ノートパソコンをぼうっと見つめたまま、俺はため息をついた。部屋にはビールの空き缶が転がり、薄暗い蛍光灯がぼんやりと辺りを照らしている。
「はぁ……なんだよ、これ」
配信を開始して、いつものように視聴者数を確認する。たった5人のリスナーしかいない、いつもの雑談過疎配信だ。「声がいい」って言われて始めたものの、こんなもんだろう。まあいい、俺の趣味だし。
画面をぼんやり見つめながら、自然と愚痴が口をついて出る。
「聞いてくれよ、今日さ……俺、彼女にフラれたんだよ。しかも会社も辞めちまった」
酒の勢いもあり、俺は淡々と語り始める。
「俺、
手元にあったビールを一口飲み込む。喉を通った冷たい液体が、胸のどこかに空洞を作っていく気がした。
「そんな俺の唯一の支えが
苦い笑みが漏れる。もう戻らない日々を思い出して胸が締め付けられる。
「それがさ、プロポーズまでして、今日やっとその返事がもらえると思ったら……『別れよう』だってさ」
再び胸が締めつけられる。口から出る言葉ひとつひとつが、自分自身を傷つけていくようだった。
「あげく、別れ話の場に会社の上司が一緒にいたんだぜ? 意味わかんねぇだろ? しかもその上司が、大学時代の先輩でさ……『誤解するなよ』とか抜かしやがって」
怒りがじわじわとこみ上げてくる。
「会社に戻ったら、同僚が言うんだよ。『柚子と佐久間さん、前から噂になってたぜ?』ってな。冗談だろって思ってたけど、よく考えたらおかしかったんだよ。最近、柚子は『忙しい』とか『疲れてる』とか言って、俺との時間をどんどん減らしてたくせに……佐久間とは妙に親しくしてたんだよな」
言葉が詰まり、喉が苦しくなる。画面越しのリスナーがどう感じているのかなんて気にしている余裕もない。
コメント欄が少しざわつき始める。
『おいおい、個人情報ダダ漏れじゃね?w』
『本名に彼女の名前、上司の名前までフルオープンとか草』
『これアーカイブ残して大丈夫か?』
『でもそれで会社辞めるのは悪手過ぎんよ』
酔いが回っていたせいか、その指摘が妙に可笑しくて、俺は苦笑いを浮かべた。
「結局、俺はただの道化だったんだよ。信じていたのは俺だけで、周りはとっくに気づいていたんじゃねぇのか? 何も気づけず、あいつらがホテルに消えていくのを、物陰に隠れて、ただ見送ってさ……情けないよな、マジで」
コメント欄がさらにざわつき始める。
『それはキツい……』
『そんなの耐えられねぇだろ普通』
『クソみたいな話だけど、聞いてると胸が苦しくなるわ……』
拳を握りしめ、ふと壁に目を向ける。殴った跡が虚しく残っていた。あの時は本当に頭が真っ白になって……でも壁を殴ったところで、何も変わらない。
「プロポーズして振られた上に浮気までされて、その上こんな配信で愚痴ってる俺って……マジで終わってるわ」
俺は自嘲するように笑い、再びビールを口に流し込んだ。冷たいアルコールが喉を通り、胸の奥でじんわりと苦味が広がる。
配信画面のコメント欄は、ちらほらと反応が増えてきていた。
『大和、今日は泣いてヨシ!』
『お前、悪くねぇよ』
『さすがに同情するわ』
酔った頭でそれを眺めながら、俺は再びため息を吐く。
どうせお前らだって、明日には俺のことなんて忘れてるだろうよ。そう思いながら、またビールを煽ろうとした瞬間、新たなコメントが目に飛び込んできた。
『ここって、相談できる配信ですか?』
一瞬目を疑った。
何だこの場違いなコメントは?
