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第10話


 長根亜希子の命が奪われた彼女の生家は、未だ変わらぬ場所にあるのだという。そこに向かって宮川は車を走らせていた。

 あえて、事前音連絡はしていない。電話での連絡などをすれば、相手に余計な警戒心を抱かせてしまうからだ。


 相手は事件によって家族を失っている。

 その傷は何年前であろうが、変わりなく遺族の心を蝕んでいる。

 ましてや今回のケースでは、犯人から遺族側に連絡があった可能性があるのだ。


 宮川は出来るだけの考えを巡らせて、どのようにコンタクトを取れば、相手に負担をかけないかを無意識で模索していた。

 そんな中で導き出された方法が、「事前連絡をなしに、短い時間で済ませる」ということである。

 最低限必要な情報のみを相手に伝えて、話を聞く。

 実際はそれだけでも負担は大きいであろう。それでも遺族は確実に、この事件に対して耳を傾けると宮川は確信していた。


 これは、あくまでも勘である。


 これまで見てきた沢山の被害者遺族から導き出された直感が、宮川を動かしていた。

 しかし、被害者遺族からの話を聞くことは、聞く側も苦しいものがある。

 自分の中の古傷に塩が広がるようなあの感覚は、いまだに慣れないものがあった。

 当然ながら、被害者遺族が感じている負の感情はそれの比ではない。

 刑事として話を聞く以上、それらを含めて、相手のことを受け止めなければならないのだ。


 宮川に緊張の色が混じるとともに、車は長根宅の前に停車させた。

 カーポートには車が一台停車しており、住人の在宅を主張している。

 車を長根宅の前に停めた宮川は、インターホンを鳴らして警察手帳を手の中に忍ばせる。

 機械を通して聞こえてきた声は女性のもので、「はーい」と明るい声であった。

 一瞬意外にも感じたが、あの事件からはもう年数が経過している。

 常に陰鬱さが漂っているわけではないし、「来客時くらいは明るく努めよう」という意思が反映されているように、快活だった。


 けれどそれは宮川が、「警察のもの」だと名乗った時点で翻る。インターホンからでも理解できるほど態度が急変した。最初に相手が感じたことは「混乱」であろう。

 そこから折り合いをつけるように「少々お待ちください」という言葉を最後に、機械越しの気配は途絶した。


 しばしの沈黙。

 宮川にとってその時間が妙に長く感じたのは、自らの緊張度合いをそのまま示している。

 じんわりと手のひらが汗ばむと同時に、扉は開け放たれる。

 そこには生活感のある佇まいをした中年の女性が立っていた。

 声色からは察する事ができなかったが、やはりというか、穏やかな様子を見せつつも、何処かやつれた印象がある。


 宮川と目が合うと、長根亜希子の母親である道江は深々と頭を下げる。

 その態度一つで、彼女が警察に対してどんな感情を持っているのか理解することができた。

 幸い、マイナスな感情ではなく、むしろ少々の感謝が滲み出ていた。

 一方でやはり、混乱は常に感じている雰囲気である。

 そんな気持ちを覆い隠すように、「警察の方がこんなところに、どうされました?」と丁寧な態度で応対される。


「実は、木内正久のことで、お尋ねしたいことがあります」


 宮川はどのように尋ねていいか悩んだものの、取り繕う話でもないため、ストレートに木内正久のことについてであることを宣言する。

 すると道江の表情は静かながら、かすかな怒気が生まれた。

 全く持って変わらない表情から迸るオーラは、殺気にも似た形相を浮かべているようだった。

 そのオーラが宮川にまで向けられている感覚すらもある。

 そんな雰囲気とは対照的に、宮川はあくまでも冷静であることに努めて話を進める。


「木内が遺体で発見されました。今のところ、どのような経緯で死に至ったかは分かりませんが、死ぬ直前、長根さんと連絡を取っていたと調べがついております。それでお話を伺いたく、参りました」


