目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話 アラサーおっさん危機一髪配信

 テーブルにピザの空き箱が転がっている。


 ピザ受け取ったときに、馴染みの配達員が「いや~お客さん、奥さんと彼女さんと楽しそうですね!」って言ってきて固まった俺。背後で小糸のクソうるせぇ笑い声が響いて、栞は顔を真っ赤にして俯いてた。その光景を思い出すだけで頭が熱くなる。


 「じゃ、私はそろそろ帰るわ」


 小糸が時計を見て立ち上がった。八時を回ったところだ。彼女は荷物を片付けると、ドアに向かって歩き出した。いつものようにポケットからタバコを取り出そうとして、一瞬手を止める。


 「あ、そっか。栞ちゃんの前ではダメね」


 珍しく気を遣う小糸。ドアまで送ると、彼女は突然振り返った。妙に真剣な顔で俺を見つめる。


 「マジで何もしないでよ?そういうの、昔から信用してないんだから」


 不意打ちに喉がつまる。


 「ねーよ」


 短く返しても、視線が鋭さを増すだけだ。


 「いや、栞ちゃんの方から何かあったら、あんた断れないでしょ。意志弱いし」


 図星をつかれて言葉に詰まる。正直、柚子にもいつも振り回されてた。でも今は別れたんだ…と思ったら余計に落ち込む。


 「お前は俺を何だと思ってんだ……」


 小糸はため息をついて、肩をすくめた。


 「男。あと、バカ」


 「うるせぇよ」


 思わず声が上ずる。頬が熱い。そんな俺に小糸の目が細くなる。先輩風吹かせるような口調になった。


 「……手出したら、ガチで"未成年略取+α"でサヨナラよ?録音どころか人生ごとミュートされるからね」


 「しつこいな、分かってるって……何もしねえよ」


 自信なさげに答える俺に、小糸は鼻で笑った。


 「その言い方が一番信用ならないんだけど……。マジで分かってんの?」


 一歩踏み込んで顔を近づける小糸。化粧気のない素顔だが、こうして近くで見ると美人だな、と改めて思う。


 「"無自覚で踏み込んでくる女の子"って、結構強いのよ。男なんて、ワンタッチで歪むもんだから」


 その言葉に、一瞬言葉が出ない。小糸のこういう的確な一言が、時々不意打ちのように効く。


 「……ま、せいぜい気をつけて?じゃ、私は"音"の世界に戻るわ」


 小糸はいつもの調子に戻り、ドアを開けて廊下に出た。背を向けたまま、最後にもう一言。


 「……あんたが、そういう顔する時が、一番心配なのよ……バカ」


 言い残してドアを閉めていった。そういう顔って何だよ?って言いかけて、口をつぐんだ。


 「あの……今夜まで、すみません……」


 背後から栞の声がして振り返る。ソファで膝を抱えるようにして、申し訳なさそうな顔をしていた。


 小糸に頼んで三〇四号室の賃貸契約の仮手続きは済ませてくれたが、正式な鍵の発行と引き渡しは不動産業者の都合で明日以降になるらしい。栞の新居はまだ空室状態で、家具も寝具もない。レンタル業者には頼んだが、それもすべて明日から。だから、今日までは俺の部屋に泊まることになった。


 「別に気にするなよ」


 肩をすくめながら、改めて時計を見る。まだ八時過ぎ。配信の準備をするにも時間がある。栞の視線が背中に突き刺さってるのを感じながら、PCの電源を入れる。


 「……それでも、やっぱり、どきどきします」


 栞の呟きに、思わず体が強張った。返事に困ってPCの画面に目を戻したけど、俺の方がドキドキしてる。十六歳の少女と同じ部屋で、二晩連続一緒に過ごすというプレッシャー。小糸以外に見られたらもう人生詰む。小糸の警告が耳から離れない。


