カランと控えめな音を立てて、古びた喫茶店のドアを開いた。店内に流れる時間は、外の喧騒から切り離されたようにゆっくりと流れている。
昭和の香りを残す黒檀のカウンターに、クラシックな手動式のコーヒーミル。ガラスの瓶に並んだ色とりどりの豆。薄暗い店内に漂うのは、コーヒーの芳醇な香りとタバコの煙が混ざり合った、独特の大人の空気だ。都内でも珍しい喫煙可の喫茶店で、俺と小糸がここを気に入っている理由の一つだ。
白髪のマスターは六十半ばの原田さん。白いシャツに黒いチョッキ、蝶ネクタイという変わらない出で立ちで、まるで時代から取り残されたような佇まいで豆を挽いていた。
店に人が入ってきた気配に、一瞬だけ腕の動きを止め、俺の方をチラリと見やったが、無関心を装うかのように、すぐに手元に視線を戻す。口数は極端に少ないが、客の好みを完璧に覚えている職人気質の店主だ。俺たち常連にとって、その不愛想さはこの店の隠し味みたいなもの。
カウンター席の端に座っている女性の後ろ姿が目に入る。小糸だ。黒髪をポニーテールに結い上げた後姿が印象的で、真っ直ぐな背筋からは緊張感が伝わってくる。肩幅の狭いスーツジャケットから覗く白いシャツの襟元が、彼女の職業を物語っている。普段はスタジオや現場を転々とするエンジニアで、こんなきちんとした服装じゃないんだが、今日は俺のために少し気合を入れたのかもしれない。細い指の間には煙草が挟まれ、灰皿の上で小さな煙の渦を作っている。
俺が近づくと彼女は顔を少し横に向けた。他の男客が小糸の方をチラチラ見ているのに気づく。確かに横顔の通った鼻筋と、煙草を持つ指先の仕草には妙な色気がある。でも小糸は周囲の視線など気にする素振りもなく、また前を向いてコーヒーを飲みながらスマホを見ている。彼女は自分の美しさに無頓着で、いつも「見た目より中身」と言って、化粧も服装も最低限しか気にしない。
俺が隣の席に腰掛けると、小糸は振り向きもせずに「遅い」と短く言った。声にはイライラが混じっているが、それでも俺を待っていてくれたことがわかる。
俺は黙って彼女の隣の席に腰掛け、マスターに向かって「コーヒー、ブラック」と短く注文した。マスターは頷くだけで、黙々とコーヒーの準備を始める。馴染みの店特有の気楽さが、少しだけ俺の肩の力を抜いてくれた。
喉が渇いている。というか、タバコが吸いたい。俺はポケットからマールボロとライターを取り出した。パチンとチャッカーを回すが、火花は散るものの火は着かない。もう一度試すが、どうやらオイル切れらしい。
「ちっ」
思わず舌打ちが出た。
すると、視界の端に小さな炎が灯った。小糸が自分のジッポを差し出している。その手つきは無駄がなく、まるで日常の一部のような自然さがあった。
俺は軽く会釈して火を借り、一服した。煙を肺に吸い込むと、少しだけ緊張が和らいだ気がする。カウンターに肘をついて、ゆっくりと煙を吐き出す。薄まっていく煙を眺めながら、どう切り出そうか考えていた。
「で、柚子とは……?」
小糸が最初に切り出したのは、やはりそのことだった。真っ直ぐに俺の目を見つめる小糸の視線に、逃げ場はない。
「別れた」
単刀直入に答える。隠したところで意味はないし、それに小糸はすでに何かを察しているようだった。
「はあ……じゃなくて、何で別れたの?」
小糸はコーヒーを一口啜りながら、眉をひそめる。熱いコーヒーの湯気が彼女の顔を包み込む。
「浮気された」
小糸の目が丸くなり、「ブッツ!――はあっ!?」と口に含んでいたコーヒーを吹き出した。
「うわっ、汚ねぇな!」
俺は驚いて身を引きながら、タバコを持つ手を上げて飛沫を避ける。シャツの袖に茶色いシミができた。最悪だ。
「あんたが変なこと言うからでしょ!」
小糸は慌ててハンカチでテーブルを拭き始めた。鋭い視線を俺に向けながら、「本当なの?」と問い詰めてくる。
「ああ」
そう言って、あの日のことを説明した。喫茶店で上司と一緒に別れを切り出されたこと。実はその上司と柚子が関係を持っていたこと。そして会社の帰り、二人がホテルに入るところを目撃したことまで。二本目のタバコに火をつけながら、全てを話した。
