午前中の空気って、こんなに静かだったっけ……。
まだ窓のカーテンは少しだけ開いてて、白く柔らかい光が部屋に差し込んでる。
大和さんの匂いがする……タバコの香りと、少し古びた本の匂い。それに、大和さんだけが持ってる、あの安心する感じ。
デスクに向かってる大和さんの背中が見える。黙々と作業してるけど、ちょっとだけ疲れてる気がした。こんなふうにさせちゃったのは、私だよね……。
枕元にあるスマホの画面が、ぼんやり青く光ってる。さっきまでずっと見てたDMのやり取り。最後のメッセージが、頭の中で何度もリピートしてる。
『了解です。13時、神楽坂駅前のカフェで待ってます』
送信ボタンを押した瞬間、心臓がドクンって跳ねた。
……大丈夫。これは、大和さんのため。証拠が手に入れば、きっと何かが変わる。
私にできることなんて、そんなにない。でも……本当に、これでよかったのかな。大和さんに隠し事なんて、したくなかったのに。
スマホをそっと枕の横に置いた。指先が少しだけ震えてる。小糸さんなら、こんなときどうするんだろ。あの人、絶対動じないんだろうな……って、考えてたら自然と膝を抱えてて、深く息を吐いてた。
カタカタ……大和さんのキーボードの音だけが静かな部屋に響いてる。声をかけたら、気づかれるかも。だから私は、丸くなって気配を消した。
どれくらい経ったんだろう。たぶん、1時間くらいかな。空気の温度が少し変わったような気がして、顔を上げた。
時計の針が11時を少し過ぎてた。
私はそっとベッドから立ち上がって、クローゼットの前に立った。引き戸を開けると、数枚だけ吊ってある服の中に、見慣れない――というか、普段なら絶対に選ばない服がある。
白いブラウスと、膝上のスカート。昨日、小糸さんが「貸してあげる」って言って置いていったやつだ。
鏡の前に立って、それを手に取ってみる。似合うかなんてわからないけど……今日だけは、ちょっとでも大人っぽく見せないと。
髪を整えて、リップも少しだけ塗った。ほんのり色がついただけなのに、鏡の中の私は、少しだけ別人みたいに見えた。
……あの人。私のファンだったって言ってた。
たぶん、アイドルだった頃の私を覚えてる。
だから、ちゃんと“それらしく”いないと。録音をもらうためには、少しでも「可愛い」って思ってもらえた方が……いいはず。
リビングに戻ると、大和さんが椅子をくるりと回して、こっちを見た。
「……お前、どこ行くんだ?」
視線が、私の足元から、髪の先までゆっくりと動いていくのがわかって、顔が一気に熱くなる。
見てる。ちゃんと見てくれてる。なのに、恥ずかしくて、ちょっと嬉しい……。
「ちょっと、生活用品を……買いに……」
ごまかすように言った私に、大和さんは少し目を丸くした。でも、それ以上何も聞かずに、
「そ、そっか、気をつけてな」
それだけ言ってくれた……それだけなのに、その一言が、なんだか胸にじんときた。
「……はい」
うつむいたまま、玄関へ向かう。
ドアをそっと開けて、靴を履いて。静かに閉まるカチャンって音が、やけに響いて聞こえた。背中をちょっとだけ押されたみたいだった。
外に出た瞬間、空気が思ってたよりも冷たくて、思わず腕をさすった。
陽射しはあるのに、どこか澄んでて静かな空気。通りを歩く人たちの足音が、やけに鮮明に耳に入ってくる。
神楽坂の駅前まで来ると、まだ待ち合わせの時間には少し早かった。
ゆっくり歩いたつもりだったけど、それでも早く着きすぎたみたい。
どこか落ち着かなくて、駅前のカフェの前で足を止めた。
ふと、ガラスに映った自分の姿が目に入った。
白いブラウスに、少し短めのスカート。普段なら絶対に着ない服装。
髪も整えて、リップも塗った。鏡で見たときは、いつもと違う自分にちょっとだけ自信が持てたのに……今は、なんだか不安でいっぱいだった。
通りすがりの男性が、ちらっと私の方を見る。さりげなく視線を逸らしたけど、視線の感触が消えない。
それが目的だったはずなのに、胸の奥がざわざわする。
近くを通った男子高生たちがこっちを見て、何かをひそひそ話しているのが聞こえてきた。
やっぱり……浮いてるのかな、この格好。
スカートの裾を引っ張って、カバンをぎゅっと抱える。
でも、もう引き返せない。私はこの格好で来たんだし、このまま行くしかない。
落ち着こうと思ってポケットに手を入れた。スマホを取り出して時間を確認しようとして……そのまま動きが止まった。
……ない。
もう一度、反対側のポケットも探ってみる。でも、やっぱりない。
あれ……部屋に置いてきた?