 栞はリビングの隅で、姿勢を小さくして座っている。昨日と違って、今日は彼女の存在感が妙に大きい。いや、本当は小さな女の子なんだけど、この部屋の中だと妙に色気が出てるような……って、おい、何考えてんだよ俺は。


 視線をPC画面に戻し、脳内の変な思考を振り払う。これまで調べてきたSNSアカウントを再度確認する。栞のファンを名乗るアカウントが何十とヒットしていて、この中から音響スタッフを探さないといけない。


 検索結果をスクロールしていたら、ひとつのIDが目に留まった。


 「@shiorin_guardian」


 しおりん親衛隊?まさか?


 プロフィール欄には「リアル現場派」「推しは生声」という言葉。フォロワーは少ないけど、投稿を見ると裏方っぽい写真やら音響機材の話題が多い。もしかしてこれがTK.SOUNDの関係者?


 思い切ってDMを送ることにした。


 『突然すみません。栞さんの件で、少しお話を伺えませんか?音響スタッフとして現場にいた方ですよね?』


 送信ボタンを押した瞬間、既読マークがついた。オンラインか。期待と不安で胸がばくばくする。栞が話してた出来事、ピンマイクを外し忘れて控室で怒鳴られて突き飛ばされたやつ。その音声が残ってれば証拠になる。


 会場も日付も、彼女が教えてくれた情報を整理しながら、追加メッセージを打ち込む。けど返事はすぐには来なかった。


 背後の栞を振り返る。彼女はリビングの隅で膝を抱え込んでいた。目が合いそうになって慌てて視線を逸らす。その横顔が妙に色っぽくて…って、おい、また変なこと考えてるぞ!そう、あれだ!君子危うきに近寄らず!だ。


 スマホを伏せて、再びPCに向き直るけど、やはり集中できない。時計の針の音だけが響く静かな部屋。


 「……私、変ですか?」


 突然の問いかけにビクッとなる。


 「ん?きゅ、急にどうした?」


 振り返ると、栞は両膝を抱えるようにして俯いていた。シャツから覗く首筋が白くて…いや、そこじゃないんだって!


 「……やっぱり、子どもっぽいって思いますよね?」


 どう答えればいいのか。見た目は既に大……じゃない、十六歳は確かに子どもだけど、彼女が経験してきた人生のことを考えると複雑だ。


 「まあ、十六歳だしな……って、言うと怒られそうだな。ってか、その年で"しっかりしてる"って言われるの、あんま褒め言葉じゃねぇだろ」


 自分でも何言ってるのか分からなくなってくる。


 「……こう見えて、心の中だけ、大人になっちゃってる気がするんです」


 栞の言葉に胸が痛む。彼女がこんな状況に追い込まれたこと自体が間違ってる。


 沈黙が流れる。窓の外の車の音と時計の秒針だけが聞こえる。そして、


 「……もし、私がいなくなったらどうしますか?」


 唐突な質問に息が止まる。


 「……えっ、何その質問。怖いって。いや、やめろよ、そういう言い方」


 冗談っぽく返したつもりが、声が引きつってる。


 「なんとなく、そう思っただけです……ごめんなさい、変なこと言って」


 栞はバッグから服を取り出し、床に畳みはじめた。まるで自分の"場所"を作ろうとしてるみたいに見える。


 言葉が出てこない。背中越しに聞こえた彼女の声が、やけに心に引っかかる。あいつの小さな背中を見ていると、何かを言わなきゃいけない気がするのに、何も出てこない。


 背中を見ていると、何かを言わなきゃいけない気がするのに、何も出てこない。


 そうこうしているうちに、部屋の空気がどんどん重くなっていく。PCを眺めながらも作業が手につかない。スマホもDMの返信はまだ来ていない。ただ時間だけが過ぎていく。


 落ち着かない……。


「そ、そろそろシャワー浴びる?」


 苦し紛れに声をかけた。栞は少し顔を上げ、「え…」と小さく声を上げる。


 「あ、いや、時間も遅いし。お風呂あったまってるから」


 「私、ですか?」


 「ああ。客だし、先にどうぞ」


 「で、でも……大和さんのお家だから、先に……」


 「いやいや、女の子優先だって。遠慮すんな」


 実のところ、俺が先に入ってから彼女が入るという状況は、なんか変な気分になる。たぶんおっさんの悪い妄想力のせいだが、順番は大事だ、うん……合ってるよな?


