高橋製鉄所で宮川が受け取った、「森嶋悠人の履歴書」には、詳細な個人情報が載っていた。
住所を見れば都内ながら十分郊外と呼べるような場所にあり、高橋製鉄所からもほど近い場所に位置した「さつき荘」というアパートの一階に生活していたという。
そこは保護司である清島から聞いていた場所とは全く違う物件だった。
宮川は早速その「さつき荘」なるアパートの大家を訪ねたが、森嶋は高橋製鉄所の退職と同時期に自宅を引き払っていたらしい。
不幸中の幸いと言うべきか、彼の暮らしていたという、一〇一号室はまだ入居者がいないという。宮川は大家の心遣いによって、その中を見せてもらうことができた。
森嶋が住んでいたというアパートの一室は、最低限の一人暮らしをするためには十分の広さだけを持ったワンルームだった。
八畳間程度のワンルーム、収納と表現するには心細い押入れ。まるで少し前の元号を彷彿とさせるレトロな雰囲気がいまだ漂っている。
「森嶋さんは、他の入居者と関わりはありましたか?」
宮川は一緒に部屋へ入ってきている大家に対して、森嶋の身辺について尋ねた。
大家は「そうだねぇ」と言いながら、上がり框に座り込んでサンダルを脱ぎ、少しだけ曲がった腰をかばって立ち上がる。
「あんな見た目だったからか、そりゃ他の人との関わりなんてなかったかもしれない」
「かもしれない、ということは部屋に誰か訪ねてくることでも?」
宮川の言葉尻を捉えるような発言に、大家は顔をかすかに顰めた。
だがその態度ははっきりと表面化されることなく、「関係は知らないけどね」と前置きをしたうえで答える。
「人はたまに訪ねてくることはあったね。アンタくらいの年の頃の、男……じゃないかな。正直、儂も顔をまじまじと見たことはないが、妙に気立ての良い雰囲気の男だった気がする」
宮川はそこで顎に手をおいた。
気立ての良い、初老の男がここを訪ねていたというのは、すんなりと頭のなかで糸が結ばれない感覚がある。
森嶋は前科者であるが、保護観察などはついていなかったはずだ。
彼の家族も既に勘当を言い渡している状態でもあり、そんな森嶋を訪ねてくる人間像として、「気立の良い初老以上の年齢の男」という情報は何処か噛み合わないように思えた。
「その男は、森嶋さんに何を?」
「だーかーら、儂にゃわからん。そもそもここの住人だって全員覚えているわけじゃないんだ。それに、儂ができるのは、この部屋を見せることくらいだよ」
大家の妙な態度の急転に、宮川は「はぁ」と下手に出ながらも、大家の態度について静かに観察することとした。
すると、大家は「何処行っちまったんかね」と小さくつぶやく。
その態度は、これまで宮川が得ていた「森嶋悠人」の人間像とは乖離するように思え、宮川はそのことをストレートにぶつける。
「森嶋さんは、どんな人物でした?」
「……乱暴モンって感じだったけど、なんだかここを出ていくことが決まったときには、随分と変わっちまったね」
「変わったとは、良い方にですか? それとも、悪い方ですか?」
「前者だねぇ。粗暴なヤツが急に、好青年ってほどではないが、親切なヤツに変わったよ。儂が荷物に喘いでるとさ、すすんで手伝ってくれたこともあったね。最初はまぁ、ろくでもないやつさと思ったけど、人は変わるもんだよ」
「……森嶋さんは、なにがきっかけでそのような変化が?」
「儂に聞かれたってわからんさ。でも、良い話じゃないってことは分かるよ。あの子の目は、ひどく怯えていた。そんなに会うてない儂にも、怯えているように見えたねぇ」
大家はそこで急に押し黙って、ひたひたと部屋の中を一瞥する。
「なぁ刑事さんよ、あの子を見つけたら、一度くらい顔を見せるよう、伝えてもらえんか」
「え?」
「……あんやつを見てると、自分のドラ息子を見てるみてぇでね。ろくなことをしなかった馬鹿だが、そんなものでも自分の息子なんだ。馬鹿みたいに庇ってさ、それでも何度も何度も、馬鹿やられたよ。挙げ句、組のおっかねぇ奴とトラブって、どっかいっちまった」
「……息子さんは、ご存命で?」
宮川は自分の聞いていることがどれほど失礼なものかを理解していたが、聞かずにはいられなかった。
大家の細い瞳から覗く眼差しは、いつかの倅に向けられているものだと、宮川は勝手に推察する。