急に胸がドクンと鳴った。どうしよう。
でも……大丈夫。部屋にあるなら、大和さんが見ることは……いや、大丈夫、それにロックもかかってるし……きっと、平気。
大きく息を吸って、吐き出した。少しだけ落ち着いた気がした。
そのときだった。
「仕事以外で会うのは初めてだね……会えて嬉しいよ、栞ちゃん」
背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。
ゆっくりと振り返ると、清潔感のある男の人が立っていた。
年は……二十代半ばくらいかな。服装はラフだけど、なんとなく“慣れてる”感じがした。
その視線が、一瞬だけ私の胸元に落ちたのが分かって、背中がすっと冷たくなる。
やっぱり……見られてる。
そっとカバンを持ち直して、視線を逸らした。
でも、顔には出さないようにした。今日は笑ってなきゃダメなんだ。
「……今日は、ありがとうございます」
ぎこちないけど、なんとか笑顔を作ってみせた。
「俺、裕太っていうんだ。仕事で何度か会ったよね?その時からずっと、栞ちゃんのこと応援してたんだ」
あ……この人が。
DMでやり取りしてた、『しおりん親衛隊』。
この人が、録音を持ってる。
うまく話せるかな……ちゃんと、もらえるかな……。
胸の奥に、また別の緊張がじわっと広がってくるのを感じながら、私は彼について、カフェの扉をくぐった。
カフェの中は、外よりも少し暖かくて、ほんのりコーヒーの香りが漂ってた。奥の方の窓際の席に案内されて、私は彼の向かいに腰を下ろす。ガラス越しに差し込む光が眩しくて、少しだけ目を細めた。
テーブルの上には、水の入ったグラスとメニュー。でも、何を頼むかなんて、全然頭に入ってこなかった。
隣の席から聞こえる会話や、店員さんの笑い声が、なんだか遠く感じる。
彼は、さっきよりもリラックスした様子で笑ってた。でも、その視線がふとした拍子に、また私の胸元や髪に向かうのが分かって、体がじわじわこわばっていく。
平気なふり。何でもないふり。
しなきゃ……って思えば思うほど、表情がぎこちなくなっていくのが分かった。
「配信やってた時の歌、とっても良かったよ。特にあの『青い瞳の彼方へ』は名曲だったなぁ」
「……ありがとうございます」
声が喉の奥でつっかえた。
嬉しいって思いたいのに、なんでだろ……素直に喜べなかった。
「他にも好きだった曲あるよ。たとえば……あれ、なんだっけ。ほら、サビのとこで『キミといた景色が』って入るやつ。あれ、何回も聴いたな」
「……『シリウスの記憶』ですか?」
「それそれ! ほんと良かったよ。あのときの栞ちゃん、すっごく輝いてた」
“あのときの”。
今は、そうじゃないって、そう聞こえてしまう。
ほんの少しだけ、指先に力が入る。
カップを持ち上げて、口をつけるふりをした。
「本当に事務所辞めちゃったの? もったいないよ。ファンはみんな待ってるのに」
私は視線を落として、カップを両手で包み込んだ。
そうやって言ってくれる人がいるのは、ありがたい。……でも。
もう、戻れない。戻っちゃいけない場所だから。
「でも逃げたのには理由があるんだよね。あそこのマネージャー、酷かったもんね。仲間内でも、あの事務所はヤバいって有名だったよ」
思わず顔を上げた。
……え?