 「……わかりました」


 栞はゆっくり立ち上がった。俺が部屋着とバスタオルを渡すと、彼女はそれを胸に抱え込むように持ち、浴室へと歩いていった。


 ドアが閉まる音がして、少しして水の音が聞こえ始めた。PCに向かって作業を再開しようとしたけど、どうにも集中できない。浴室からの水音と、時折聞こえる歌声に耳を奪われる。


 「フ〜」


 はっきりとした歌声じゃないけど、なんとなくアイドルっぽいメロディが聞こえてくる。そうか、彼女はバーチャルアイドルとして歌ってたんだよな。透き通る声が水音に混じって聞こえてくる。妙にドキドキする。


 ふと気づくと、シャワーの音が止まっていた。急に心臓の鼓動が早くなる。


 「……ったく、何考えてんだよ」


 自分を叱りながら、無理やりPCに視線を落とす。けど、背後でドアの開く音がして、思わず振り返ってしまった。


 そこには──


 「あの、タオル…大きくて助かります」


 バスタオル一枚を胸元で押さえた栞が立っていた。俺のバスタオルは彼女には大きすぎて、白い肩が露わになっている。濡れた黒髪から水滴が落ち、白い首筋を伝って鎖骨へと消えていく。湯気で赤く染まった素肌が、妙に生々しい。


 「あっ……」


 思わず声が漏れて、慌てて目を逸らした。おい、見るなよ大和!十六歳だぞ!と自分に言い聞かせる。


 けど、目の端では白い肌と、すらりとした足首が見えて……って、おい、まだ見てるじゃねぇか!


 「大丈夫ですか?」


 栞の声にハッとして顔を上げると、彼女はまだその場に立ったまま俺を見つめていた。タオルを握る指先が震えている。


 「だ、大丈夫、ってか、そろそろ着替えた方がいいんじゃないか?風邪ひくぞ」


 慌てて言うと、栞は首を傾げて、ちょっと意外そうな顔をした。


 「大和さんになら……別に見られても……」


 この瞬間、心臓が止まるかと思った。小糸の言葉が脳裏をよぎる。「無自覚で踏み込んでくる女の子」。マジかよ、こんな直球が来るとは。


 「お、おい、そういうの、アラサーのおっさんには心臓に悪いから。さ、さっさと着替えてこいって」


 思わず声が裏返る。栞は小さく息を呑み、一瞬だけ目を伏せた。そして俺の隣を通り過ぎて、部屋の隅へと移動していった。そのまま背を向けて着替え始めるのかと思ったら、ちらりと振り返り、


 「……はい」


 か細い声で言って、背を向けた。その仕草に思わず喉が鳴る。


 「そそそ、そっちは、みねぇから……」


 急いでPCの画面に向き直る。けど、背後で布の擦れる音と、かすかな吐息が聞こえる。栞が着替えている。その気配だけで背筋に電流が走る。


 ――ちくしょう。


 思わず頭をかきむしった。なんでこんな状況に…。いや、自分で招いたんだけど。とにかくもう少しの辛抱だ。明日になれば彼女は隣の部屋に移れる。なんとか持ちこたえるんだ大和!


 「着替え終わりました…」


 振り返ると、俺のTシャツを着た栞がベッドの端に座っていた。まるでカレシのシャツを借りた彼女みたいな…ってまた……んなわけないだろ!


