルマが入るんだ? 道なんて見当たらないぞ。
かなり広い。
そしてその広場の奥にバラック小屋のような家がひっそりと建っている。
山に入ったことのない人間には不自然に見えるが、無いことではない。
果樹園の森などは、かつて景気の良かった頃に観光客をもてなすために建てられたであろう、宴会場や座敷の東屋やトイレといった建物の廃墟がいくつも残っている。
鬱蒼とした自然一色の中に、急に生活臭のするものが現れるので、とても気味が悪く感じるが。
そういうもののひとつか……。
僕らは用心深く家に近づいていった。なんせ高級くだものをパクリに来ているワケで、見つかると確実にヤバいという意識がある。
あの家がなんなのか確かめておかなければ……。
いつ果樹園のオーナーのオッサンがブチ切れて飛び出てくるとも限らない。
ぼくらはいつでも逃げられる体制で様子を見る。斥候をかって出たのはミズノだった。
家の窓があったが、真っ白になるほど汚れていて中が見えない、手で拭って覗き見るミズノ。ぼくは恐る恐るという気持ちだったが、ミズノはつねに陽気でウキウキしていた。窓をのぞくときも、憎めないいたずら小僧の顔つきだった。
しかし、その顔がやがて真顔になる。
「誰か居る」
言い方がおかしかった。
ヤバいオッサンなんかがいるのなら、すぐに逃げ出すのにそうじゃない。
もっと真剣な顔で不思議そうに「誰か居る」ともう一度ミズノは言った。
ぼくも窓を覗いてみる。
物置小屋か何かを想像していたら。どうも違う。
普通の……、なんというか、西部開拓時代のアメリカの部屋のような。板の間の部屋にベッドが置いてあり。そのベッドの古ぼけた白いシーツの膨らみの先には、長い黒い髪の頭が見えた。女だ。
女だと思った。それは真っ黒く質量のある髪の様子から、山姥のような子汚いババアや、髪を伸ばし放題のホームレスなどではなく、若い女だと見て取れた。
若い女というか、なんかシーツの膨らみ全体が小さい……。
少女かも。
「事件じゃねーのかこれ……?」
この辺の山の、あの怪しげな畜産場やルールを無視した銃の発砲。
どう考えてもカタギではないオッサンどもが好き勝手やらかしている雰囲気の中。
人けのない山奥のあばら家に、たった一人で少女が寝ている。
それを見てどう思う?
ぼくはすぐに事件の匂いを感じた。それはすぐさまミズノに、竜馬に、やがて鈍感な山田にも伝わったと思う。
「誘拐かな」「拉致監禁かもしれん」 口々に言った。
助けなきゃという思いが頭に浮かぶ。
さっきまで果樹園のオッサンが出てこないかとビビり散らかしてた事は棚に上げて、急にヒーロー気分がこどもの能天気さ丸出しで湧いて出た。
もう、助けようと意見が一致しているのが見合わせた目でお互いにわかった。
しかし、事件なら当然犯人がいるわけで。犯人が近くにいるかもしれないので。
竜馬などは、人を呼んでこようなんて言い始めたが、そんな事をしている間にどうなるか分からない。今、確かめてみるべきだとなった。
木が痩せて隙間が空いたドアには鍵がかかっていなかった。
僕らの気配に女の子は身を起こして、ベッドの縁に腰掛けて黙ったままコチラを見ている。
やはり、ぼくらと年格好が同じくらいの少女だった。
ぼくらは、見知らぬ女の子に対するコミュニケーションの取り方に難がある。
誰も女友達なんか居ないし、彼女がいると主張するのは竜馬だけだ。その彼女にしたって、ぼくの前でこれみよがしに電話して見せたりはするのだが、一緒にいるところはついぞ見たことがなかった。
ただ、ミズノは二歳年下の妹がいる。お兄ちゃんだ。
だからよけい女の子が心配になったのだろう。
ぼくらのヒーロー気分とは違う。
初めて餌台に近づく小鳥のように用心深く家の中へと踏み入る。
なにか罠のような気がしてならなかった。
「だいじょうぶですか?」とミズノがぎこちない素振りで、少女を恐らがせないようにゆっくりベッドに近づいていった。
少女はスッとミズノに手を伸ばした。
ぼくはそんな緊張する瞬間に、妙に気になって部屋の様子を見回していた。
それは影に犯人が隠れていないかとか、そういうのを警戒していた。
勝手に他人の家か犯人のアジトかに入っているのだ、見つかればかなりヤバイことになる。
部屋の中は全体がホコリを被っていた。もう何年も使われていないようだ。
床もホコリが数ミリぐらい積もっていて、ミズノが歩くと足跡が付いていた。
…………あれ?