その眼差しは、「親が子に向ける慈悲」であることを、宮川はよく知っていた。
この感情は、殺伐とした被害者と加害者という関係に限らず、どの親子関係でも一定の信頼関係があれば向けられるものである。
例えば、被害者遺族は死者へ、「悲しみ」の感情をまとった愛を向けている。
そこには困惑と嘆きの他に、「今も愛している」という感情が下地にある。
加害者家族もまた同じだった。
愛情の下地にあるものは、罪を犯してしまった家族に対しての怒りや憎しみ、捨てきれぬ愛情。
そんな複雑なものがまぜこぜになったまま、先にも後にも進むことができない眼差しを、宮川は嫌と言うほど知っている。
この大家のことを、宮川はなにも知らない。
だが、大家が森嶋悠人へ向けていた眼差しはきっと、「道を外れた息子へのもの」と、よく似ているものだったのだろう。
自分がお腹を痛めて生んだ子どもだから、本人以上に罪の重さを感じるのだ。
生まれた時を知り、そこから大人になるまでの道すがらを理解しているからこそ、「どうして?」という疑問符で視界が埋め尽くされる。
それでも、親は子どもに「生きていてほしい」と願い続ける。
子が歩んだ道がどれだけ人から外れ、暗澹としたものであっても、親はそう願わずにはいられないのだ。
そんな複雑な感情が、大家の眼差しには込められているように感じた。
当然、数多の感情のすべてを語り、受け取ることなど人間にはできない。
だから大家は、宮川の質問に対して「さぁね」と短く返した。
一切合切、あらゆる感情を覆い隠すように。
そんな大家の思いがけない感傷を肌で感じながら、宮川は大家へ深々と頭を下げる。
「もし、森嶋さんが見つかったときには、必ず伝えますよ」
「あぁ、この老いぼれが生きている間に、見つかってくれればいいんだがね。もの好きの刑事さんは、これくらいでいいかい?」
「えぇ。しっかりとご自宅を拝見させていただきましたので。大家さんも、ありがとうございます」
宮川の丁寧な対応に、大家は鼻で笑いながら「桜田門はいつから、マナー講師でも雇ったんか」と言いながら、部屋の鍵を回した。
アパートの外に出た宮川は、ちょうど良いタイミングで帰宅したと思しき森嶋の隣の住人へ声をかける。
こちらも高橋製鉄所で働いている面々と、どっこいに思える不良青年といった身なりだ。ダボダボの服に両手を突っ込み、訝しげな態度である。
声をかけた不良青年は、いかにも不快といった調子で宮川を一瞥する。しかしその後に見せられた警察手帳を見て、更にその表情を歪めた。
「サツがなんのようだよ」
「そう邪険にせずに。別に君のことを取って食おうとしているわけじゃないさ。隣の部屋の住人のことを調べている。知っていることがあれば聞きたいだけだ」
宮川は不良青年と言わんばかりの態度に、フランクながら優位を取る空気感で隣の部屋を指さす。
すると不良青年は、隣の部屋を一瞥することなく、「あの前科持ちか」と思い出すように話し出した。
「一〇一号室の人物について、知っていることについて教えてほしい」
「……俺はあまり関わりを持ったことがないが、そんなんでもいいのか?」
青年は冷静な面持ちでそう問い返してくる。意外なその態度に宮川も驚くが、恐らく彼も同じように何かしらの前科がある人間なのだろう。
だからこそ、警察という組織がこの世界でどれほどの権力と拘束力を持っているのかを嫌というほど知っているらしい。
嫌な記憶がありながら、こんなところでそれに対して突っぱねるほど子どもでもないと言わんばかりに、青年は冷静だった。
「少しでも情報がほしい。少し前のここを引っ越したはずだが、何処に行ったか、心当たりは?」
「アンタは、隣人が何処に引っ越したか聞くくらい親しいのか? そもそも隣のやつがいついなくなったかなんて、見当もつかねぇよ。大体、どうしてそんなヤツのことを調べてるんだ?」
「手前勝手で悪いが、具体的に何があったのかは言えない。情報があれば聞くし、ないなら他を当たるだけだ」
「別に構いやしねぇが、隣のやつを探すんだったら、俺のダチも一緒に探してくれねぇか? ちょいと前から行方知れずでね。まぁ俺と同じように何かしらバカやってるようなヤツだ」
