神楽坂駅近くのカフェに着くと、ドアを開けて中に入った。落ち着いた照明の店内を見回す。
「栞……っていったよな」
そう呟きながら、俺は店内を見渡した。カフェの隅、陰になった席にフードを深くかぶった少女を見つける。あらかじめTalkieのチャットで確認した特徴と一致する。
間違いない、彼女だ。
俺が彼女に向かって歩き出すと、少女は小さく身を縮めた。
「栞か?俺だ、電話で話した大和だ」
声をかけると、フードの中から顔を上げた。そして―
「大和……さん?」
初めて彼女の顔を見て、俺は言葉を失った。
透き通るような白い肌に、サファイアブルーの大きな瞳。口元は小さく震えていて、何とも言えない儚さがある。クールなボブカットの黒髪は、光に当たると微かに青みがかって見える。まるで人形のような整った顔立ちだった。クールな印象なのに、どこか守ってあげたくなるような弱さも感じる。
思わず、ドキリとした。
こんな子が十六歳だって?マジで?
でも、すぐに頭を振って自分を戒めた。何考えてんだ俺。この子はまだ十六歳の未成年だ。しかも今は追い詰められてる。俺が余計な感情を持つなんて、最低だ。
「あ、ああ、俺だ。電話で話した西園寺 大和だ」
少し照れ隠しで強めの口調で言うと、栞は小さく頷いた。
「あの……本当に来てくださったんですね」
その言葉には、驚きと安堵が混ざっていた。
「当たり前だろ。約束したんだから」
俺は当然のように言ったが、栞の目は潤んでいた。こんな簡単なことで、この子は心から喜んでるのか。なんて言えばいいか分からず、俺は咳払いをした。
「と、とりあえず、行くか」
栞はゆっくりと立ち上がり、俺の傍に寄り添うように並んだ。見知らぬ男について行くことに怖さはないのか、と思ったが、もう彼女には選択肢がないのだろう。俺がこの先どう出るかで、彼女の運命が決まってしまう。その重圧がじわりと胸に広がった。
栞は俺の袖をそっとつかみ、「大和さん、本当に…ありがとうございます」と小さく呟いた。華奢な指が、信じられないほど強く俺の服を握っている。
タクシーを拾って、俺のアパートに向かう。栞の膝の上には小さなキャリーバッグがあった。いかにも安物で、角が擦り切れている。これが彼女の全財産なのかと思うと、なんとも言えない気持ちになった。十六歳の女の子の人生が、こんなに小さなバッグに詰め込まれているなんて。
「……それ、全部の荷物か?」
思わず聞いてしまった。栞は少しだけ顔を上げて、バッグを見つめた。
「はい……必要なものだけ持ってきました」
その言葉に胸が締め付けられた。必要なものだけって……普通の女の子なら服や化粧品、大事な思い出の品とか、色々あるだろう。でも栞の場合は、「逃げるために必要最低限のもの」しか持てなかったんだ。
栞はバッグを両手で抱えるようにして、黙り込んでしまった。窓の外を見つめる横顔は、街の明かりに照らされて、妙に儚く美しい。時折チラッと俺を見ては、小さく息を吸い込む。
クールなボブカットから覗く首筋がやけに白くて、ふと目が行ってしまった。サファイアブルーの瞳は、名前の通り澄んでいるようで、でも同時に何か闇を抱えているようだった。
しかしなんだな……この子、マジでアイドルやってたのか。納得だな……。
そう思いながらも、自分の状況を思い出して苦笑した。ついさっきまで俺だって、恋人に裏切られた惨めな男だったんだ。この子の美しさに心惹かれても仕方ないが、今は彼女を守ることに専念しないと。
「あの……何かありました?」
栞の声に我に返る。
「あ、ああ、なんでもない。どうした?」
「ずっと私のこと見てたから……」
栞が小さく呟いた。俺は慌てて視線を逸らした。
「わ、悪い。気にするな」
気まずい沈黙が車内を支配した。
アパートに着くと、俺は栞のキャリーバッグを持ってあげた。軽いなと思ったが、何も言わなかった。三階まで階段を上り、三〇五号室の前で立ち止まる。
「着いたぞ」
鍵を開けて、部屋の電気をつけた。十二畳くらいのワンルームに、最低限の家具だけが置かれた質素な部屋。散らかってはいないが、生活感に溢れた男の独り暮らしの部屋だ。
