小糸がTK.SOUNDの連絡先を探し始めた瞬間、俺の胸に小さな希望が灯った。薄暗い部屋に夕日が差し込み、彼女の横顔を赤く染めている。端末の青白い光が小糸の顔を照らし、指先が素早く画面をスライドしていく。
栞はソファの端に腰かけたまま、ほとんど息をするのも忘れたように小糸の様子を見つめていた。あんなに暗かった彼女の青い瞳に、今はかすかな光が宿っている。
「待って、なかなか見つからないな……こんなとこにあるはずなんだけど」
小糸がスマホを眉間に近づけて、眼を細めながら探している。どこか他人事のように振る舞っているが、その表情には普段見せない真剣さがある。
「おい、本当に知り合いなんだよな?」
少し焦って聞くと、小糸は「うるさいな~おっさん黙ってて」と短く返した。
「あった!やっぱりここだ」
小糸の表情が明るくなり、画面をタップする。俺も栞も思わず身を乗り出す。
「これでようやく…」
俺の言葉に、栞が小さく頷いた。小糸が画面をタップすると、呼び出し音が部屋に響いた。俺も栞も自然と身を乗り出す。これが、栞を救い出す唯一の手がかりかもしれない。
一回、二回…そして相手が出た。
「もしもし、東雲です。お世話になっております」
小糸の声は俺が知る限り最も礼儀正しいものだった。仕事モードに入ると人が変わるんだな、こいつ…。
スピーカーからは若い男の声が聞こえてきた。
『あぁ、東雲さん、お久しぶりです。何かありましたか?』
「はい、TK.SOUNDさんについて少しお伺いしたくて……」
『TK.SOUNDですか?ああ……実は先月解散しちゃったんですよ』
その言葉に、俺たち三人の表情が同時に凍りついた。じわりと沈んでいく栞の肩が見える。
「え?解散……」
小糸の声がトーンダウンした。
『そうなんすよ……今はみんなバラバラに活動してて……』
静まり返る部屋に、電話口からの声だけが響く。俺は思わず拳を握りしめた。栞を見ると、彼女の表情が急速に曇りはじめ、震える唇を噛みしめている。
「そうですか…もしよければ、TK.SOUNDのメンバーの方々の連絡先とか……」
『あぁ……すみません。プライバシーの問題もあるので……』
「わかりました。お時間取らせてすみません」
小糸が電話を切ると、重苦しい沈黙が三人を包み込んだ。せっかくつかんだと思った希望が、またひとつ消えていった。
「なぁ、八方塞がりか?」
自然と口から漏れた俺の言葉に、栞が小さく呟いた。
「あの……一人いました……」
「え?」
栞の方を見ると、彼女はうつむいたまま小さな声で続けた。
「音響さんで……私のファンだった人……『しおりん親衛隊』って名乗ってた人がいて……」
俺と小糸は思わず顔を見合わせた。
「え、そんな重要情報今更出すなよ!?」
「ごめんなさい……思い出せなくて……」
栞は赤くなって俯いた。俺はため息をついた。
「じゃあ、その人の名前とか連絡先とか……」
「……わかりません」
落胆する俺に、小糸が指をパチンと鳴らした。
「待って!配信のコメント欄とかSNSで、そんなハンドルネームの人いないかな?」
栞は目を丸くして、小さく頷いた。
「じゃあ探せばいいじゃん!」
俺は勢いよく立ち上がり、パソコンの電源を入れた。キーボードのカチャカチャという音だけが部屋に響く。SNSの検索欄に「しおりん親衛隊」と入力して検索ボタンを押す。
「大和さん……」
背後から栞の声が聞こえた。振り返ると、彼女が心配そうな顔で俺を見つめていた。
「大丈夫、絶対見つけてやるよ」
そう言って再びパソコンに向き直った瞬間、栞の携帯が突然鳴り響いた。
まるでホラー映画の効果音のような不吉な着信音。栞のスマホの画面には「サテライトプロダクション」の文字。俺が見た瞬間、栞の顔が見る見る青ざめていく。
「え……」
彼女の震える声が部屋に響いた。
「サテライトプロダクション……って、もしかしてお前の事務所か?」
俺が問いかけると、栞はわずかにうなずいた。小糸がすかさず立ち上がり、録音アプリを起動させる。俺も栞の側に駆け寄り、「スピーカーフォンにして、俺たちにも聞こえるようにして」と指示した。
「何か証拠になるかもしれない」
栞は震える手で携帯を持ち、おずおずと画面をタップする。俺と小糸は両側から彼女を支えるように寄り添った。
「いくぞ……」
栞は深く息を吸い込み、通話ボタンを押した。
「も、もしもし……」
『ああ、栞ちゃん?久しぶりだね』
スピーカーから流れた声は、意外なほど穏やかで知的な男性の声だった。40代後半から50代くらいだろうか。ビジネススーツに身を包んだエリートという印象だ。
「社長……」
栞の声は震えていた。俺は思わず拳を握りしめる。これが栞を追い詰めた男か。
『元気だった?みんな心配してたよ。急にいなくなるからね』
優しい口調だが、その裏に潜む冷たさが感じられる。栞の肩がひくついた。
「あの……どうして…」
『ん?電話したかって?まあ、契約上の問題が残っているからね。一度話し合う必要があるんじゃないかな』
社長は言葉を選びながら話していた。小糸が「契約の詳細聞け」とメモを書いて栞に見せる。
「契約……って?」
『そう、君に提供した研修費やシステム開発費。建て替えたお金を返済してもらわないと困るんだよ』
社長は遠回しな言い方をしているが、その意図は明らか。小糸が「額は?」とメモで促す。
「いくら……になるんですか?」
栞の声が震える。社長は静かに言った。
『こちらは君が十八歳以上だという前提で契約しているし、必要経費はすべてこちらが立て替えたものだ。これを"投資"ではなく"業務に伴う正当な立替金"として処理している。返済義務があるのは当然のことだろう』
栞の体が小刻みに震え始めた。社長は続ける。
『契約書には明記してある通り、立替金の総額は三百万円だ。それに……すでに機材やスタジオ、プロモーションなどで多くの利益を受け取っている。返済を拒むなら、その分は"不当利得"として請求させてもらう』
法律用語を並べ立てて圧力をかけてくる。社長の声はあくまで冷静だが、その言葉の裏には確かな脅しがある。小糸が「払えない場合は?」と書いたメモを見せる。
「でも……払えなかったら……どうなるんですか?」
一瞬の沈黙があった。社長の呼吸が少し変わったのが聞こえる気がした。
『まあ、前にもその話はしたよね?ああ、でもあれだよ?君が本当に未成年だったとするなら……こちらも"淫行の疑い"で対応せざるを得ないしね。まるで返せないから身体で払うって言われたみたいで、こっちとしても困るんだよ』
俺の脳裏に青い炎が灯った。こいつ、一体何を言ってやがる?