 「お、俺もシャワー浴びてくるわ」


 そう言って俺は逃げるように浴室に向かった。冷たい水で顔を流し、とにかく落ち着かないといけない。小糸の警告を思い出せ。「未成年略取+α」。「人生ミュート」。


 俺にはそんな余裕はない。栞を守るって決めたんだ。変な気持ちで近づくようなことは絶対にしちゃいけないんだ。それに、この子はたった十六歳。俺と十三も違う。そもそも、大人だったとしても、守ってる立場でそういう関係になるなんて最低だろ。


 「はぁ……」


 自己嫌悪に苛まれながらシャワーを浴び、やっと落ち着いてきた頃、浴室を出る。


 部屋に戻ると、栞はすでにベッドの端でまるで猫のように小さく丸まっていた。俺は床にクッションを敷き、布団を用意する。こんな状況だからこそ、絶対に距離を保たないと。


 「俺は床で寝るから、ベッド使ってくれ」


 言うと栞はびくっとして顔を上げた。ベッドの中から半分顔だけ出して、まるで子猫のような目で俺を見上げる。


 「でも……狭いのに大丈夫ですか……?」


 「ああ、これでいいんだ。気にすんな」


 毛布を一枚敷いて、もう一枚被る。これで十分だ。栞にはベッドを使わせて、俺は床で──


 「きっと、寒いですよね……」


 栞の声が聞こえて顔を上げると、彼女はベッドの端を少しだけ広げるような仕草をしていた。


 「ちゃんと、離れて寝ますから…一緒なら暖かいかなって……」


 その瞬間、背筋に悪寒が走った。マジでヤバいって。これ完全に犯罪コースじゃないか。


 「い、いや、大丈夫大丈夫!俺は床でも全然平気だから!」


 必死に笑顔で返すけど、彼女の表情が少し曇ったような気がした。


 「そっか……」


 栞はベッドの中で身体を縮ませ、視線を落とす。


 「やっぱり、私、子どもなんですね……」


 その一言に、言葉が詰まる。なんて答えればいいんだよ。だって十六歳だし、そりゃ子どもだけど、でも体はもう……いや、そういう問題じゃないだろ!


 「そうじゃなくて……」


 言いかけて言葉に詰まる。説明しようがない。そもそも、俺が悪いんだ。こんな状況作って。


 「すみません……変なこと言って」


 栞はそう言って、布団に潜り込んだ。どうしていいか分からず、俺も床に横になる。


 照明を消し、部屋は暗闇に包まれた。おやすみも言えず、沈黙の中で時間だけが過ぎていく。


 やがて栞の寝息が聞こえ始める。なんとなく安心して、俺も目を閉じかけた。けれど、そこで彼女の囁くような声が聞こえた。


 「……大和さん、寝てますか?」


 小さな声だったけど、暗い部屋では驚くほどはっきり聞こえる。黙っていれば寝たふりできるけど、なんとなく返事をしてしまう。


 「ん……まだ起きてる」


 「もし、私が……大和さんのこと、好きだったら……どう……なりますかね?」


 心臓が一瞬止まった。


 「……え?」


 思わず言い返したけど、栞はしばらく黙ったままだった。けど、暗闇の中からまた囁き声。


 「このまま……なにか起きたら、どうしますか……?」


 その言葉を理解するのに数秒かかった。彼女の声に甘さが混ざっている気がする。なにか起きるって…まさか?


