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正義01

 「そうか、逝ったか」


 総理大臣補佐官室。奥に置かれた大きな机に、老人が一人、座っていた。机には様々な書類が積まれているが、老人の目の前に置かれた書類には、「No.939 遠藤久作 自殺により死亡」と書かれた報告書があった。


 老人は細く、静かに息を吐く。そして、報告書の右上に自分の印を押す。報告書は「処理済み」の札のついたボックスにそのまま入れられた。


 そのまま、椅子に深く腰掛けて、どこか遠くを見るような目をする老人。

 と、静かな室内に、ノックの音が響いた。


 「失礼します」


 入ってきたのはスーツ姿の青年。抱えていた書類の束を、「未処理」の札のついたボックスに入れた。


 「あれ、休憩ですか? 珍しいですね」

 「・・・・・・まあ、そのようなものだな」


 老人は背もたれから体を起こし、「未処理」のボックスから1枚書類を取り出した。青年はさり気なく「処理済み」のボックスに視線をやり、そして口を開きかけた。


 「袴田」


 青年が何かを言おうとした、その直前。老人が鋭く言葉を発した。

 老人の方を向く青年。老人は、その見た目には似合わないほどギラついた視線を若者に送っていた。


 「・・・・・・嫌だなぁ、まだまだ現役じゃないですか」


 老人に向かって小さく肩を竦める青年。そして、そのまま無言で退出した。



 老人は、机の上の書類に目をやった。文字を追おうとするが、目が滑って頭に意味が入ってこない。しばらくそれを繰り返した後、老人はまた長く息を吐き、背もたれに体を預けた。


 老いたものだ、と思った。二、三十年前、仲間とデスクを並べていた時は、多少感情が揺れても抑え込むことができた。それは、大義のために。

 けれども位ばかり高くなった今、昔より冷静なように見えて内面が脆くなっていくのを、老人は感じていた。


 目線だけ、「処理済み」の方に向ける。一番上には、「No.939 遠藤久作 自殺により死亡」。詳しいことは何一つ書いていないが、簡単な当時の状況は書類ではなく、先程の青年:袴田から口頭で報告されていた。




 老人ーー染谷貴之は、No.939:遠藤久作の昔なじみであった。




 高校時代、染谷と久作は同じ学舎で学んだ。染谷は政治に、久作は生物にと興味の向いている方向は違えど、社会を良くしたいという志は同じだった。あのときは二人とも青く、そしてエネルギーがあった。何度も議論し、衝突し、そして二人で寝転んで笑った。


 進学を機に、染谷と久作は別れた。が、連絡を取り合わずともお互いが目標に向かって進んでいると信じていた。卒業式、証書を片手に誓った、染谷は大義のために、久作は患者のために歩んでいく、と。


 染谷は官僚になり、政治家の秘書のまねごとをするようになった。政治家にも官僚にも様々な思惑を持つやつがいた。ただ名を売りたいやつ、できるだけ仕事したくないやつ、事なかれ主義、好色、無能。世の中を良くしたかったらどうすればいいか、答えは策略、根回し、暗躍、交渉の毎日だった。


 優しいやつから潰れていく。残ったのは、鉄のようなやつか、どこか壊れているやつだけだった。自分の思い描く大義のために、染谷は毎日懸命だった。政治家と世論と、ついでに海外情勢に挟まれながら、それでも社会を少しでも良くしようとしていた。


 大義のために、法に触れるようなことも幾度もした。だが、全ては自分の責任だと、腹をくくっていた。悪事だってやってやる、しかし、それが返ってくるのは周りの政治家や官僚を見れば自ずと分かった。個をどこまで潰せるか、善性を如何に合理化できるかが勝負だった。


