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02

 「こんにちは」


 僕は、居室の中に向かって声をかける。中央に簡素なベッドが置かれた、がらんとした居室。そこに女性が一人、点滴を打たれながら横たわっていた。


 「いまからあなたにいくつか質問をします。答えたいように答えて構いません。その成果を、中毒者治療の研究へ使用します。拒否権はありません」


 マイクに乗った声は、居室内のスピーカーから発せられて、そのまま静かに消えていく。

 中央で眠る女性は、ピクリとも動かない。病的なほど痩せているのと、入院着を着ているのとも相まって、まるで幽霊か死人のように見えた。


 「あなたの番号を教えてください」

 『・・・・・・』

 「あなたはNo.331、通称『ミサト』で間違いないですか?」

 『・・・・・・』

 「あなたの生年月日は、2127年4月21日で合っていますか?」

 『・・・・・・』


 何の反応もせず、眠り続ける女性。どうしよう、同定できないけど。困って警備員さんを見れば、警備員さんは壁に寄りかかったまま一つ頷いた。

 続けろと。同定しなくていいのか? そこは重要じゃない、とりあえず面談しろと。はい。


 「では、面談を始めます。あなたは、何中毒ですか?」

 『・・・・・・』

 「人食い中毒、で合っていますか?」

 『・・・・・・』


 何も言わず、ただ眠り続ける女性。頰が痩けていて、髪もパサパサだ。資料の写真でも病的に痩せていたが、今ベッドに横たわる姿は、その何倍も痛ましかった。




 No.331、通称『ミサト』。

 2159年4月29日、複数人を食い殺した疑いで逮捕された、当時31才の女性である。




 当時ミサトは、妊娠していた。なかなか子どもができず、待望の第一子だった。ミサトは旦那と大いに喜び、健康に気を配って生活していた。


 しかしそんなミサトに、一つの問題が生じた。

 悪阻だ。

 悪阻自体は自然なものである。しかし、ミサトはそれが異様に重かった。


 何を食べても吐き戻す。食べ物の匂いを嗅ぐだけで吐く。終いには何もしなくても突然吐き気が襲ってきて、水さえ身体が受けつけなかった。


 しかし妊娠しているミサトの身体は、栄養を欲していた。養分を。赤ちゃんが育つに十分な栄養を。


 吐き気と栄養不足で朦朧とする意識の中、ミサトは甲斐甲斐しく世話をしてくれる最愛の旦那を見て、こう思った。


 「おいしそう」


 気づいたときには、目の前に食い散らかされた旦那の死体があった。



 ミサトは一瞬理解できなかった。誰が、旦那をこうしたの? 一拍置いて、紛れもなく自分だ、と分かった。記憶はずっと繋がっていたから。


 そして、異変に気づいた近所の人が、ミサト夫婦の暮らす家の戸を叩いた。

 異変とは何だったのだろうか、物音だったかもしれないし、旦那の断末魔だったかもしれない。今となっては分からない。


 その声を聞いて、また、ミサトは思った。


 「おいしそう」


 彼女は旦那をはじめ、隣人、通行人、駆けつけた特対、合わせて20人を食い殺した。ミサトは犠牲者の最後の一人を食い散らかしたあと、そのまま糸が切れるように眠った。


 次にミサトが正気を取り戻した時、全ては終わっていた。ミサトは血みどろのまま政府に拘束されていた。


 様々なショックの結果、ミサトの記憶にはところどころ穴が空いていた。だが、協力者である遠藤久作の丁寧なヒアリングの結果、彼女は全てを思い出した。


 そして、思い出すのにエネルギーを使ったミサトは、またお腹が空いた。




 ぴぴ、と片手に持っていたタイマーが鳴った。10分経過、残り10分。


 ベッドの上の彼女は、まだ眠っている。到底人を食い殺せるとは思えない、ガリガリの体で。


 もしかしたら、今日は面談ができないかもしれない。それは嫌だな、と思って、自分の思考に驚いた。人を食い殺すような人との対話を、自ら望んでいるなんて。




 遠藤久作の記録によれば、ミサトは人を食べると、一時的に正気を取り戻すらしい。類人猿の肉も試したらしいが効果はなく、死刑が廃止されて久しい現在、点滴の投与で延命だけをされている。


 なぜ、人を食べると一時的に正気に戻ることが、分かったか。No.1033:ミミに少女が与えられないこの病棟で、どうしてそれが確認できたか。



 それは、ミサトが出産したからだ。



 お腹が空いた状態のまま、ミサトは自然な生体反応として、陣痛を起こし、出産した。20人分の栄養を蓄えた身体から生まれたのは、やや小さな男の子だった。


 ミサトは、待望の我が子を得た。しかし、出産という大仕事を終えた彼女は当然、お腹が空いていた。


 床に転がるのは、待望の我が子。


 「おいしそう」な我が子。




 全てが終わったあと、彼女は正しく狂った。


 新生児の小さな体を食べても、正気は十分も保たなかった。出産で疲れていた彼女が自分のしたことを正しく理解したかも怪しいし、現在点滴に繋がれて眠る彼女は、自分のことさえわかっていないかもしれない。




 ぼーっと、キューサクの書いていた記録を思い出す。彼女はここ数年ずっと、点滴に繋がれながら眠り、不定期に目を覚まして泣き喚くのを繰り返しているらしい。僕はまだ、眠っている彼女しか知らないけれど。