小糸の表情は次第に硬くなっていった。
「柚子が……そんなことするなんて信じられない」
苦々しい表情で小糸は言う。柚子とは大学からの親友だと聞いている。当然、信じられないだろう。
「ていうか、柚子そんな事一言も言ってなかったけど?」
「なんて聞いてたんだ?」
「あんたに甲斐性がないって」
その言葉に、タバコの灰が長く伸びていることに気づいて灰皿に落とす。パラパラと灰が散った。
「あ~……まあ間違ってはないな」
自嘲気味に笑いながら煙を吐き出す。確かに、今の俺には何の甲斐性もない。理想のプロポーズや結婚どころか、安定した仕事すら手放してしまったのだから。
マスターが静かにコーヒーをカウンターに置いていく。漆黒の液体から立ち上る湯気が、一瞬だけ俺の視界を曇らせた。一口飲むと、苦味が舌の上で広がる。この苦さが妙に心地よく感じられる。今の俺には、こういう素直な苦さが似合っているのかもしれない。
「でも、それで会社まで辞めたの?」
小糸の問いかけに、俺は煙を天井に向かって吐き出した。窓から射し込む陽の光に、タバコの煙が白く浮かび上がる。
「ああ。上司と柚子が浮気してたんだぞ?あいつの顔見るたびにムカつくし」
コーヒーをまた一口。熱い液体が喉を通り、胸の奥まで温かくなる。
「それにそのことを会社の連中も薄々気づいてたみたいでな」
言いながら、自分がどれだけ馬鹿を見ていたか思い知る。周りは全部知ってて、俺だけが気づかなかった。笑い話にもならねぇ。
小糸はタバコの煙を長く吐き出し、少し考え込むように黙り込んだ。俺のことを心配してくれているんだなと思うと、少し胸が熱くなった。
「人生のミックスバランスが崩れても、イコライザーで調整すれば大丈夫よ。新しいトラックを録音するチャンスだと思って」
小糸の口から飛び出す専門用語の数々に、思わず眉をひそめる。たまに音楽の専門家らしい例えで話す小糸の癖だ。
「おい、日本語で頼む」
そう言いながらも、この小糸特有の表現に少し安心する。世界が変わってしまったような気がしていたけど、こうして小糸はいつも通りだ。
「もう、いつも言ってるでしょ。要するに人生は音楽制作と同じ。一つの音源がダメになっても、別の音を重ねれば新しい曲になるってこと」
なるほど、確かにそうかもしれない。新しい音を重ねる、か。今の状況だからこそ、背中を押されるような気がした。
俺は灰皿に二本目のタバコを消し、コーヒーを飲み干した。そろそろ切り出さないと。小糸はマンションの管理人だし、家主は彼女の母親だ。今日はそのためにここに来たんだ。栞のために部屋を借りるという目的を果たさないと。
だが、何と言って切り出せばいいのか。素直に「未成年の女の子を泊めるために部屋が必要なんだ」とは言えない。さりとて、嘘をつくのも気が引ける。小糸はそういうのを見抜く目を持っている。
煙が消えた灰皿を見つめながら、少し勇気を出して本題に入った。
「実は……隣の部屋を、借りられないかな?」
小糸の目が少し見開かれる。
「隣の部屋?何に使うの?」
この質問には正直に答えるべきか、どこまで話すべきか迷った。
「あ~、実は最近、配信とかやってんだけどさ……」
言葉が続かなくなる。栞のことは言うべきなのか?いや、それはまずいだろう。小糸は理解してくれるかもしれないが、未成年の少女を泊めるなんて話になったら、どう反応するかわからない。いや、とりあえず一発殴られるのは確定かもしれんな……。
言葉に詰まっている俺の横顔を、小糸はじっと見つめていた。
「配信?あんた何か始めたの?」
小糸の鋭い視線に言葉が出てこない。どう答えたものか。
「ああ、まあ…趣味みたいなもんだよ」
曖昧に言葉を濁す。できれば話したくなかったのに。
小糸は片眉を上げて、少し驚いたような表情を浮かべた。
「へぇ、あんたにしては珍しく積極的じゃん」
「『あんたにしては』って余計だろ」
思わず突っ込んでしまう。こいつといると、なぜか年相応の会話ができなくなる。まるで昔からの友達みたいだ。
「でも意外。どんな配信?お料理とか?」
からかうような目で俺を見る小糸に、思わずため息が出る。
「ただの雑談だよ。声だけは良いって言われるしな……」
