警視庁に戻り、パソコンに向かって睨みをきかせていた宮川に声をかけたのは、木内の死体検案書を持った大江である。
周囲を気にする態度が見られないことに宮川は不審に思ったが、それもそのはずである。
既に夜の帳は下りきっていて、警視庁内の人も少しずつまばらになってきた頃合いだったからだ。
「全く、やけに帰りが遅かったな。何処に行っていたんだ?」
大江の言葉に宮川は短く「木内のことで調べていた」と話すと、大江はすぐに宮川の行動を察するように呆れ果てた態度を浮かべる。
「本当に遺族に会いに行ったんだな。お前もよくやるな。責め立てられたって文句は言えんだろうに」
大江は宮川の過去を知っているからこそ苦言を呈する。
それがなかったとしても、事件が起こってしまった被害者遺族は、警察に対して「力不足」と嘆くことだってある。
当然だが遺族も理解している。憎むべきは事件を起こした犯人であって、共通の目的を持つ警察と被害者でいがみ合うことほど無意味なことはない、と。
それでも、そう感じずにはいられないことも、十分理解できた。警察という組織にいれば尚の事、努力で最良の結果を引き出すことなどできないことを理解させられることの方が多い。
だから警察組織に従事する者たちは、自らのプライドをかけて捜査に走っている。
「あぁ。比較的今回は、マシだったかな。だがその分収穫もある。木内は間違いなく、被害者である長根家に来ていた。被害者の両親に、土下座で罪を詫びたそうだ」
「……ろくでなしにしては随分とお行儀が良いことだな」
「本当にそう、思うのか?」
「どういうことだ?」
大江の言葉に返すように、宮川はディスプレイに表示されたとある記録を指さした。
それは、木内が事件当時、自身の裁判結果を不服として控訴しようとしたと言うものだった。
「木内の犯行は強盗致傷罪、つまり、木内は被害者を死に至らしめたわけではないと判断された」
「どういうことだ?」
大江は宮川の指先に示された「強盗致傷罪」という言葉に息を巻く。
なぜなら、「強盗致傷罪」と「強盗致死罪」では全く話が違うからだ。名前こそ似ているこの二つだが、いわば「強盗行為で人が死んだか、負傷したか」ということを示す。
この件では、被害者である長根亜希子は間違いなく、強盗によって死んでいる。それであれば適用されるのは「強盗致死罪」の方が適切なはずだ。
にも関わらず、この件は「強盗致傷罪」が適用されていた。
大江の表情に浮かんでいる疑問符に、宮川は冷静な面持ちで回答を渡し始める。
「話を遡れば、被害者の長根亜希子さんは、木内のグループと鉢合わせして階段から転落。その遠因を作ったのは木内だったんだが、その時点では死んでいなかったらしい。直接的な死因は複数の要素があったみたいで、かなり微妙なところだったみたいだ。これが、木内の刑期がたった八年だった理由だよ」
「当時、木内は未成年で、更に使いっ走りにされていたって部分が同情を引いて、強盗致傷罪に問われたのか」
「そうだ。結果として主犯格には強盗致死罪が適応されて懲役二十年ってな結果になった。まぁ、それが不服で控訴しようと思ったらしいが、弁護士に止められて止むなく判決を受け入れたらしい」
「筋金入りのろくでなしだな」
大江が怒りで顔をにじませたのと同時に、宮川は「こんな人間が、土下座までして被害者に謝罪すると思うか?」とストレートな問いかけを行う。
対して大江は当然のように首を横に振って呆れ果てていた。
それは宮川も同じである。しかし、その時点での宮川は首を横に振らざるを得ない。
ほんの数時間ほど前、長根宅で聞いた木内のエピソードを聞いているためである。
「俺も同じ意見だよ。だが木内はどうして、謝罪する気になったんだろうな。強盗致傷罪でブタ箱にぶち込まれかけて控訴するような身の程知らず……。当然だが、事件のことだって事故だったと思い込んでいたかもしれない」
「宮川、お前、何が言いたいんだ?」
腹の底を探るような大江の言葉に、宮川は表情を晒すことなく沈黙する。しばし押し黙った後、大江に向かって「検案書を見ても?」と問いかけた。
大江は一瞬悩んだものの、宮川の態度が「自分の中の答えを決めるため」であると即座に理解し、黙り込んだまま検案書を宮川の前に差し出す。
その検案書はもちろん、坂峠で自殺した木内のものであった。
「特筆するべき点は、森嶋悠人と同様に、手首が切断されていた。そればかりか、この仏には足の指が切り落とされていた。両方の足のそれぞれの指が、親指を残してすべて切り落とされて所在不明。幸い、残った右手だけは無事だったよ」
ばらばらと荒っぽい紙送りをする宮川は、動作とは裏腹に荒っぽい態度で本文を確認していく。
内容の生々しさに一切表情を変えることなく、胸に沈めるような態度に、大江はその問いかけを待つことにした。