この時、強烈な違和感が、答えを探して僕の脳裏を激しく走る。
おかしい!
おかしいぞ!?
ミズノの足跡が付いている。
部屋も床もホコリだらけだからだ。
なのにこの女の足跡が無いぞ!
なぜ、この女の足跡が部屋に一つも付いてないんだ!
ベッドのまわりにも一切足跡も何もない。
そんなはずはない! どうやって生活するんだ!
『バキィィッ』 ナマ木が裂けるような尖った音が部屋に響いた。
ミズノが女の手を取った瞬間。
女が異様な速さで腕をねじり振り下ろし、なんなくミズノの腕をへし折った。
か細い小さな少女のなせるわざではない。
ミズノの体が人形のごとく簡単にゆさぶられて、逃げるまもなく忽然と壊されるのを目の当たりにした。
『アッ!』っと思ったと同時に全速力で逃げ出した。
ほぼ反射行動。
元々、変なオッサンとかが飛び出してきたら逃げるという心構えでいたのだ。
餌台の小鳥が一瞬で飛び立つ様子で、ぼくたちは逃げ出した。
仲間を守るだの、ミズノがどうなっただの。
そんなの考える余裕はない。
最初から手に負えない事件に踏み込んでいる自覚はあった。
場合によっては命がヤバいかもと思っても居た。
こんなところで殺されても誰にも知られることはない。
それが現実となって猛烈に逃げた。
山の斜面を、苔むした沢を、ひたすら駆け抜けた。
腐葉土も落ち葉も下生えの枝々も、掻い潜って蹴散らして。
駆けて駆けて、飛び降りて、飛び降りて、傾斜した小道をスピードを殺さず走り続けた。
自分の足音以外の音がずっと付いてくる。これ以上無い無茶な走りをしているのにだ。
草をかき分けて、ケモノのような荒々しい動きでそいつは迫ってくる、すぐ背後にだ。
それが、竜馬か、山田か、確かめる余裕はない。
あるいは二人はもうやられたかも知れない。
疑心暗鬼か、すぐ後ろを走ってくるものが人間とは違う音のように思えてならない。
猛獣に追われている。
少しでも気を緩めて振り返ったりしたら、やられるかも知れない。
必死で走った。
ようやく見知らぬ山道から、見知った大池のほとりへと出て来た。
だが、追手の気配はまだ消えない。
大きな水音がしたかと思うと、その気配は背後から左手の池へと移った。水中を追いかけてくる。
思わず見た。
緑の湖面が一抱えほどのサイズでむっくりと持ち上がって追ってくる。
その盛り上がりの下には、白いワンピースと黒い髪が透けて見えた。
水中を顔も出さずにおそろしい速さで追従してくる。
完全に人間ではないとそのとき認識した。
その光景が、恐怖が、いまだにクッキリと網膜に焼き付いている。
…………そのあとの記憶は曖昧だ。
ぼくはどうやら逃げ切った。
竜馬と山田も逃げ切っていた。
ミズノはその夏、居なくなった…………。
夏休みが終わっても、ぼくはあの事件をすすんで話そうとはしなかった。
ミズノは転校したことになってた。
山田は児童相談所に送られた。
竜馬とは疎遠になった。
曖昧だ。
確認したくもなかったから、曖昧のままにした。
そのうち僕も転校することになって二つ県境を隔ててそれっきりだ。
そして夏になると夢を見る。
緑色の水に沈んでゆく夢。
あの緑の湖面の膨らみの下に、白いワンピースと黒髪と。
それに引きずられるようにミズノが着ていた柄シャツが透けて見えた事。
一年に一度夢に見る。