「どうぞ」
栞は一歩中に入ると、立ち止まってしまった。何度も深呼吸をしているのが見える。目で部屋の隅々まで確認しているようだった。
「狭くて悪いな」
「い、いえ!とても…綺麗な部屋です」
栞は小さく呟いた。視線を落として、キャリーバッグの取っ手を握ったり離したりを繰り返している。緊張しているのか、それとも怖いのか。見知らぬ男の部屋に一人で来たんだ、不安になるのも当然か。
「座れよ」
ベッドを指さすと、栞はゆっくりとそこに腰掛けた。部屋に漂う男の匂いに、彼女は少し顔を赤らめたように見えた。
「あの……ありがとうございます」
緊張した声で栞が言った。キャリーバッグを膝の上に置いたまま、両手で強く抱きしめている。その姿に、俺は言葉に詰まった。この子は本当に追い詰められていたんだな。
「とりあえず、シャワー浴びるか?」
栞はビクッとしたあと、小さく頷いた。
「はい……お借りします」
タオルと着替えに使えそうな俺のロンTとスウェットパンツを渡して、栞をバスルームへと送り出す。扉が閉まると、俺は力が抜けたように壁にもたれかかった。
「はぁ……なにやってんだ、俺…」
シャワーの音が聞こえ始めた。俺はリビングに座って、携帯をいじりながら考え込んだ。柚子からの着信履歴を見つめたり、会社の同僚とのやり取りを眺めたり。昨日までの俺の日常が、今は遠い世界のように感じる。
まだシャワーの音が続いている。
やっぱ俺がここにいたら緊張するかもしれないな……。
いずれにしても、この時間を使って少し頭を整理しないと。
外に出ると、俺は階段の踊り場でタバコに火をつける。雲間から漏れる月明かりが、煙を銀色に染めていく。
煙を吐きながら、色々と考えを巡らせる。会社を辞めて、未来もない。彼女にはフラれて、友達も少ない。それでも未成年の女の子を巻き込んで、自分の正義感を満たしたいのか?
自己満足じゃないか?
このまま俺が栞のために動いたとして、それで事態は好転するのか?証拠もなければ、具体的な計画もない。暴露配信したところで、逆に訴えられて俺が潰されるってことだってあり得る。
もう一本タバコに火をつけた。夜風が頬を撫でていく。タバコの煙と共に、俺の中の迷いも空に溶けていけばいいのに。
二本目のタバコも吸い終わる頃、ようやくシャワーの音が止まったようだった。
俺が吸い殻を片付け、部屋に戻ろうとしたその時、アパートの玄関ドアが少し開いた。その隙間から栞がちょこんと顔だけを覗かせている。湿った黒髪が頬にまとわりつき、湯気を含んだ空気が廊下に漂っていた。まるで子猫のように臆病そうな目で、栞は俺の様子を窺っている。
「あの……上がりました…」
俺のロンTは彼女には大きすぎて、肩から滑り落ちそうになっていた。黒髪は濡れて、僅かに青みがかって見える。頬は湯気で赤く染まり、儚げな雰囲気に艶やかさが加わっていた。
「あ、ああ……」
言葉に詰まっていると、指先に熱さを感じた。
「いてっ!」
気づけば、タバコの火が指まで来ていた。慌てて床に落としてしまう。
「大和さん!大丈夫ですか?」
栞が心配そうに駆け寄ってくる。その仕草が妙に色っぽくて、俺は思わず目を逸らした。
「お、おう。大丈夫だ……ちょっとボーっとしてただけだ」
俺は床に落ちたタバコを拾い上げ、半笑いでごまかす。なんだこれ、俺、なんでドキドキしてんだ。
「部屋に戻ろう」
そう言って、栞と一緒に俺の部屋へと戻った。
部屋に入ると、栞はベッドの端に腰掛けた。少し緊張した様子で背筋を伸ばしている。俺は彼女にお茶でも出そうとキッチンに向かったが、冷蔵庫を開けても麦茶しかない。仕方なく、それを二つのグラスに注いだ。
「すまん、これしかなくて」
「いえ…ありがとうございます」
栞は両手でグラスを受け取り、一口だけ飲んで膝の上に置いた。その仕草にどこか上品さがあった。
俺はベッドから少し離れた椅子に腰掛け、スマホを取り出してぼんやりと画面を見つめる。
──そろそろ本腰入れて考えなきゃな……。