 宮川は一つ一つ、言葉を丁寧に振り絞った。

 やや言葉を区切りすぎたかもしれないと感じながらも、視線は道江へと向け続けその態度を探る。


 一方の道江は、その言葉を聞いても表情一つ変えていない。

 まるで、木内の死を知っているかのように。

 再び嫌な沈黙が流れる。

 とはいえその沈黙は十数秒となかっただろう。

 ようやく口火を切った道江は、自らの体を玄関の脇に置き、「どうぞお入りください」とリビングルームへ案内する。

 玄関をすり抜けてリビングルームに至るまでの間、道江は「あの子に、手でも合わせてあげてもらえませんか?」と尋ね、宮川はこれに肯定することしかできなかった。


 リビングルームは非常に簡素な雰囲気である。

 勿論生活感はあるのだが、何処か手つかずのままだ。あらゆるものが時を止めたように、静かである。

 そんなリビングルームの一角にて、如実に人の手が入っていることの分かる場所がある。

 それは仏壇だった。長根亜希子と思しき女性の写真が飾られており、ほんのりと線香の煙が立ち上る。

 その前には座布団が敷かれており、中央部分には大きな凹みが見受けられる。

 道江は自宅にいるほとんどの時間を、仏壇の前で過ごしているのだろう。アロマのように染み付いた線香の香りは、常にそれが仏壇の前で煌々と灯っていることを示唆している。

 その僅かな画角だけで、宮川は腹の底から怒りの渦が逆巻き始めた。


 宮川も同じように、座布団へ膝をおろし、丁寧な所作で線香を炊く。

 それまでよりも一層強い線香の香りが静かに香り始めた。

 目を閉じて手を合わせてみると、瞬く間に時が静止するようだった。


 一体どれくらいの祈りを注げば、ここで途絶えた命は救われるのだろうか。

 このように死者へ祈りを込める時、宮川は決まって過去の出来事が逡巡する。

 自分の携わってきた事件はどれ一つとして、薄れることなく、その死を明瞭に伝えていた。


 宮川が目を開くと同時に、道江は隣りに座って仏壇の亜希子の写真を手に取っていた。

 宮川はそれに気づく事ができず、小さく会釈をすることしかできない。一方の道江は「ありがとうございます」と宮川へ呟く。


「……恥ずかしい話なんですが、この子が小さい時は、家庭に余裕がなくて、なかなか旅行なんて行けなかったんですよ。だからあの時、事件が起きたあの日は、大学に進学したあの子を労おうとして、旅行を考えたんです。でも、大学生なんてもう大人でしょう? だから、あの子は自分の時間が欲しいって、旅行には行かないって言ったんです」


 道江は、淡々とした口調でそう続ける。

 その間に割り込んだ話をするなど、無粋の極みであり、宮川はただひたすらに耳を傾けた。


「サプライズみたいなことがしたくて、旅行のお金は払ったうえで、あの子に伝えたんです。だからもう、ものすごい喧嘩になってしまってね。今になって思えば、私も子離れできていなかったのかななんて思うんですよ。あんまり、親としてあの子にしてあげられなかったっていうのが、あったのかもしれません。そういうのもあって、まぁ、揉めはしたんですが、娘の枠は、特別だってことで取り消してもらえたので、娘も気負いせずに留守番をすることになったんです」

「それで、御夫婦で旅行に?」

「えぇ。旅行のときには、メールで連絡し合うくらいには仲直りできてました。せめて、お土産はと思って、なにかにつけて。そしたらあの子、気にせずに楽しんできてなんて寄越したんですよ。だから、それから、メールはしませんでした。あの子が好きなお菓子とか、そんなものにしようと思ったんです」


 宮川は話を聞いてる身でありながら、胸が張り裂けそうになる。

 それでもなお、道江は淡々と状況を語らうのみであり、表情一つ変えることはなかった。


「事件のことを知った時は、不思議と悲しいとか、怒るとかよりも、信じられないって気持ちのほうが強かったんですよ。まさか、亜希子に限ってそんなこと、って。だって、昨日まで元気だったんだから、大丈夫って。それは、あの子の葬儀が終わって、小さくなったあの子を抱いても続きました。それから少しして、日常が戻ってきた時なんです。あぁ、あの子、逝っちゃったんだ、って」

「……えぇ」

「なんでしょうね。ふとした時に、前の生活が浮かんじゃうんですよ。今日のご飯はなににししようかとかって時に、無意識で。せっかく作るんだから、亜希子が食べたいものでも、って。変でしょう? あの子、もういないのにね」


 道江はそう語りながら、瞳に涙を溜めていた。

 言葉だけでも、その感情の渦は推し量ることができるというのに、かすかに揺れる彼女の声音と、時々混ざる日常的な声が未だ混乱を想起させ、宮川は苦しみで言葉に詰まってしまう。