 でも、面談は相手の意識があるときにすべきで。キューサクが一ヶ月に一度、ほぼ同じ日の同じ時間帯に記録をつけていたということは、きっとこの時間に、ミサトが起きやすいということだ。


 僕はタイマーをちらりと見た。17分経過、残り3分。できれば起きてほしいな、と祈るような気持ちで彼女を見る。


 と、ぴくり、と彼女の瞼が動いた。


 ぴん、と空気が張り詰めるのを感じた。後で壁にもたれかかっていた警備員さんが、姿勢を正す気配。


 それから、2、3度瞼がぴくぴくと動くと、ゆっくりと目が開いた。


 濁った、黒目。幽霊のような目。


 それから、彼女はぱちぱちと瞬きをする。そして小さく、『おなかすいた……』と呟いた。


 本能的な恐怖から、無意識に息を詰めていた。彼女はもう一度瞬きをして、ゆっくりと身を起こす。そして、もう一度呟く。


 『おなかすいた……』


 そして、アクリル板の方を、いや、僕の方を見た。


 自分の喉が、ひゅっ、と鳴るのを聞いた。



 『おいしそう』



 ダァン、と何かがぶつかった音がした。一拍置いて、ミサトが、アクリル板に体当りした音だと気づいた。

 ベッドからアクリル板まで距離があるのに、この一瞬で? ミサトはもう一度、アクリル板に体当りする。


 ダァン。


 彼女の骨が、身体が、軋んでいるのが見ているだけで分かった。ダァン、ダァン、とぶつかりながら、彼女はブツブツと呟いている。


 『おなかすいたおなかすいたおなかすいたおいしそうおなかすいたおいしそう』



 あぁ、食欲に支配された人間って、こんな感じなんだろうな、と思った。



 さっきまで感じていた本能的な恐怖が、薄らいでいくのを感じた。接近されたことで一周回って落ち着いたのだろうか。今は、食べられるかもしれないという恐怖より、No.331を知りたいという興味が上回っている。



 もっと知りたい。

 もっと教えて。



 途中まで出来ているパズルのピースが、残りが埋まるのを待っている。



 じっ、と彼女を見る。体当たりし続ける彼女、呟き続ける彼女の目が、きらりと光ったように見えた。


 僕は目を凝らした。動き続けるから凄く見づらいけど、あの光ったものは、何? ミサトの頬に、雫が滑り落ちていく。もしかして、泣いてる?


 もしかして、と思った。ミサトの声に耳を澄ます。『おなかすいたおなかすいたおいしそうおなかすいたおいしそうおなかすいた・・・・・・』とエンドレスに続く声に、時々違うフレーズが混ざっていることに気がついた。




 『しなせて』




 僕は、彼女を見た。彼女も、僕を見ていた。彼女の動きが一瞬止まる。


 濁った目が、一瞬だけ光を取り戻したように見えた。


 パチパチパチ、とピースがはまっていく。


 あぁ、なんだ。彼女は、全部分かっている。

 したことを、自分の過ちを全て、分かっている。


 そのうえで、人を食べたいという衝動に、苦しんでいるんだ。



 ぴぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ、とタイマーが手の中で鳴って、煩わしいなと思った。


 彼女が止まったのは一瞬で、また『おなかすいたおなかすいた』と呟きながら、アクリル板に体当りしている。


 おなかすいた。


 すごく、おなかがすいている。


 何でもいいから食べたい。自分が消えてなくなってしまう前に。


 ああ、なんだ、おいしそうなものが目の前にあるじゃないか。


 おいしそう。


 おなかすいた。


 いただきま、




 「ぐぇっ」

 「っこの、馬鹿!」


 気づいたら、右頬がジンジンと痛んでいた。警備員さんが、息を乱して立っている。手を振り抜いて、今まさに誰かを殴りました、みたいな姿勢で。


 「……え?」


 僕は、頬に手を当てた。熱い。痛い。警備員さんはかつかつと僕に近寄り、僕の手からタイマーを奪ってぴ、と音を止めた。そこで初めて、タイマーがまだ鳴っていたことに気づいた。


 「……え、僕、」

 「気にするな」


 警備員さんは、僕の近くに落ちていた制帽を拾うと、軽く払って被る。そして僕の首をチョークスリーパーのように抱えて引きずった。


 「え、ちょ、タンマタンマ、しまる、しまってる!!」

 「うっさい、さっさと戻れ」


 どんどん、と警備員さんの腕を叩けば、本っ当に機嫌が悪そうな声が帰ってきた。僕は諦めた。


 引きずられながら、ミサトの方を見る。いつの間にか彼女は気絶していて、介護用ロボットが彼女を運んでいた。どさりとベッドに寝かされ、点滴に繋がれる彼女。そのさまはまるで、ホラーな眠り姫のようだった。



 警備員さんに引きずられて、彼女の居室から遠ざかる。僕の首に回っている警備員さんの腕を見れば、誰かの歯型がついていて。僕は頰も、ついでに顎も痛くて。


 あぁ、これは死にたいな、と思った。


 彼女に、キューサクみたいな理性が残っていなくてよかった。ナイフをくれと言えるだけの余裕がなくて、助かった。


 死にたがっている人に、ナイフを渡す勇気は、まだ、僕にはない。

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