証拠がない以上、事務所の悪事を暴くのは難しい。だけど、今すぐに何かしなきゃいけないという焦りもある。
「……どうしようかな」
独り言のように呟き、画面をスワイプする。ニュース、SNS、動画配信アプリ。無意識のうちに情報を求める手が止まらない。
「大和さん?」
栞の声が、静かな部屋にふわりと響く。
「何か考え事ですか?」
顔を上げると、栞はグラスを両手で包み込むように持ったまま、じっとこちらを見つめていた。その瞳には、不安と期待が入り混じったような色が宿っている。
「まあな。お前の事務所の悪事を暴く方法を考えてた……」
「証拠……ですよね」
「契約書の控えとか明細とかは……?」
俺が尋ねると、栞は一瞬ぽかんとした顔をした。
その様子に思わず苦笑する。そうだよな。
大人でも契約内容をしっかり把握できるやつなんて少ないのに、ましてや十六歳の子がそんなものを管理できるはずがない。
むしろ、事務所側がそういう無知につけ込んで、都合の悪い情報をすべて取り上げる構造になっているのは明らかだった。
「その……詳しくは……」
栞は申し訳なさそうに目を伏せる。
「だよな……」
俺はスマホを弄りながら、考えを巡らせた。証拠がなければ、どれだけ真実を語ったところで、世間に届くことはない。
──でも、本当に何も残ってないのか?
俺はゆっくりと息を吐き、冷静に整理してみる。
ブラックな企業ほど、確実に「証拠隠滅」を徹底している。だが、それは彼らの手が届く範囲に限られる。
栞の証言が虚偽だと証明できないように、逆に、事務所側が「不正はなかった」と証明するのも難しいはずだ。
「私の言葉だけじゃ、信じてもらえませんよね……?」
栞がぽつりと呟いた。その声には、どこか諦めに似た感情が滲んでいた。
彼女はすでに、何度もこういう"大人の壁"にぶつかってきたのかもしれない。
俺はスマホをスクロールしながら考え込む。
契約書もない、録音もない。なら、どうすれば……
──だが、"完全に消し去る" なんてことが、本当にできるのか?
一度ネットに流れたものは、完全には消せない。
俺がこれまで適当にやってきた配信だって、意外なところで切り抜かれていたりする。
なら、もしかして……
「……いや、待てよ」
俺はゆっくりと顔を上げ、栞を見た。
「お前、配信してただろ?」
「はい……」
「過去の配信で何か手掛かりになるものはないか?何でもいいんだ。いつもと違った配信回とか、異変があった回とかなかったか?」
栞は目を丸くして、必死に思い出そうとしている。
「あ……」
「何か思い出したか!?」
俺の声に、栞は少し驚いたように身を引いた。そして目を伏せながら、小さな声で言った。
「はい……お金で脅され始めた頃に、一度だけ生配信中に辛くて泣いちゃったことがあるんです……」
俺は思わず身を乗り出した。これは重要な情報かもしれない。
「配信中に……?そのあとどうなったんだ?」
栞は過去を思い出すように、虚空を見つめる。その瞳には辛い記憶が映っているようだった。
「マネージャーに途中で止められました……」
配信が中断されたということは、何か都合の悪いことが話されそうになったということだ。
「つまり、その時相手ともめたってことか…」
栞は手のひらを見つめ、小さく息を吐いた。肩が落ち、全身から力が抜けていくようだった。
「ごめんなさい、その時は私、パニックになってて…詳しくは思い出せなくて」
弱々しい声に、俺は思わず栞の方へ視線を向けた。震える唇、俯いた目、自分を責めているような表情。その姿に、胸が痛んだ。
「実際に見てみないと分からないな……」
希望が見えた気がした。だが——。
「でも、お前の配信の過去ログ、全部消されたわけじゃないよな?」
慎重に尋ねると、栞は申し訳なさそうに首を横に振った。
「いえ…私が事務所から逃げ出した翌日に、アーカイブが全部消されました……」
「マジか〜!」
思わず膝を打って悔しがる。貴重な手がかりがすべて消されたのだ、迂闊だった。もっと早く気づいていれば——。
「ごめんなさい……」