「いや、ここはただの酔っぱらいの愚痴部屋だけど?」
返答すると、少し間が空いてコメントが続いた。
『すみません、相談部屋と間違えました』
画面の向こうにいる誰かが困っている。そう考えると、なぜか放っておけなくなった。
くだらねぇ正義感、こんな時に限って顔を出すんだよな。自分のことすらまともに守れてないのに。
「まぁ……せっかく来てもらったし、良かったら話くらい聞くよ?」
俺の投げかけに、コメントがためらいがちに返ってくる。
『でも……私の話なんて、迷惑じゃないですか?』
迷惑かどうかなんて、今の俺にはどうでもよかった。
「酔っ払いの独り言より、よっぽどマシだろ。気にすんなよ、遠慮なくどうぞ」
コメント欄がざわめき始める。
『女の子?』
『え、ガチ相談?』
『気になるんだが』
リスナー数が徐々に増えていくのが見えた。何かが変わりそうな予感がして、俺は画面をじっと見つめる。
『……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?』
相手は少し迷ったあと、控えめにコメントを返してきた。
「概要欄に俺のTalkie
コメント欄に『あ、はい、入れてます、大丈夫です』という返事が流れた。俺はため息をつきながらビールを一口飲み干す。
何やってんだろ、俺。今日散々なめにあったってのに、見知らぬ誰かの悩みなんか聞いて何になるんだよ。
そう思いながらも、なぜか断れなかった。自分がこんな気分の時、リアルでは誰も話を聞いてくれなかったからか?
しばらくして、画面の隅に通話の着信通知が表示される。
「もしもし?」
通話が繋がると、か細く震えた声が耳元で響いた。
「あの、本当に……話してもいいんですか?」
その声は透き通るように綺麗で、同時に傷つき怯えた子猫みたいな儚さがあった。俺は思わず息を呑んだ。
「あ、あぁ、大丈夫だ。安心して話していいよ。何があった?」
少女は少し迷ったような沈黙のあと、小さく息を吸い込んで語りだした。
「……私、
「逃げてる?」
不穏な言葉だ。俺は思わず身を乗り出した。
「何から逃げてるんだ?」
少し間があって、小さな声で続いた。
「所属事務所から、です……」
「所属事務所?」
驚いて声のトーンが上がる。所属している事務所から逃げるなんて、相当な事情があるはずだ。
「そのバーチャルアイドルってのは、アバターを使って活動する、いわゆるVってやつだよな?」
俺が問いかけると、栞は小さく息を吐いて答えた。
「はい……デジタルの姿で歌ったり、ライブ配信をしたりして……。最初は夢みたいで、ファンの人たちと交流できるのが嬉しかったんです。でも事務所が……」
掠れるような彼女の声。
「色々あって……もう、逃げるしかなくなって……」
栞の声はかすかに震えていた。その震えは、単なる緊張ではなく、もっと根の深い恐怖が染みついたものだった。
「どうして?」
俺が促すと、栞はためらいながら言葉を続けた。
「……私、小さい頃に両親を亡くして、それで……親戚の家に引き取られたんです。でも、そこが……地獄みたいなところで」
「地獄?」
「はい……私はそこではただの"お荷物"でした。食事は冷めきった残飯のようなものばかり、服はお下がりばかりでボロボロ、毎日のように暴言を吐かれて……でも、それくらいならまだ我慢できたんです」
「まだって、十分酷いけどな……」
栞は一瞬口をつぐんだ。俺が画面越しに見ているわけでもないのに、その沈黙が痛いほど伝わってくる。
「……義理の父親は、普段は無関心でした。でも、夜になると部屋の前に立って……何度もドアのノブを回されて……」
背筋が冷たくなる。
「最初は気のせいかと思いました。でも、何回も続いて……ドアを押さえながら朝を迎えたこともあって……そのうち、毎晩のように『鍵を開けろ』って囁かれるようになって……」
彼女の語る内容に、俺は拳を握りしめた。こんなことが現実にあっていいのか?