 そんな宮川に気を遣って道江は、息を呑んで「ごめんなさい、こんな話するんじゃありませんでしたよね」と力を込めて言い放つ。

 あえて大きく息を吸ったのは、彼女自身、自分の声が震えていることを自覚していたからであろう。

 いじらしさすら感じる道江の所作に、宮川は苦々しく受け入れる。

 それでも、宮川はこの後、木内のことを聞かねばならない。覚悟を腹に決めなければ、言葉の先が続かないことはよく理解していた。

 前を向こうとしている彼女に対して、自分の聞こうとしている話は枷になる。宮川は話の中でそう直感してしまったからだ。


「ご配慮恐縮です。お話し辛いことと存じますが、木内からの電話での連絡があったことなど、覚えていらっしゃいますか?」

「……えぇ。覚えています。あの男が突然、事件のことで謝りたいなんて、世迷言を言ってきたんですから」


 話が翻ると、道江の表情は途端に険しさを帯びる。

 その眼差しは今まで語っていた日常とは打って変わって、鬼の形相だった。

 それを見た宮川は、これまで対面してきた被害者遺族と加害者が対面したときのことを思い出す。


 人間が持つ感情の中でも最も激しく、事件がなければ決して生じることのなかった感情。

 それがこの表情だ。

 怒りと憎しみが綯い交ぜになった修羅が如き顔。恐らくは、道江が木内と対峙した時にも、この表情を向けていたことだろう。

 宮川の頭の中には漠然と、法定での道江の姿と、証言台に立っている木内の姿が頭に浮かぶ。

 もちろん、それは見たこともないまやかしの記憶である。

 にも関わらず、その光景はありありと頭の中に浮かび、同じ感情が向けられたことは想像に難くない。


 しかし同時に、宮川には道江の態度以上に不可解に思えた。

 それは「木内が謝罪を目的に連絡を取った」ということである。

 道江の態度を見て確信した。やはり犯人である木内は、自分が思った通りの人物像であったはず。

 にも関わらず、木内は被害者遺族へ連絡を取った。これは思った通り気味の悪い引っ掛かりである。

 それを裏付けるためにも、宮川は「木内という男はどのような人間ですか?」と道江に尋ねた。

 それを聞いた道江は、憎しみの色彩を警告色のように紅潮させて続けた。


「刑事さん、私はあの男のことについては、よく分かりません。正直、どんな人間であっても、どんなことを思っていても、もうどうでもいいんです。正直、自分自身どう思っているのか、分からない」


 道江の言葉には節々に「怒り」と「混乱」が発露しているようだった。

 その態度に宮川は自分の質問が悪かったことを自覚し、「木内はどうして貴方に連絡を?」とよりハッキリとした聞き方へ変える。

 すると道江は、これまでの流れを振り返るように続ける。


「……最初に連絡を寄越したのは、あの男の刑期が終わった後だった気がします。刑期、八年ですよ? 私、聞いた時には呆れてしまって。どうしてあんな事をした人間をたった八年……ずっとそう思っていました。それで、刑期が終わって連絡をよこした時、あの男は謝りたいなんて言って、何度も何度も連絡を寄越しました」

「尤もな対応かと、思われますが……それで、あの男と、あったんですか?」

「最終的に私が折れる形になって、なんていうんですかね、刑が終わった人のことを支援するような人と一緒にお会いしました」


 恐らく道江と木内が会った時にいた者は保護司であろう。

 保護観察官という可能性もあるかもしれないが、それであれば事前の段階で被害者遺族と会うことについて警告していてもおかしくない。

 もしその保護司の身元がわかればと、宮川はメモ帳にその時の情報を細々と記載していく。

 一方の道江の話しは更につらつらと続き、声の揺らぎは大きくなるようだった。


「あの男は、なんだか色々なことを言って、謝罪のようなことをしましたよ。頭を床にこすりつけて、土下座まで。私も彼が、少なからず反省の色があるのかもしれないなんて思うくらいだったんですが……」

「というと?」

「いえ、多分、本当に反省していたと思うんです。それで、私思ったんですよ。娘を失った私が……この男に望むことってなんだろうって。ほら、遺族の人って言うじゃないですか。極刑を、とか、犯人の更生を願って、とか。でも私、土下座をするあの男を見て、わからなくなったんです」