分かってる人なのかも、って一瞬だけ思った。
「……その、例のイベントの録音、まだ……持ってますか?」
少しだけ息を呑んで、でも勇気を出して訊いてみた。
彼は目を細めて、そしてコーヒーをひと口飲んでから、柔らかい笑顔を向けてきた。
「もちろん。あるよ」
よかった、って思った、そのすぐあと。
「でも、その前に……せっかくこうして会えたんだし、もうちょっと話そうよ」
……ああ、やっぱり。
彼の楽しそうな話し声が、どこか遠くに感じてしまう。
テーブルに視線を落とすと、アイスが少し溶けていて、スプーンの先に水滴がにじんでた。
いつの間にか、そんなに時間が経ってたんだ。
彼の笑顔は変わらないのに、その視線がまた私の胸元をかすめた。
見られてる、って分かる。なんでこんなに見てくるんだろ……。
大和さんならいいけど、他の人に見られるのは、なんかやだな……。
「このあと、ちょっとだけ……場所変えてもいい?もっと静かなところで、ゆっくり話したいなって」
どこへ行くんだろう……はっきりわからないけど、胸の奥がざわついて落ち着かない。
さっきまでの“分かってくれるかも”って気持ちが、じわじわ崩れていく。
その奥に隠れてた本音みたいなのが、透けて見えるような気がする。。
私は、小さく頷いた……それしか、できなかった。
カップの縁をなぞる指先が、うっすら震えてた。
会計を済ませて、カフェから出ると、冷たい空気が私の頬に当たった。思わず身震いする。
私の隣で彼が歩いている。近すぎる距離感に、私は無意識に体を引いてしまう。彼の肩が触れそうになるたび、胃の奥がキュッと縮む感じがする。
「こっちだよ、栞ちゃん」
彼の笑顔が見えて、私はただ黙って頷いた。駅から少し離れた路地に入ると、周りの様子が変わっていく。人の姿がまばらになって、聞こえるのは自分の足音と彼の足音だけ。
声が出てこない。どこに行くのか聞けないまま、ただ彼の背中を追っている自分がいる。路地を曲がるたび、明るい大通りがどんどん遠くなっていくのが感じられる。
広い通りから離れるにつれて、周りの景色が変わっていく。人通りも少なくなって、こんな場所に来たの初めてかも。
「さっきの話の続きなんだけどさ――」
彼の声に、私は自分の声じゃないみたいな声で「はい」と答えた。
「歌も聞かせてほしいな、あの透き通った声、生で聴きたいんだ。ここじゃ周りの目があるから……もう少し先に行こうよ」
彼の声に甘ったるさが混じっている気がした。その意図がはっきりと感じられて、背筋に冷たいものが走る。
やっぱり……この人も、私に何かを求めてる……。
建物の隙間からネオン看板が見えた。目に入った"HOTEL"の文字に、私の中の何かが凍りついた。足が勝手に止まりそうになる。
心臓がバクバクして、手のひらから冷たい汗が出てきた。
「ど、どこに行くんですか?」
自分の声が遠くに聞こえる。
「中で話そう。人目もあるしさ」
彼の手が私の腕に伸びてくるのが見えて、私は反射的に体を引いた。でも後ろも壁で、逃げ場がない。
このまま彼についていかなきゃいけないの?嫌だ。でも……録音データは欲しい。大和さんのためにも、証拠が必要だから……。
だけど、このホテルに入ったら、何が起きるかくらい、私にだって分かる。
「大丈夫だって、栞ちゃん。ちょっとお話するだけだよ」
彼の声が遠くに聞こえるような気がした。緊張で頭がくらくらして、少しめまいがしてきた。
何か言わなきゃ。断らなきゃ。でも言葉が出てこない。
「ほら、録音データ、欲しいんでしょ?」
その言葉で、私の中の何かが壊れそうになった。嫌だ、嫌だ、嫌だ……。
「栞!!」
急に聞こえた声に、私は振り返った。
大和……さん?
息を切らして立っている大和さんの姿が、現実じゃないみたいに見えた。なんで?本物なの?
「お前、誰だよ!?」
彼が叫ぶ声が聞こえる。
「てめぇ、なに考えてやがんだ!」
大和さんの声、怖いくらい低くて震えてる。こんな大和さん見たことない。
拳を振り上げるのが見えた。私の目の前で喧嘩になっちゃう……!そう思った瞬間、大和さんの拳は途中で止まった。
「う、うるせーな!そもそもこいつからついてきたんだよ!な、何マジになってんだよ!」
彼の大きな声で、周りの人が私たちを見ているのが分かる。突然の出来事に混乱して、体が動かない。
大和さんが彼の襟をつかんでる。
「もう二度と近づくな……いいな!?」
低い声なのに、すごく怖い。私まで震えてしまう。
「ひっ!?」
彼は小さく叫んで、大和さんを押しのけ走り去ってしまった。
その姿が見えなくなった瞬間、私の足から力が抜けた。膝が折れそうになって、そのまま地面に倒れこみそうになる。
でも、倒れる前に大和さんの腕が私をつかんでくれた。
「大丈夫か!?」
大和さんの声が耳元で響く。温かい手が私の肩をしっかり支えている。
大和さんの顔を見上げると、その瞳には怒りと心配が混ざっていた。安心感で一気に力が抜けて、涙が溢れてきた。
「バカかお前は!!何してんだ!!」
大和さんが怒鳴ってる。怒られても仕方ない。でも、怒ってる顔のはずなのに、どこか悲しそうな表情が見えた気がする。
「ごめんなさい……や、大和さんが、証拠欲しいって……だから……」
言葉が途切れ途切れになる。自分でも何を言ってるか分からない。
「お前が壊れたら意味ねぇんだよ!!」
大和さんの声が震えてる。凄く怒ってる……当然だよね。でも、少しだけ嬉しい……だって、私のことを、それだけ思ってくれてるって事だよね……。
ぐちゃぐちゃな感情が、我慢してた涙を一気に押し流した。
ポロポロこぼれてきた。止まらなくなって、気づいたら大きな声で泣いてた。体から全部力が抜けて、そのまま大和さんにしがみついた。
大和さんの腕が私を包んでくれる。私の頭を優しく撫でる手。
あったかい……大和さんの匂い、安心する。
「もう、一人で勝手な行動するなよ……」
大和さんの声が頭の上から聞こえてくる。私の髪を撫でる大和さんの手が震えてる気がする。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何度も謝る私に、大和さんは黙って背中を撫でてくれるだけ。
周りの人が私たちを見てるのが分かる。恥ずかしいけど、今は大和さんから離れたくない。
「帰ろう」
大和さんがそう言って、私の肩を抱くように歩き始めた。
二人で家に帰る道すがら、何度も大和さんの顔を見上げてしまう。
また迷惑かけちゃった……でも、どうして来てくれたんだろう……どうやって私を見つけたの?