『いや、もちろんそんなことはした覚えはないがね。あくまで"そう見えてしまう"ような行動は避けてほしい、という意味で』
慌てて言い直す社長の声。だが遅い。俺と小糸の視線が交差する。
身体で払うって言われたみたい……だと?おい、それ完全に、お前がそっちの話持ち出してた証拠じゃねぇか……!
喉元までせり上がってきた言葉を必死で飲み込む。小糸が俺の袖を引っ張り、小声で耳打ちした。
「こいつかなり警戒してる……録音もバレてるかも。でも今のはアウト。あれ、栞ちゃんの方から誘ったって話にすり替えようとしてる。そういう話題があったこと、自分の口で言ったも同然だよ……」
俺の頭の中で怒りが渦巻いていた。こいつ、未成年の女の子に「身体で払え」なんて言っておきながら、今度は「彼女から言ってきた」みたいに言い逃れしようとしているのか。ふざけやがって!
『結局、自己責任だろう?自分で年齢を偽って契約したんだ。こちらとしては正当な請求をしているだけだ』
社長の声には皮肉が混じっていた。
『誰も頼れないと思って、君は自分で選んだ。甘えるな』
その言葉が俺の頭の中で爆発した。気づけば俺は栞の手から携帯電話を奪い取っていた。
「おい、クソ野郎!」
怒りに任せて叫んでいた。栞は目を丸くして俺を見上げ、小糸は「まずい」という表情で口を押さえる。
『誰かな……?』
社長の声が、初めて不快感を露わにした。
「耳かっぽじってよく聞いて、しっかり覚えとけ!!」
息を整え、はっきりと告げた。
「俺は西園寺大和!お前の悪事を暴露する男の名前だ!!」
その瞬間、栞の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女の身体が震え始め、堪えていた感情が一気に解放されたようだった。俺は無意識に片腕で彼女をそっと抱き寄せていた。
「俺が舞台を用意してやる!てめえの悪事を晒し上げる舞台をな!!今週の土曜日夜、十九時!後でリンク送ってやっから、首洗って待っとけ!!」
電話の向こうで、一瞬の静寂。次に聞こえてきたのは、冷静な笑い声だった。
『やれるものならやってみなさい。ただし返済期限は土曜日まで。それまでに三百万円が返されないなら、こちらにも考えがある』
通話が切れた。室内に沈黙が漂う。
「……バカじゃないの!?」
小糸が両手を頭に当てて叫んだ。
「うるせぇな……」
耳を塞ぎながら呟く。だが本当のところは、自分でも何をやったのか理解できていなかった。ただ、あの状況でこれ以上栞を泣かせたくなかった。それだけだ。
「でも……これ以上こいつに泣いてほしくなかったんだよ」
思わず本音が漏れる。栞は涙を拭いながら顔を上げ、わずかにほほ笑んだ。
「ほんと、どうしようもない男ね」
小糸はため息をつきながらも、諦めたような表情で肩をすくめる。
沈黙が部屋に戻り、夕日の赤みが次第に色を失っていく。俺は立ち上がり、窓の外を見つめた。煮え滾るような怒りはまだ胸の中で燻っている。
「三百万なんて払えるわけねぇ」
呟きながら拳を握りしめる。
「でも、あいつにこれ以上"自己責任"なんて言わせねぇ」
振り返ると、栞と小糸がこちらを見つめている。今までにない鋭さが自分の目に宿っているのを感じた。
「やるしかねぇんだよ……俺が証明してやる。あいつがどんなクズかってことを、な」
俺の決意は固かった。行き場をなくした俺だからこそできることがある。それが栞を守ることなら、喜んで引き受けてやる。
窓から差し込む夕日が部屋を赤く染める中、俺の影だけがまっすぐに伸びていた。