まだ春浅い頃、柔らかな風が頬を撫でる季節。
わたしはひょんな偶然で、その野ネズミに恋をした。
ちょこちょこと動き回る俊敏な姿、つぶらな瞳はどこか儚げでありながら、生命の輝きを湛えていた。しっぽがとても愛らしくて、無邪気に野原を走る姿から目が離せなかった。
そう、この不格好な蜥蜴は、心を奪われたのだ。
ああ、でも、わたしのこの恋は叶うまい。
だって、わたしは蜥蜴。あなたは野ネズミ。
でも、つい、諦めきれないわたしは、あなたを追いかけてしまった。
ただ、一言。そう、一言でもおしゃべりをしてみたかった。
怖がらせてしまうことはわかっていたけれど、友だちとして語らいたいと思うことは罪ではないと思った。きっとわかりあえる、と。
しかし、運命は残酷だった。
追い詰めた先で、彼は崩れかけた土蔵の陰に逃げ込んだ。
ちょっとしたきっかけで、出口は崩れ去り、わたしたちは閉じ込められてしまったのだ。
じめじめとした暗闇の中、野ネズミはこの姿に怯え、壁の隅で小さく震えていた。
「ああ、ごめんなさい。そんなつもりはなかったの。――どうか、怖がらないでください」
努めて、優しい声でそう言った。
普段は虫を追いかける素早い動きも、今はゆっくりと、ネズミに安心感を与えるように近づいた。
でも、それも煽ることにしかならなかった。
眼に映るのは恐怖心、それに不格好な蜥蜴のわたし。
舌を伸ばして、ひゅるひゅる音を立ててから、わたしは彼と距離を取った。
「ごめんなさいね、ほんとうにごめんなさい」
数日が過ぎ、閉じ込められたわたしたちは、徐々に飢えを感じ始めた。
最初の頃は、野ネズミも仲間に助けを呼ぶように、悲痛に鳴いていたけれど、誰にも声は届かなかった。
いや、もしかしたら、わたしの存在が、他のネズミたちを遠ざけたのかもしれないと、胸が痛んだ。
やがて、耐えがたい現実が迫る。
土蔵の中には、食べられるものは何一つない。小さな野ネズミのお腹は、日に日にぺたんこになっていった。
これも、すべてわたしのせいなのだ。
見るに見かねて、わたしは覚悟を決めた。
「わたしは、飢えには強い生き物なのです。どうか、わたしの手足を食べてください」
野ネズミは目を丸くした。信じられないと言わんばかりだ。
躊躇なく、わたしは自分の小さな前足を一つ、ポトリと地面に落とした。
「どうかこれを…」
野ネズミは震える手でその小さな肉片を受け取ると、目から涙が溢れて止まらなくなった。
一口食べるごとに、ネズミは涙を流し「ボクのためにごめんなさい、ごめんなさい」「ボクのためにありがとう、ありがとう」と謝罪と感謝を交互に伝えてくる。
それが初めて交わした言葉だった。
ああ、そんな顔をしないでください。そんなことを言わないでください。
すべてはわたしのせいなのだから。
わたしが、あなたと友達になりたいと思ったから。あなたを怖がらせたのがいけなかったの。
それから、ぽつりぽつりと言葉を交わすようになった。
待ち望んでいた結果だったけれど、嬉しいとは思えなかった。
その後も、わたしは自分の手足を分け与え続けた。
次はうしろ足を順番に、そして最後の前足。
野ネズミは生きながらえることができたが、その度に、わたしのカラダは無残な姿へと変わっていった。とうとう、四本の手足を全て失うと、まるで地を這う不格好な蛇のようになってしまった。
それでも、まだ残る身を差し出そうと思った。
「まだ、尻尾が残っています……」
「もう、これ以上はボクは受け取れません!」
ネズミは涙ながらに叫んだ。
「ボクはあなたに恩を返すこともできず、ただ蜥蜴さんの犠牲によって生きている自分が情けないです」
そして、今までの、蜥蜴を恐れていた自分の振る舞いを深く反省するとまで口にした。
ああ、あなたは勘違いをしているわ。わたしは、誰にでも慈悲深いわけじゃないの。
あなただから、こうしてるだけなのよ。
臆病なわたしは、想いを告げることも出来ない。
その時、野ネズミはふと気づいた。
「手足を失った蜥蜴さんなら、あの狭くて平べったい隙間を通って、ここから出られるかもしれません!」
彼が指さした先には、確かに隙間があった。先が見えない穴が広がるが、目を凝らせば、光が差しているようにも見える。
しかし、這いずるわたしはなんとか首を左右に振った。
「あなたのことは置いてはいけません」
その言葉に、野ネズミは静かに言った。
「なら、ボクの命を連れて行って欲しい」
わたしはその意味をすぐに理解した。
必死に断ろうとしたが、目の前でどんどん衰弱していく野ネズミを見て、何も言えなくなってしまった。
日に日に弱っていき、毛並みも艶がなくなり、やせ細っていく。愛嬌の合った声すらも、ガサガサになって行く。
とうとう、物も言えなくなった野ネズミが、じっとこちらを見てくる瞳。
わたしはその瞳に抗えなかった。
変わり果てた身体をよじらせながら、野ネズミに近づき、ゆっくり口を開いた。
野ネズミを自らの喉へと引き込み、喉を詰まらせながら、痩せたその短躯を丸ごと飲み込む。
長い時間をかけ、痛みと悲しみが交錯する変容を経て、わたしたちのカラダは一つになった。
そして、手足のない、奇妙な生き物となったわたしは、野ネズミが教えてくれた狭い隙間を通り、ゆっくりと土蔵の外へと這い出した。
もう、わたしの居場所は蜥蜴の世界はなかったが、こんな悲劇を繰り返すわけにもいかなかった。他の生き物と言葉を交わそうなんて、思ってはいけなかった。
やがて、人間たちに見つかると、彼らはわたしの異様な姿に驚嘆した。
「チーッ!」
わたしは、警戒するように威嚇すると、口の中から二本の小さな前歯を吐き出して、一人の男に飛び掛かった。捕まるわけにはいかなかった。野ネズミとの約束を守り、生き延びなければならなかった。
人々は、手足を失った奇妙なわたしを、「ツチノコ」と呼ぶようになった。そして、その姿を追い求め、人間はいつまでも付け狙うようになった。
人間たちの追跡は、執拗だった。どこへ行っても、彼らはわたしの影を探し回った。その度に、わたしは恐怖を感じ、身を潜めた。
でも、耐え忍ぶことはもう苦しくない。あの土蔵で慣れてしまった。
ただ、あの子がいない世界で、わたしは独りぼっちになってしまった。
土蔵から這い出てしばらくは、あの子の温もりをまだ感じていた。一つになったわたしの体には、確かにあの子が生きていた証が残っていた。
だけど、時間が経つにつれて、その感覚は薄れていく。まるで、大切な何かがゆっくりと失われていくようで、たまらなく寂しかった。
夜になると、星空を見上げた。あの子も、同じ空を見ていたのだろうか。
風が吹くたび、草木が揺れるたび、あの子の声が聞こえたような気がした。
「ありがとう」「ごめんなさい」
何度も何度も、わたしの心の中で繰り返されるあの子の言葉。
わたしはただ、血肉となった友を追悼しながら、今日も静かに大地を這い続ける。
あなたの命を連れてどこまでも。