 「……栞?」


 返事はなく、代わりに布団の擦れる音。栞がベッドから降りる気配。そして、俺の横に膝をついて座る気配がした。甘い香りがすぐそばに。


 「お願い、今だけでいいから……誰にも取られたくないの……」


 彼女の指先が、俺の指にそっと触れた。暗闇だから表情は見えないけど、彼女のか細い声と温もりだけが実感として伝わってくる。


 「栞、おい、それは……」


 小糸の警告がうるさいくらいに響く。危ない、これはマジでマズい。彼女は俺に依存してるだけで、それ以上の感情なんてないはずだし、あってはいけない。


 寝返りを打って、さりげなく指を離す。


 「……明日早いから、もう寝よう」


 言いながら布団を被る。栞の気配がまだ近くにある。数秒間の沈黙の後、彼女は小さなため息をついた気がした。そして、ベッドに戻る音。


 何か言わなきゃいけないのに、何も言えなかった。栞の背を向けた気配だけが、暗闇の中で感じられた。


 しばらくして、彼女の寝息が聞こえ始めた。本当に眠ったのか、それとも演技なのか分からない。でも、俺はまだ目を開けたまま天井を見つめていた。


 時計の針だけが静かに回り続ける。午前1時を回ったあたりで、ふとスマホの画面がついた。DMの通知だ。


 眠っている栞をそっと確認して、音を立てないようにスマホを手に取る。『青い瞳のしおりん親衛隊』からの返信だった。


 『録音データ、残してます。例のイベント回の控えも。ただし、一つだけ条件があります』


 そこまで読んで、一瞬指が止まる。証拠が手に入るかもしれない。だが、条件とは?


 直後、新たなDM通知が届く。


 『しおりんと、一日だけデートさせてください』


 嘘だろ?頭が真っ白になる。全く予想してなかった条件にスマホを握りしめる手に力が入る。


 ベッドを見ると、栞はまだ静かに眠っていた。その横顔がわずかに月明かりで照らされ、まるで人形のように美しくて儚い。


 「……ふざけんなよ」


 低く吐き捨てるように呟き、スマホを伏せる。頭を抱えてしばらく動けなかった。立ち上がって部屋の端から端まで行ったり来たりしながら考える。


 しおりんとデートさせろ?正気か?栞は事務所から逃げてるんだぞ。それに彼女はまだ十六だ。俺があいつとデートさせるとか、正気の沙汰じゃない。


 どう返信するか迷いながら、結局何も返さずDMを閉じた。PCも閉じ忘れたまま、ようやく床に横になる。


 でも、眠りにつけない。栞の言葉が頭の中でリバーブのように繰り返される。「好きだったら……」「誰にも取られたくない」


 彼女はこの状況で混乱しているだけだ。誰も頼れない中、俺しかすがれるものがない、それだけ。だけど……なんだかなぁ。守るために冷たくするのも違う気がする。一体どうすれば……。


 頭の中で答えの出ない問いを繰り返しているうちに、身体の力が抜けていく。


 ふっと肩の力が抜けた瞬間、意識もそのまま遠ざかり、俺はいつの間にか、眠りに落ちていた。


そんなことを考えているうちに、いつしか思考がぼやけ始めた。ふっと肩の力が抜けた瞬間、意識もそのまま遠ざかり、俺はいつの間にか、眠りに落ちていた。


 どれくらい経ったのだろう。夢と現実の境目がぼんやりとしている。微かに聞こえる水の音。そして、甘い香り。ああ、そうだ、栞がシャワーから出てきて……いや、それはもう何時間も前のことだ。今は夜中のはずなのに……。


 ふと、何かが額に触れた気がして、うっすらと目を開ける。かすかな月明かりの中、栞の顔が俺のすぐ上にあった。彼女は床に膝をついて、俺を見下ろしていたのだ。


 「大和さん……消えないでください……」


 囁くような声だけど、寝ぼけた俺の耳にはハッキリと聞こえた。栞の指先が俺の髪をそっと撫でる。夢なのか現実なのか。意識がもうろうとして、またすぐに暗闇に引き込まれていく。


 次に意識が戻ったとき、部屋には朝の光が差し込んでいた。ぼんやりと目を開ける。天井から降り注ぐ光のせいで、最初は自分がどこにいるのかさえわからなかった。背中が痛い。そうだ、床で寝たんだった。