 宮川はそこで、道江の姿に今まで見てきたたくさんの遺族の姿が重なった。

 彼女のように、犯人に対して「何をしてほしいのか」というものが揺らいでしまうことは、ままあることだ。


 宮川が印象的なのは、とある無差別殺傷事件の時に、最愛の息子を失って、犯人が極刑に処されたときの被害者遺族の反応である。

 その事件は社会的な影響の強さから、一年と待たずに死刑が執行され、そのことで話を聞いた事がある。

 家族を失い、地獄のような苦しみを背負う遺族はその殆どが「犯人に極刑を望む」ことになる。

 しかし、すべてが終わった遺族らは、道江と同じような反応をすることがあった。

 犯人が死刑に処され、形ばかりの日常が戻ってきたとしても、そこに大切な家族の姿はない。

 死刑になる前は「その日が来れば何かが変わるかもしれない」と思っていたという。何も変わらなくても心の区切りとして、なにかが変わると。


 けれども家族は、区切られることもなくただただ、大切な人が欠けた日常に取り残されるのだと話していた。

 もはや、その時点で家族は「犯人」がどうなろうがどうでも良いのだ。更生しようが、何処かで無残な死を迎えようが、どうでも良いかもしれない。

 必要なのは「家族を返してほしい」というものだけである。

 根源的な要求はそこにしかなく、それ以外で贖うことなど本来はできない。できないことを遺族が一番、理解しているからこそ、道江のように「混乱」するのだ。


 道江はこの場で、木内に何度も何度も、謝られたのだ。

 事件のことに対して、責め苦を全うするが如く。

 そんな姿が道江の中での木内のイメージと乖離したのだろう。

 道江はすっかり分からなくなったのかもしれない。自分が、娘を奪ったこの男に、何を求めているのかということを。

 そんな混乱で満ち溢れた状況ながら、道江は冷静に自らの感情を分析して、木内のことについて人間性を弄った。


「私もまだ混乱しているんでしょうね。亜希子のこと、いなくなって初めて、人間ってその大切さに気づくんだと思います。だから、もう、静かにしてほしいっていう気持ちなのかもしれなません」

「胸中お察しします……」

「あぁ。ごめんなさい、また話が横道に逸れてしまいましたね。木内の、彼のことですね?」

「……えぇ。ここに謝罪に来た時と、それまでの彼とでは、なにか変わった事はありませんでしたか?」


 道江は顎に手をおいて記憶を捲るように考え込み、「違ったところね……」と呟きながらしばし沈黙する。

 その後手を叩くように「考えてみると」と口火を切る。


「……公判でのあの男の態度と、ここに来たときの態度は、全く違うように感じました。というか、あの男自体、逮捕された時はなんとなくふてぶてしい態度を取っていたそうです。裁判の最中は、弁護士の意見を取り込んでそのような態度をしないようにしていたと聞いたことがあります。だから、ここに来るのもなにかのパフォーマンスだと思いました。でもそんな雰囲気じゃなかったような気がします」

「嘘をついているようには見えなかった、と?」

「あくまでも私個人の考え、というか感覚なのでハッキリとした事は言えないんですが、そう感じました」


 同じだ。森嶋悠人のときと気味が悪いほど、似た変化。


 宮川の予想の通り、木内も元々人間の善性など感じさせる人間ではなく、どちらかというと悪人という人間性をしていたことは当たっているのだろう。

 問題はその後、木内もまた何かしら行方不明に遭って、その時に手首を切り落とされた。

 それをきっかけに、被害者への謝罪の念や善性が生じたことになる。それがあったからこそ、怒りの筵である長根宅を訪ね、土下座までして頭を下げた。

 人間性の変化がなければ、到底実現しないことだ。

 その時点で、木内には明確な変化が生じていたと見て間違いない。

 宮川は最後の確認をするように、木内の身体について問いかける。


「……木内は、怪我をしていませんでしたか?」

「えぇ、なんだか全身ボロボロって雰囲気でしたね。特に腕なんて、骨折したみたいに首から下げるようにしていました」

「彼に何があったのか、なんてその時話してませんでしたよね?」

「流石にそこまでは……でも、一緒にいた男の人も、すごく謝ってくれました。真剣に反省しているからって……」

「その男の人、お名前とか名刺とかは?」

「ごめんなさい、そこまでは忘れていて……清楚な感じの男性って言うイメージの方でして、初老くらいの」

「そうですか。その方のお名前なんか、覚えてませんよね?」

「なんだったかな……ごめんなさい、全然思い出せなくて。でも名乗ってはいたんですよ。えっと……なんだったかな」


 道江は繰り返しそのように続けているため、宮川は自らの名刺を置いて「もし思い出すようなことがあれば、こちらに連絡をお願いします」と最後の挨拶へ結ぶ。

 宮川の慶弔と丁寧な態度が功を奏したのか、道江はこれだけたくさんの話をしてくれたにも関わらず、立ち上がって静かに頭を下げた。


「この度は刑事さん相手に、変なことをお話して申し訳ございませんでした」

「いえ、こちらも急に押しかけて、貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。ご迷惑かと思いますが、なにか気づかれるようなことがありましたら、ぜひご連絡をお願いします」


 宮川も習って頭を下げると、道江は最後まで気を遣った風を崩さず、「何かありましたら」と玄関先まで頭を下げる。

 その表情は、インターホン越しに聞こえてきた快活な雰囲気と合致するものであり、非常に穏やかなそれだった。

 道江の語った話は残酷極まりない話であるが、それでもこの家族は少しずつ先に進んでいると思わせられる。

 宮川はそんな薄氷のような救済を感じて、車を発車させた。


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