こんな話題にならないように誤魔化すつもりだったのに、思ったより素直に答えちまう。小糸の視線を浴びると、なんか言いづらくなるんだよな。
「確かにあんたの声は渋くていいよね」
小糸が何気なく褒めてきた。正直、意外だった。こいつはめったに人を褒めないからな。
「……」
ちょっと照れてしまい、言葉が出なかった。
「あたしも仕事で声のことよく考えるけどね」
小糸が言った。そういえば、小糸は音楽関係の仕事してたな。
「そういやお前、今何やってんだ?まだあのスタジオ?」
「うん、フリーランスにもなったけど、基本はあそこ」
小糸は黒髪をかきあげながら言った。ボサボサにまとめたポニーテールから飛び出した一房の髪が、彼女の首筋をかすめる。
「相変わらず音楽ばっかやってんのか?」
「映像の音声も担当してるよ。先週なんか、ドキュメンタリーの背景ノイズ除去で徹夜したよ」
小糸は煙草の煙を天井に向かって吐き出した。煙の渦が彼女の言葉のように空中に舞う。
「ノイズ除去…?」
ハッとした。思わず小糸の顔を見てしまう。栞の動画の背景音声、もしかしたら何か聞き取れるかもしれない。
「うん、録音した音声から不要な音を取り除くの。すっごく細かい作業」
小糸は俺の表情をじっと観察している。何かを感じ取ったのか、タバコを指でくるくる回しながら言った。
「何かあるんでしょ?その顔」
図星だった。俺は観念して口を開く。
「実はさ、ちょっと見て欲しい動画があるんだ」
「動画?」
「ある配信なんだけど、バックで変な声が入ってて……ノイズかと思ったけど、人の声かもしれない」
「ふーん……見せて」
小糸は即座に反応した。さすが音のプロ、こういうの好きなんだろうな。俺はギャラリーから栞の動画を選び、再生した。
しばらく無言で見つめていた小糸は、やがて画面から目を離し、タバコを咥えながら言った。
「これ……再エンコードされてるね。ノイズ処理も甘いし、元データじゃないのは間違いない」
小糸の言葉に、俺は思わず身を乗り出した。タバコの煙を少し長めに吐きながら、スマホ画面を見つめる。
「何かわかるか?」
「あ~、確かに何か言ってるね。これじゃ聞き取れないけど」
小糸は器用に煙を吐きながら、俺のスマホを細めた目で凝視していた。その視線が、ふと俺の顔に向けられる。
「この配信者、知り合い?」
その質問に、俺は思わずコーヒーに手を伸ばした。熱い液体を一口啜って時間を稼ぐ。
「いや、その……ネットで見つけたんだよ。ちょっと気になってさ」
タバコの煙を吐きながら、視線をそらす。自分で言っててへんな言い訳だって分かる。
小糸の視線が痛い……。
「ふ~ん……で、どうしてその背景音が気になるの?」
さらに追い詰められる質問。俺はタバコの灰をとんとんと落としながら、なるべく視線を合わせないようにした。
「なんとなく……なんかクリアにできないかなって思ってさ」
「なんとなくって……?」
小糸の眉が怪訝そうに寄る。その表情に居心地の悪さを感じて、思わず反撃に出た。
「う、うるせぇな。人が頼んでるんだから、できるかできないかだけ教えてくれよ」
照れ隠しの強がりが、逆に怪しさを増しているのは自分でもわかっている。アラサーの男がこんな言い訳して、カッコつくわけねぇのは百も承知だ。しかし他に気の利いた言葉も思いつかない。
小糸はじっと俺を見つめ、タバコをゆっくりと灰皿に押し付けた。
「あのさ」
静かな声音に、なぜか背筋が凍った。
「何か隠してない?」
「は!?」
動揺を隠せず、余計に声が裏返る。情けない。俺の反応に、小糸はさらに追い打ちをかける。
「急に配信始めて、部屋借りたいって言い出して、変な動画の背景音が気になるって……」
言葉の一つ一つが俺の胸に突き刺さる。
「怪しさ満点じゃん」
図星をさされ、言葉が出てこない。アホみたいに口を開けたまま閉じて、また開く。
「...」
小糸はため息をつき、煙草の箱を取り出した。新しい一本を取り出しながら、肩をすくめる。
「まっ、別に無理に話さなくてもいいけど」
おそらく心にもないことを言いながら、小糸は煙草に火をつける。青白い炎が一瞬だけ彼女の顔を照らした。
た、助かった……のか?