しばしの沈黙の後、宮川は大江に「森嶋の手首との共通点は?」と問いかける。
「手首が切り落とされていることくらいだ。なにせ森嶋の方は手首しか見つかってない」
「所見としておかしなところは見られないか? 死亡時期から察するに、行方不明になってすぐ仏になったのは確実なのか?」
「そのあたりは状況からの推察になる。あんな状態でまる二年近く吊るされていたんだ。所々は鳥についばまれてるし、ある程度当たりがつけられただけでもマシな方だよ」
大江の弁も尤もだと解釈した宮川は、再び検案書に視線を落とす。
すると、気にかかるようにとある箇所を大江に見せる。
「なぁ、木内の血液から検出されたこの数値、異常を示しているらしいが、具体的にどういうことなんだ?」
宮川が大江に対して、死体検案書の血液検査の項目を指さした。
そこには、「血液の凝固作用」に関連する数字が異常な数値を示しており、大江はそれを丁寧に宮川へ噛み砕く。
「あぁ、血小板だな。その数字が高いと、血液が固まりやすいってことだな。血栓や脳梗塞とかを引き起こしやすくなると言われている」
「……どんなことで、高くなるんだ?」
「俺は医者じゃないからなんとも言えないが、炎症反応や病気に起因するものもある。あと、出血が多いとかで大量の血液が作られる場合とかにもそういう反応があるらしい」
大江の話を聞き、宮川は嫌な仮説が頭の中をまさぐる。
しかし、そんな事が本当にあり得るのだろうか。宮川の浮かんだ仮説はそれだけ薄気味悪く、同時に本当にそんなことを実行したのかと疑いたくなるものだった。
宮川は平静を装った調子を崩さずに、大江に対して言葉を投げる。
「木内の体に注射器の痕は残っていなかったか?」言葉を投げられた大江は、途端に顔を顰めた。
「どうしてそれが分かった?」大江は怪訝な態度でそう返答するものの、宮川は考えが当たったことに寸分の感情の機微を見せることもなく、静かに息を吐く。
「森嶋悠人は、生きたまま手首を切断されていた。その直前には、指も切断されていたって話だったよな?」
「あぁ。まるで拷問みたいなやり方だ」
「木内も同じで手首がなかった。それだけじゃない、木内は足の指すらなかった。同じように、何かしらの拷問を受けてあんな状態になったんだろう。多分、森嶋も木内も、同じようなことを犯人にされた……。それで、人間は生きているものなのか?」
宮川の表現に大江は一瞬押し黙る。その言葉が遠巻き過ぎて、理解に間があったためだ。
だがそれは、「あれほどまでの欠損を伴う出血で死亡していないのは不自然である」という疑問を提起させる。
対して大江というと、刹那の沈黙を経て、理解するに至った。
最初に森嶋の手首が出てきた時は、誰しもが「手首の持ち主は既に死んでいる」と結論付けた。
状況のわからない今でも同じような考えをする人間はいるはずだ。だが現在、宮川は「少なくとも犯人によって殺害されていはいない」と判断している。
なぜなら木内の死因が「自殺」であったからだ。
恐らく犯人によって、手の欠損を伴う犯行はなされた。
けれどそれは、被害者を絶命させるまでには至らない。というより、意図的に生かし続けたと表現するほうが適切かもしれない。
犯人は「被害者を殺害させる」という目的ではなく、全く別な意図があってこの犯行に及んだ。
最終的にそれが達成されたことで、被害者たちを開放される。しかし手の欠損を伴うほどの出来事に耐えることができず、木内は自殺した。
この事件、少なくとも木内正久の自殺はそのような流れがあったのではないかと、宮川は結論づける。
そうなれば、話は更に凄惨かつ恐ろしい推測にたどり着くことができる。
犯人は意図的に、拷問を加えて被害者を生きながらえさせるための処置を続けていた可能性がある。
木内の死体検案書には、それを示唆する内容の痕跡がいたるところに見受けられたのだ。
「本来、手首を切り取られた人間がそのまま放置されば確実に失血死する。それだけじゃない。短い時間で過度な痛みが加えられれば、精神的なショックを引き起こしかねない。だがもし、徹底的に調べられたうえでギリギリ、死には至らない程度の苦痛を与え続けられば?」
「……これはすべて、計算の上でされたことだっていうのか?」
「あくまでも仮説、考えられるものの一つでしかない。だが少なくとも、木内が自殺によって死んだということに説明をつけるには、そう考えたほうがいい。木内と森嶋が、犯人によって拷問じみた犯行を加えられていたとするなら、たまたま生き残ったという可能性のほうが、希望的観測かもしれない」
一連の話を聞き終わった大江は、青ざめた表情を浮かべている。
無理もないだろう。大江もまた、警察という人の生死に関わる機関で研鑽を積んだプロフェッショナルである。人を殺す過程も、生かす過程も知りすぎている。
だからこそ、宮川の話の悍ましさに総毛立つのだ。