いろんな疑問が胸の中でぐるぐる回ってるけど、今はただ、大和さんの横にいられることがなによりの安心だった。
マンションに戻ってきたのに、玄関のドアが閉まった音さえ、どこか遠くの出来事みたいだった。あの人の影がまだ頭の中に残ってる。ホテルのネオンと一緒に、胸の奥にこびりついて離れない。
ソファの端に腰を下ろして、そっと膝を抱えた。スカートの裾が少しだけ浮いてて、指先で直しながら、ぼんやりと床を見つめてた。
何もできなかった。何一つ。大和さんのためにって思ってたのに。頑張ったつもりだったのに。ぜんぶ、ひとりで勝手に空回って、終わった。
怖かったくせに。無理なの分かってたくせに。あんな場所に行こうとした自分がバカすぎて、息が詰まりそう。
頭の中が混乱してる。胸の奥が重くて、冷たくて、息を吸うだけでまた泣きそうだった。
「あの……どうして、大和さんは……私のこと、見つけられたんですか?」
声、ちゃんと出たのか自分でも分からなかった。聞きたくて、でも怖くて。喉が詰まってた。
大和さんは、眉を少し動かしてこっちを見たけど、怒ったりとかしてなかった。
「お前のスマホ、ベッドの上に置きっぱなしだった。通知が光っててな……画面にちょっとだけ、メッセージが見えたんだ。神楽坂のカフェって」
通知……。
「勝手に見て、その、ごめん。でも、今朝のお前、どっかおかしいと思ってさ――」
謝らなくていいのに。見られて困るようなことじゃなかったし、それに……。
たった一瞬、通知に映っただけのメッセージを頼りに、本当に来てくれたんだ。
何も言ってなかったのに。どうしてそんなに優しいの……。
「それから、その辺りをとにかく歩き回った。おっさんの体力じゃきつかったけどな」
冗談っぽく笑ってくれたその声に、胸がキュッと痛んだ。喉の奥が熱くなって、目の奥もじんとした。
これ以上泣いたらダメって思ったのに、頑張ったのに……堪えられない。
ごめん。ほんとに、ごめんなさい。
そのとき、スマホの音が鳴った。
大和さんが電話に出る。少しだけ距離があるのに、言葉のトーンが変わるのが伝わってきた。
「厳しそう……か。うん、わかった」
背中が、少しだけ沈んだように見えた。
「おいおい、小糸のせいじゃないって。気にすんな」
その言葉だけで、なんとなく察してしまった。
小糸さん……ダメだったんだ。
じゃあ、もう……全部、ダメなのかもしれない、私のせいで、どんどん壊れていってる。全部、崩れていってる……。
情けなくて、悔しくて、消えてしまいたくなった。小さく膝を抱えて、顔を埋めた。こんな私、なんの役にも立たない。
そのときだった。足音が、近づいてきた。
そっと顔を上げると、大和さんが私の前に膝をついてて、まっすぐに目線を合わせてきた。
「まだあと一日ある」
その言葉が、胸の奥にスッと落ちた。
もう無理だって思ってたのに、心のどこかがじわって揺れた。
「そんなに落ち込むな、栞。俺を信じろ」
……そんなふうに言われたら、私……。
「うっ……」
嗚咽が喉まで上がってきて、止められなかった。
「見てろ。たとえ無様でも、最後まで足掻きまくってやる。それが俺のやり方だ」
そう言って、大和さんの大きな手が、私の頭を優しく撫でた。
ただ撫でられただけなのに、もうどうしようもなかった。
なにかが一気に崩れて、なにかが一気に満たされた。うれしくて、苦しくて、全部あたたかくて……。
この人に触れられて、やっと、自分の輪郭がわかった気がした。
その瞬間、胸の中に何かがぶわって広がった。くすぶってた火が、また灯った気がした。
大和さん……やっぱり私……あなたのこと……。