「それで……ある晩、ついに鍵が回されそうになったんです。怖くて……パニックになって……必死で扉を押さえて……そしたら外から笑い声が聞こえて……そのとき……もう無理だって思って」
通話越しの声が震えているのがわかる。
「それで、家を飛び出したんです。もう、戻るつもりはありませんでした……でも、未成年の私が一人で生きていくのは……」
「……警察とかに相談しなかったのか?」
単純な疑問だった。こんな話なら、警察や役所が動いてくれるはずだ。
「警察、ですか……?」
栞の声がわずかに震えた。
「それが……怖くて。警察に話したら……また、あの家に返されちゃうかもしれないって。そうなったら、もう……絶対に逃げられなくなるから。だから……誰にも言えなくて……」
その言葉に、俺は息を呑んだ。こんな状況に追い込まれた子供が、どれだけ怖かっただろうか。普通なら児相とか、なんか保護してくれる場所があるはずなのに。でも、そもそもそんな選択肢が思いつかないくらい、彼女は幼く、そして追い詰められてたんだろう。
「最初は24時間のファストフード店を転々としてました。顔を洗うのもコンビニのトイレで……。友達の家に泊めてもらったこともありましたけど、長くは居られなくて。お金もすぐ尽きるし、もうどうしようもなくなったときに、ある芸能事務所の人に声をかけられて……」
「芸能事務所?」
「はい……『うちなら生活を安定させられる』って言われて、気づいたら……」
彼女の息が詰まる。
「最初は本当に夢みたいだったんです。新人育成のための専属トレーナーがついて、歌やダンスを学んで、ファンも増えて……。でも……」
「でも?」
「最初はすごく良くしてくれたんですけど、すぐに『寮費がかかる』とか『レッスン代』とか『3Dモデルの制作費』とか、次から次へと請求されて……。気づいたら何百万も借金があって……。でも、それでも頑張れば返せるかなって。ここなら、なんとか一人でやっていけるかもって思ってたんです……」
「……詐欺じゃねぇか、それ」
俺の声が低くなった。栞はかすかに息を呑んで、それでも続きを話す。
「最初は、支払いの催促が続いていただけでした……。でも、返せる見込みがないからって、態度が変わったんです。『払えないなら、身体で払えばいい』って……。怖くなって逃げようとしたら、『逃げたら、お前の居場所なんてどこにもない』って脅されて……」
その言葉に、俺は無意識に拳を握りしめていた。こんな悪質な話を聞いて、黙っていられるわけがない。腹の底から怒りがこみ上げてくる。
「でも……私が何言っても無駄で。事務所の人たちは『未成年だから警察に行けば実家に送り返される』って脅してくるし、相談窓口に行っても身分証がないから取り合ってもらえなくて……。SNSで助けを求めたら『売れないアイドルの被害妄想』って笑われるだけで……。もう誰にも頼れなくて、どうしようもなくて……だから、こんな小さな配信でも、誰かに聞いてもらいたくて……」
「小さな配信」という言葉に、思わず笑いがこみ上げた。いや、確かにその通りだ。視聴者数5人って、実家の家族全員見てくれてもまだ足りないレベルじゃないか。まあ、俺の親が見てくれるような配信内容ではないが。
でも、こんな誰も見てない配信だからこそ、彼女は本音を話せたのかもしれない。
ふと、彼女の「誰も助けてくれない」という言葉が頭に引っかかった。
昨日までの俺も同じだったな。会社でも、恋人からも見捨てられて。
そう思うと、なんだか妙な連帯感みたいなものを感じた。そして同時に、こみ上げてくる怒り。
こんな若い子が追い詰められて、それでも誰も手を差し伸べないなんて、この世界、どうなってんだよ。
ふと、自分の置かれた状況が頭をよぎった。会社も辞めたし、恋人にも裏切られた。俺に何ができるんだろうと思ったが、逆に言えば……
「……俺だって、もう終わってる人間だしな。失うもんなんてねぇし」
視聴者数が一気に百人を超え、配信はかつてないほど盛り上がっていた。
「おい、栞。お前のそのクソみたいな事務所のこと、俺が暴露してやろうか?」
俺の宣言に、コメント欄が爆発した。
『マジか!?』
『こいつやる気だぞ!』
『やべぇ、盛り上がってきたw』
『玉砕しろww!』
耳元で栞が息を呑む気配がした。
「え……?そんなこと、本当に……?」
俺は深呼吸をして、マイクに向かって言い放った。
「どうせ誰も助けてくれねぇんだろ?だったら、俺がやってやるよ」
栞の小さな声が耳元で震えながら聞こえた。
「……本当に、本当にいいんですか? 私……信じても……」
震える声に胸が熱くなり、俺はしっかりと答えた。
「ああ、任せろ。俺が、お前の代わりに全部ぶちまけてやる」
この時、俺にはまだ事の重大性が分かっていなかった。
この決意が、俺の人生を大きく変えることになるということを。そして、栞という少女が、単なる「救われた少女」ではなく、「救われたことでヤバくなった少女」に、なっていくということを……。