指先、手首、それらを切り落とされるだけでも信じがたい苦痛が伴う。神経の交錯する指先は痛みも激しく出血も多い。
更に自分のよく使うパーツが欠損するということは、視覚的にも感覚的にも大きな精神的負担を伴うだろう。
痛みや出血というだけの話じゃない。強烈な激痛に、今までそこにあったものがなくなる恐怖。これを体験した可能性のある森嶋と木内はどんな感情を持って生存したのだろうか。
大江だけではない。その可能性を考えた宮川ですら、その狂気的とも言える犯行に対して無自覚の慄きを抱いていた。
これを実行するためには、膨大な医学に対しての知識が大前提になる。
実際に考えだした内容の施術を実行するための医療的な設備に加え、被害者のすさまじい絶叫に耐える精神が必要不可欠。その状況で、指や手首を切り落とす技術がなせる技だった。
「犯人は、何がしたいんだ?」
大江の呟きに、宮川も同じ疑問に達したことを理解する。
並大抵の人物が実行できるものでもないし、そもそもこんなことをどんな目的で実行したのか。
しかし宮川は、目的に対して一つ、考えていたことがあった。
「……更生、と考えるとどうだ?」
「なんだって?」
「いわゆる私刑行為、それも裁くことが目的じゃない。相手の更生させることが目的だと考えるなら、木内の行動はそれに合致している」
「夜回り先生の過激版ってことか? それにしたって、どうしてそんなことを……」
「自分の行動に絶対的な自信があり、かつ法律に対して否定的な人間、なんて人物像が先に浮かぶな」
「だとしても、まともな奴じゃない。許されるはずもないだろう!?」
「だがそれが、まるで息をするような善意に満ちたものだったとすれば? この犯行の現実味は少なからず出てくるだろうな」
宮川が事件について調べれば調べるほどに抱いていた違和感。それは「犯人の悪意が極めて薄い」ということだった。
警視庁前に欠損した人の手首を置くという行為。部分的にあえて残されているかのような手がかり。
犯行から本来、滲み出る「自分が悪いことをしたからそれを隠したい」という感覚が、この犯人からは感じられない。
それはなぜか。そのようなパターンを宮川は過去の経験から既に体験している。
犯人が「自分は悪いことをしていない。世の中のためにこれをしているんだ」と思い込んでいるパターンだ。
いわば暴走した正義といったところだろうか。
自分の中で信奉する正義というものがあって、それに習って行動するような犯人像。
勿論、現状で犯人のことを推測するのはただの妄想であり、捜査に悪影響しか及ぼさないだろう。
けれども宮川は危険視していた。
自分が警察という組織で見てきたあらゆる経験が、犯人の思想に感化されてしまう可能性があることに。
もし、自分自身が心の奥底で「犯人と同じような更生の考え方」を持っていた場合のなら?
きっと自分は靡いてしまうだろう。
相手がやった行動を、本来であれば咎め、拘束しなくてはならない犯人を、「アンタのやったことは正しい」と言ってしまいそうになる。
それに気がついた瞬間、宮川の心臓の音が早鐘を鳴らした。
意識することができないほどの鈍い音。脈動が筋肉に乗り指先に伝わる感覚が、酷く不愉快だった。
なんとなくでも、今この瞬間、宮川は確実に「犯人がやっていることは間違っているのだろうか」と考えてしまっている。
宮川は木内の犯行を調べていく過程で、木内の犯行の被害者である長根亜希子の母親と関わった。彼女の言葉の節々が鮮明に蘇ってくる。腹の底にある怒りと憎しみ、それを上回るほどの喪失感。
遺族が抱え、求めているものを的確に理解しているかのような振る舞いに、この犯人は恐らく誰よりも寄り添っていると理解できるからこそ、宮川は自分自身を危険視していた。
数多の逡巡に宮川の表情は固定化された。
その凝縮された数秒を見ていた大江は、「お前、すごい顔しているぞ」と表情の険しさを指摘する。
なんとなく、指摘されるまでもなく宮川は自らの表情が恐ろしげになっていることを自嘲した。
「あぁ。この手の事件は、デカほど乱される」
「そうだろうな。だが見誤るなよ。デカにできることはあくまで、ホシを挙げることだけだろう? 審判はテミス像の仕事だ」
「まさにその通り。けれど個人的な見解を話すなら、デカはそれぞれ、自分の法ってのがあるんだよ。だからそういうものに感化されちまうことだってある。いい話じゃないがな」
宮川は、大江に向けた言葉と繕いながら、それを自らに語っていることに気付かされる。
この事件の行く末がどうなろうが、乱されるのは危険極まりない。
再度宮川は事件に対しての心持ちを腹に決めて、デスク周りの資料をカバンに詰め込んで帰り支度を始める。
それを見ていた大江は、鳩が豆鉄砲を食らったような表情で「帰るのか?」と訝しむ。
「勿論、定時は過ぎているからな」