 そして、染谷が久作に、何十年かぶりに再会したとき。都立病院の経営についての会議の帰りに、病院の食堂にいた久作にばったり遭遇したとき。


 染谷は、久作がどこか狂っているのを感じた。


 久作に、壊れていった同僚と同じ雰囲気を感じた。独裁者になりかねないから潰した政治家と同じ目をしていた。


 信じたくなかった。


 染谷は、そのまま久作を飲みに誘った。しばらくぶりに会った久作は、本当に壊れていた。潰れさせて揺さぶれば、狂気の片鱗を見せた。安楽死を利己的に行っている、と聞いて、そしてそれを患者のためだと信じて疑わない久作を見て、これは駄目だと思った。


 駄目だ、治らない。消すしかない。

 大義のために。


 ちょうどその時、染谷は中毒者に関する政策を担当していた。多様性を謳う時代、多様性を尊重しすぎて社会にとって危険な因子を放置しないために、隔離施設を作る計画。それを話せば、案の定久作は興味を持った。昔から、手の掛かる後輩の面倒を見るのが好きなやつだったから。


 ちょうど良いから、その隔離施設に久作を入れてしまうことにした。

 久作は狂っているが、頭が良い。酒で潰れた状態で、昔なじみの自分にだからこそ狂気の片鱗を見せたが、安楽死の証拠はほとんど残していなかった。そこで、まずは中毒者としてではなく心理研究員、中毒者の心理を研究する職員として中毒者病棟に入棟させた。久作本人からの提案も利用した。


 そして、一年ほどの調査の後、十分証拠が集まった段階で、久作を中毒者として収容した。


 久しぶりに会って飲んだ夜以降、染谷は久作に直接会っていない。久作とは全てメールでやりとりし、久作への対処は部下に指示して実行・報告させていた。袴田は、染谷の直属の部下だ。若くしてスピード出世をした袴田は人の機微に聡く、おそらく染谷が久作に多少執着しているのにも気付いている。しかし染谷は、あくまで久作は他人である、という態度を貫いた。




 染谷は、深呼吸した。吸う。吐く。そして、机上の書類を見る。「中毒者の捕縛状況についての報告書」、そして「中毒者の送棟許可願」。今度は、きちんと文字が頭に入ってきた。


 染谷は、判を持つ。全て、覚悟していた。親兄弟が自分のせいで死ぬことも、同期や部下が自分のせいで耐えきれずに自殺することも。


 でも、きっとまっすぐ進んでいるだろうと信じていた親友が狂っていたことは。収容した先で、自殺したことは。想定できていなかった。


 染谷はざっと書類を確認すると、右上に判を押した。感情とは切り離した合理的な思考が、次やるべきことを考え始める。


 もう、とっくのとうに覚悟している。自分の目指す大義だって、人によっては悪なのだ。それについてうじうじ考える優しいやつには、国を動かすことはできない。


 中毒者政策だって、人権侵害で批判されてもおかしくない政策だった。そもそも、人が人を選別するのが間違っている。どこから中毒者で、どこから中毒者ではないか、実はかなり曖昧だ。医者の診断で中毒者だと認定されれば、司法の判断をすっ飛ばして病棟へ収容される。やろうとすれば政府にとって都合の悪い人間を中毒者として収容できる。いや、そのために作られた制度と言っても、過言ではない。


 けれども批判論者はごく一部で、世論調査では国民の八割が中毒者政策について無関心だった。どうせ、中毒者なんて犯罪者、自分には関係ないと思っているのだろう。こんなに分かりやすく「政治に注目しろ」と示してやったのに、何にもリアクションがない。


 染谷の口から、乾いた笑いが出た。

 やっぱり、老いている。染谷は片手で口を覆った。


 冷徹に。これまで幾人も潰し、誘導し、追いやってきた。彼らのためにも、自分が揺らぐわけにはいかない。自分の描く大義を目指すしかない。



 だが所詮、実権を握った者によって、大義なぞ変わるのだ。



 何のために染谷が未婚なのか。何のために、両親が逝くまで昇進を辞退し続けたのか。何のために染谷が妹家族と縁を切ったのか。何のために染谷が、中毒者政策の最終責任者を政治家ではなく染谷にしているのか。何のために、年老いた染谷が、総理大臣補佐官に就き続けているのか。


 転覆される覚悟は、とうに出来ている。



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