亜坂は気を遣うように、声の調子をわずかに落としてたずねる。
「もしかして、芸能界をやめちゃったことと関係あるんですか?」
誰もが千晴にそのことを聞きたがる。どうしてやめたのか、いったい何があったのかと。
千晴は答える代わりにクッキーをもう一枚取って口へ運んだ。
亜坂は黙っていた。詮索しないでいてくれるのは助かるが、何かしら言わなければならない。
考えた末に千晴は言葉を繰り返すしかなかった。
「僕はただ、本来の自分に戻っただけなんです。束の間の夢だったんですよ」
亜坂はクッキーをかじって、
「そうですか。じゃあ、もう舞台に立つことはないんですね」
「ええ」
「あきらめちゃったんですね」
「……ええ、そうですね」
千晴は夢の半ばで挫折した。第三者から事実を突きつけられると、ひどく苦い気持ちになる。捨てたはずの後悔がむくりと起き上がり、嫌な思い出をつついてくる。
深く息を吸ってから亜坂はまっすぐに前を見つめた。
「わたしはファンですが、同じ俳優としても千晴さんは憧れでした。舞台に立った瞬間に空気が変わるような、とてもまぶしい存在でした」
千晴は黙ったままグラスに残ったジュースを見下ろした。過去形で話をされるのはとても辛い。月光を反射するオレンジの水面に、かつての泥臭くも輝かしい俳優人生が思い起こされ、同時にその日々を失ったことを実感させられる。
「といっても、千晴さんを知ったのはテレビドラマだったんですけどね。すごく雰囲気のいい人だなって思って、気になって……それで、昔の舞台も見られるものは全部見ました。まさかこんな風に会って話ができるだなんて、本当に夢みたいなんです」
往々にしてそんなものだ。推しと知り合いになれたら、誰だって夢のようだと思うだろう。
「千晴さんが芸能界をやめちゃったのは残念ですが……」
少し寂しそうな表情を見せた亜坂だが、次の瞬間には瞳に強い輝きを灯していた。
「でも、だからわたし、思いました」
亜坂が決意したかのように深呼吸をする。先ほどまでと違い、力強く宣言した。
「わたしはあきらめません。千晴さんのような存在感のある俳優になりたいから、必ずアイドル活動と両立してみせます」
「え、アイドル?」
思わずきょとんとしてしまった千晴へ、慌てたように亜坂が説明する。
「あっ、まだ言ってませんでしたっけ。実はわたし、ジンテーゼっていうグループ名で地下アイドルやってるんです」
道理で可愛いわけだと合点がいく。だが、現役アイドルを劇団のオーディションに合格させたとは思いもよらなかった。経営を持ち直すために話題性を選択した結果だろうか。よほど劇団は追いつめられていたようだ。
気分が重くなる千晴だが、彼女によけいなことを考えさせまいとして平静を保つ。
「えっと……スマホがあれば写真とか動画とか、見せられたんですけど」
恥ずかしそうにする亜坂から視線を外して、千晴は半ば独り言のように返す。
「いや、すごいな。アイドルもやってるのに俳優もなんて……」
夢も目標も失ってしまった千晴からすれば、彼女の姿はまぶしくてたまらない。下心とは別の憧れが小さく顔を出し、純粋に心から応援したいと思った。
「本当にすごいです。見守ることしかできないけど、僕も応援します」
「えっ、あ、ありがとうございます!」
どぎまぎと礼を言う彼女を、千晴はやはり可愛いなと思ってしまう。恥じらう姿に胸がときめき、今すぐにでも抱きしめたくなる。
このまま何時間でもしゃべっていたい。そしてもっと彼女のことを知りたい。
しかしクッキーはもう残り一枚になっていた。
気を遣って手を伸ばさずにいると、亜坂も気づいて袋を手に取った。
「あ、最後の一枚ですね。千晴さん、もらってください」
「いいんですか?」
「はい。お話に付き合ってもらったので」
差し出されたそれを受け取り、千晴は「ありがとうございます」と少しだけ微笑んだ。彼女のかざらない優しさが嬉しかった。
亜坂は安堵したように口角を上げ、残りのジュースを一気に飲み干した。
穏やかな夜の中、亜坂は照れを隠すようにして遠くの光を見つめる。
「さっきまでは気が張りつめてて、眠れる気がしなかったんです。でも、千晴さんと話してたら落ち着いたみたいで、ちょっと眠くなってきました」
くすりと笑う彼女につられて千晴も口角を上げた。
「それはよかったです。僕も亜坂さんと話せて、ちょっと気持ちが軽くなりました」
恐怖や不安は消えていないが、和らいだのは本当だった。口にはしないが、彼女が犯人ではないだろうとも思う。
「そうですか。ありがとうございます、千晴さん」
「僕の方こそ」
軽く視線を合わせて互いに少しだけ笑う。照れくさくて相手の顔をちゃんと見ることはできなかったが、胸はほんのりと温まった。
「あっ、もしかしてあれって天の川ですか?」
ふと空を見た亜坂が言い、千晴もそちらを見上げる。いつの間にか晴れて無数の星々が二人を見守っていた。
「ああ、そうですね。山の中だからはっきり見えますね」
「初めて見ました、天の川。すごく綺麗だけど、何だか、悲しくもなりますね……」
亜坂ははしゃぐこともなく、ただ切ない顔で夜空を見つめる。きっと宇原のことを考えているに違いなかった。
気の利いた言葉をかけられず、千晴は言った。
「そろそろ部屋に戻りましょうか」
部屋の前まで亜坂を送り、千晴は静かに階段を下りた。
アイドルをやっていたことには驚いたが、彼女は可愛いだけじゃない。思慮深くて優しい心の持ち主だった。ロマンティックなはずの天の川を見て、悲しいと口に出せる聡明な人だった。
千晴には手が届かない相手のような気がした。いくらあちらが自分のファンでも、それ以上の関係になるのは難しいのではないだろうか。彼女の中にある憧れのフィルターを破れたとも思えない。不純な気持ちを抱いているのが自分だけかと思うと、情けなくてため息が出る。
自分の部屋へ入って扉を閉めてから、千晴はテーブルにクッキーの袋と空のグラスを置いた。
クッキーの袋をじっと見つめ、少しの間考えこむ。眠る前にクッキーを食べてしまおうかと手を伸ばしかけたが、何だかもったいない気がしてきた。食べてしまえば、亜坂と過ごした時間が消えてなくなるように思われたのだ。
立ったまま考えている間にまぶたが重くなり、自然とあくびが漏れた。心地のいい疲労感が全身を包む。
「ダメだ、寝よう……」
つぶやいてすぐにベッドへ横たわった。今度はしっかりと部屋の明かりを消して、千晴は誘われるまま両目を閉じた。
まぶたの裏に一日の出来事が駆け巡り、次第に薄れていった。人生で初めて遭遇した殺人事件の衝撃は、千晴を心身ともに