 視界がはっきりしてくると、台所から何かカチャカチャと音がする。栞が何か作っているのか。鼻をくすぐるコーヒーの香り。目を擦りながら上半身を起こす。


 「んん……」


 小さくうめいて、痛む背中をさすった。アラサーにもなると、床で寝ると朝は本当にキツい。遠くなった学生時代を思い出す。


 栞が台所で何かしている。こんな朝を迎えるなんて、ついこの前までは想像もできなかった。誰かが朝から俺のために何かしてくれる。そういえば柚子との同棲の話もあったっけ……って、もうやめよう。過去は過去だ。


 深いあくびが出る。そういえば夜中に変な夢を見た気がする。部屋の隅にバケモノみたいな影があって……いや、そんなんじゃなかったな。


 う~ん、思い出せん。


 記憶を引っ張り出そうとした瞬間、昨夜のことを思い出した。そうだ、しおりん親衛隊からDMが来てたんだ。録音データはあるけど、そのかわり栞とデートさせろと……。


 寝ぼけた頭でもその理不尽さは変わらない。俺は栞を守ると決めて動いているのに、こんな条件、飲めるわけがない。


 目が少しずつ部屋の中を捉え始めると、テーブルの上に昨夜のノートPCが開きっぱなしになっているのが見えた。画面は薄暗く光っている。ヤバい、DM画面も閉じてなかったかも。慌てて上半身を起こした瞬間、背後から栞の声が聞こえた。


 「あ、起きましたか?」


 振り返ると、俺のエプロンをつけた栞が立っていた。露わになった白い脚と、俺のTシャツの裾がなんともいえない色気を醸し出している。髪を一つに結んだせいで、すっきりした首筋がよく見える。普段とは違う大人っぽい雰囲気が漂っていた。


 「朝ごはん作ってみました。コーヒーもいれましたけど……飲みますか?」


 その言葉を聞いて、ようやく鼻の奥に広がるコーヒーの香りに気づく。台所のテーブルには食パンが二枚、そして目玉焼きが乗った皿が二つ。


 「お、おう……ありがとう」


 素直に感謝の言葉が出た。いつもならカップラーメンか冷蔵庫の残り物で適当に済ませてるけど、二日連続でちゃんとした朝食はありがたい。


 「お替りもありますよ」


 栞はそう言って、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。


 「あ、ああ」


 頭をボリボリと掻きながら立ち上がる。昨夜のやり取りがあったせいか、なんだか気まずさが残っていた。栞も同じように感じているのか、チラチラと俺の顔を見ながら、カップを用意している。


「あの……PCの」


 唐突に彼女が言った言葉に、俺の背筋が凍りついた。


「えっ?」


 俺はテーブルに置いたノートPCを見た。まさか、昨夜のDMの画面、見られてる?


「あ、ごめん!画面消し忘れてた!」


 慌ててノートPCに手を伸ばし、蓋を閉める。栞がメッセージを見たかどうかは定かではない。ちらりと彼女の表情を窺うが、彼女は黙々と料理の準備を続けている。


「さあ、食べましょう」


 栞はテーブルに皿を置き、こちらを見た。普段と同じような表情なのに、なぜか微妙に違和感がある。でも本当に見たのか、気のせいなのか、わからない。


 栞は不自然なほど明るく言って、俺が閉じたPCの前を通り過ぎた。そして台所に戻り、珈琲をカップに注ぎ始めた。


「ありがとう」


 受け取ったコーヒーの香りが鼻をくすぐる。けれど、何か言わなきゃいけない気がして落ち着かない。


 視線を上げると、栞は少し硬い表情で立っていた。その澄んだ青い瞳の奥に、何か不穏なものが渦巻いているような気がした。


 いや、気のせいだろう。俺が神経質になってるだけで……。


「……いただきます」


 俺が言うと、栞も小さく頷いた。


 朝食を食べる音だけが部屋に響く中、なぜか空気が重くなったように感じた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?