栞は肩をすくめ、申し訳なさそうに俯く。その横顔は、不安と後悔が入り混じったように見えた。
「いや……待てよ……」
ふと閃き、俺は勢いよく立ち上がった。
「大和さん?」
驚いたように栞が顔を上げる。
「一つだけ手がある……」
「手?」
「目には目を、ネットにはネットだ……!」
俺は拳を握りしめた。向こうがネットを使って証拠を消したなら、こっちもネットを駆使して、それを取り戻してやる。
栞は首を傾げて俺を見つめた。その瞳には困惑と期待が混ざっていた。
「とにかく、今は少しでも手掛かりを集める!」
俺はそう言って、パソコンを立ち上げた。検索画面を開き、栞のアイドル名や所属していた事務所について調べ始める。
栞として活動していた彼女の情報を、少しずつ拾い集めていく。配信プラットフォームやSNSアカウント、ファンの反応など、あらゆる角度から探っていった。
「ここでは何を話してたの?」
「ファンとはどんなやり取りをしてた?」
「いつも見てくれる人はいた?」
質問を重ねるうちに、なんとなく彼女の活動の全体像が見えてきた。深夜遅くまで二人で画面に向かいながら、手がかりを求めて検索する。栞は思い出したことを次々と話してくれた。
何度目かの深いあくびが出て、ふと時計を見ると、針は深夜を回っていた。
「今日は色々あって疲れただろ、もう寝ろ」
栞は名残惜しそうな顔をしたが、素直にベッドへと向かった。俺はベッドを彼女に譲って、自分は床にクッションを敷いて寝ることにした。
栞がベッドに入り、俺も照明を落として横になる。でも、スマホで何か作業を始めた。暗闇の中で青白い光が俺の顔を照らす。
「何をしてるんですか?」
栞が小さく聞いてきた。
「ちょっとな……」
詳しいことは言わず、俺はSNSで栞のファンアカウントを探し始めていた。キーワード検索で、彼女のアイドル名や特徴的な配信の出来事などを手掛かりに、少しずつ情報を集めていく。
気がつくと、俺の目は重くなってきていた。ぼんやりとした意識の中で、スマホを持っていた手の力が抜け、ぽとりと床に落ちた。
その音が遠くに聞こえた気がしたが、体は動かせず、意識はゆっくりと沈んでいく。
「……」
どれくらい時間が経ったのか分からない。微かに目を覚ました。まるで夢の中にいるような、ふわふわとした感覚に包まれている。
何かがおかしい。
ゆっくりとまばたきを繰り返しながら、ぼんやりとした意識の中で違和感を覚える。毛布がかけられている。俺が自分でかけた記憶はないのに。
身体を少し動かそうとするが、まだ現実感がない。背後に、人の気配を感じた。
薄目で部屋を見回し、静かに耳を澄ませる。暗い部屋の中、かすかに聞こえる呼吸音。そして、鏡に映るのは……俺の背後に座る栞の姿。
彼女は俺の寝息を聞きながら、じっとこちらを見つめていた。
「大和さんが消えちゃわないように、ちゃんと見ておかないと…」
寝ぼけた意識のまま、その言葉が耳に入る。沈むような、柔らかいけれど不安定な声だった。
「みんな、私のそばから消えちゃうから…」
栞の声はひどくかすれていて、壊れそうなほど小さかった。胸の奥を締めつけるような、沈んだ響きがあった。
何かを言おうとしたが、まぶたが重く、意識がまた沈んでいく。
……眠い……今は何も考えられそうにない。
抗えない睡魔に、俺はそのまま深い眠りに落ちた。
朝、目が覚めると栞はベッドで寝ていた。彼女の柔らかな寝顔を見つめながら、昨夜の光景を思い出す。
……いや、あれは何だったんだ!?
俺の背後で、じっと寝息を聞きながら監視するように座っていた栞。
思い出すほどに背筋がゾワッとする。ホラーかよ。
冷静になればなるほど、夜中のあれが夢じゃなかったことを確信する。でも、だったらなおさら意味が分からない。
「……まさか、ヤバい女って、そっちのヤバい方じゃないよな……?」
額にじんわり汗がにじむ。
栞の寝顔は柔らかく、まるで眠る子猫のように無防備だった。だけど、俺の脳内ではさっきから警鐘が鳴りっぱなしだ。
だ、大丈夫だよな? 俺?
昨夜の栞を思い出して、俺はごくりと生唾を飲み込んだ。