「データ送ってくれたら、こっちで適当に処理しといてあげる」
その言葉に俺の顔が思わず明るくなる。
「マジか!助かる!」
小糸が不敵ににやりと笑った。その表情を見て、これが取引になるのだと理解した。俺は肩を落とし、大きくため息をついた。
「分かったよ、今度一杯奢るよ……」
小糸の瞳が妙に艶やかに光る。
「一杯?」
猫撫で声で囁かれた言葉に、ぞわりと背筋が震えた。
「分かった分かった、好きなだけ飲みやがれ!」
やけくそ気味に言うと、小糸は満足げに頷いた。
「まあ、それはそれとして」
タバコの煙を吐きながら、小糸は話題を戻す。
「部屋のこと、母さんに話しておくから。家賃は前と同じでいいよ」
それだけ言って、また一服吸い込む。煙の向こうから、小糸の鋭い視線が刺さる。
「でも、いつか話してくれるよね?何か隠してるの、丸わかりなんだから」
ぐっ……諦めてなかったか。
俺の心の中を覗き込むような目に、ただ頷くことしかできなかった。
「あ……ああ、いつかな」
曖昧に答えて、コーヒーの最後の一口を飲み干す。小糸がこれ以上追及してくるのを避けるように、時計を見て話題を変えようとした。
「そうだな、部屋の契約は——」
その時、カウンターに置いたスマホから着信音が鳴り響いた。画面をチラリと見ると、見知らぬ番号だ。
画面を見て、鼻で笑う。どうせ営業電話だろ。
俺は無視して、スマホを伏せた。小糸は少し首をかしげたが、特に何も言わなかった。
「それで、契約はいつから——」
また着信音。同じ番号から。
「しつこいな」
イラついた声で呟きながらも、再び無視する。小糸に契約の話を続けようとして口を開いた瞬間、三度目の着信。
「ああもう、しつこい」
我慢の限界が来て、俺は電話に出た。
「もしもし?」
「……大和さん?」
――え?
聞き間違えるはずもない、あの透き通った声。予想外の相手に、俺は思わず目を見開いた。
「今、どこにいるんですか……?」
どうして栞がこの番号を?ってか、どうして電話してきたんだ?
「お、おまっ…」
言いかけて慌てて言葉を飲み込む。小糸の前で誰と話しているのか悟られたくなくて、声のトーンを必死に作り変えた。
「あー、あー、すみません。ご連絡ありがとうございます。只今打ち合わせ中でして…」
電話口から栞の混乱した声が聞こえる。
「え?大和さん?あの、どうして敬語なんですか?」
ヤバい、小糸がこっちを見てる。視線が痛いくらいだ。何か察したか?
「はい、はい、分かりました。後ほどご連絡差し上げます」
営業トークのように返事して、電話を切った。額から冷や汗が流れるのを感じる。手の震えを隠すためにタバコを吸おうとしたが、火が消えていることに気づく。
「何の電話?」
小糸の質問に、なるべく自然に見えるよう肩をすくめる。
「さぁ?なんか変な営業電話だったよ。名前だけ知ってる風に話してきて」
言いながら千円札を出してカウンターに置く。
「そ、そろそろ行くわ。部屋の件、よろしくな!」
そのまま立ち上がって数歩歩いたところで、スマホがまた鳴り出した。
「あっ……」
慌てて出ようとして、小糸に「またさっきの営業……?」と言われ、俺は苦笑いしかできなかった。
「も、もしもし?」と出ると、案の定、栞の声だ。
「あの、さっきはどうして敬語だったんですか?誰かいるんですか?どこですか?女の人と一緒なんですか?」
まくし立てる様に話す栞。今度は声が明らかに不安そうで、どこか沈んでいる。小糸はその声を確実に聞き取ったようで、俺の方をじっと見ていた。
「いや、ちょっと急いでるから、後で話すよ!」
慌てて電話を切って、今度こそ店を出ようとする。だが背後で小糸の声。
「待ちなさいよ」
ほとんど命令口調だった。振り返ると、小糸が真っ直ぐこっちを見ている。
「今の声……女だったよね?」
逃げるように数歩歩き出したところで、突然背後から襟首を掴まれた。小糸の意外な力強さに、思わず息が詰まる。
「あ、お、おい!」
「その嘘、低音が歪んでるよ。イコライザーで調整しても誤魔化せないレベル」
小糸の視線が鋭さを増した瞬間、また着信音が鳴り出した。同じ番号から。絶妙なタイミングに思わず顔が引きつる。
「……あ~、もう! 説明するから襟首を掴むのやめてくれない?」
観念して言うと、小糸はゆっくり襟首から手を離した。だが、店の出口に立ちはだかるように位置取りして、逃げ場を作らない。
「営業電話にしては高域が澄んでて、ソプラノのような透明感。女の子だよね?」
小糸の声には皮肉が滲んでいた。鳴り止まないスマホを手に、その場に立ち尽くす俺。なんとも情けないおっさんが、女性二人に翻弄されている図。
はあ、勘弁してくれ……。