宮川は青年の言葉を一蹴しようとするが、「ちょいと前から行方知れず」という言葉を聞いて、僅かな間思考する。
青年の言う行方知れずの人物と、森嶋は関係がないかもしれない。
だが、「前科者もしくはその可能性がある人間が行方不明になった」という事実は、確かに今回の事件に類似している気がする。
引っ掛かりは、ほとんど宮川の勘でしかない。けれど別に聞いて困る話しでもないとし、青年に対して「話しだけなら」と問い返す。
すると青年は、待ってましたと言わんばかりに「木内ってやつなんだが、二年ぐらい前にちょっと変な目に遭ってね」と話し出す。
そこまで聞いて宮川は、森嶋もまた「去年頃に二週間ほど行方不明の時期があり、その後退職した」ということを逡巡する。
それが起点となり、宮川は青年へ「少しの間姿を消して、また戻ってきたのか?」と問いただす。
青年は宮川の話を聞くやいなや「なんで知ってるんだよ」と訝しげな表情を向けつつ、その言葉を肯定する。
「あぁ……二年くらい前に、その木内ってやつが、急に連絡がつかなくなったことがあった。それからすぐに帰ってきたんだが、ひどい怪我をしていたよ。何が遭ったか問いただしてもなんも喋んなくて、挙げ句誰にも何も言わずに、消えちまった」
話を聞いて宮川は確信する。
森嶋と、青年のいう木内という人物は、恐らく同じ目に遭った。
突然姿をくらませて、また突然、日常に戻ってくる。だが、確実にそれは被疑者の日常を蝕んでいた。
だから森嶋も木内も、今まで付き合っていたあらゆる人間関係を断ち切って、何処かへと放浪に至ったのかもしれない。
宮川はとんでもない偶然に対して、強烈な違和感に苛まれる。
奇妙に発見された人の手首。
その持ち主を追っていく先々で、似たような経験を持つ人間と邂逅する。
まるで示されたレールの上を歩いているような不可解さ。当然今はそれに従うことしかできないのだが、何処か作為的な意図を感じないわけではない。
直感に差し込まれた違和感に対して、宮川は頭の片隅に留めたうえで、青年に詳しい事情を訪ねていく。
「その木内ってのは、何をしたんだ?」
「殺しだったはずだ。でも結構若い時に事件を起こしたらしくて、武勇伝みたいに語ってたよ。事あるごとに、俺は人を殺したことがあるってな」
「……君はそれを聞いてなんとも?」
「不愉快ではあるが、まぁ、木内もそこまで恵まれた人間じゃなかったからな。なんつーか、同族って感じがして、のらりくらりってな調子。あぁそうだ、金がなくて銀行強盗でもやったんじゃなかったかな。それで、たまたま殺しをやっちまったって話」
宮川はその耳障りの悪い不快な出来事に対して、深々とため息を付きながらも、自らのメモ書きにしたためていく。
木内、恐らく青年と同じ程度の齢で出所している時点で、触法少年である可能性が高い。
ふと、それが森嶋と妙に近しい環境であると感じさせる。
森嶋もまた、あまり恵まれない家庭環境のなかで歪みが生じて、結果的に人を死に至らしめた。
その犯行には「殺意」というよりも、「事故的」に人命を奪うに至ってしまった。
完全に同じとは言えない。一方で、何処かこの二人は似ている気がする。
それに加えて、「姿を消した後で人格が変わる」という不可解な出来事に巻き込まれている事も含めて、ただの偶然では片付けられない。
ここまできて漸く、宮川は「深堀りしてみる価値があるのではないか」と感じ始めていた。
「それで、木内という男と最後に会ったのは?」
「俺んちだよ。ここね。お前には最後に挨拶をって言ってきて、貸してた金とか、部屋を整理したから渡したいものがあるとかで、ここに来たのが最後」
「……渡したいものっていうのは?」
「カメラだよ。デジカメだったかな。もう使わないからって。でもこの時代だぜ? スマホがあるから殆ど使ってないんだけどさ」
「それって、少し見せてもらうことは?」
青年は宮川の言葉に応じて、すぐに自宅の中へ入って、「木内が最後に持ってきた」というデジカメを差し出した。
なんてことはない、型落ちしたデジカメである。メモリーカードは入っておらず、電源をいれると、当然のように充電が切れていた。
幸い充電端子は、今でも使われている一般的なものだったため、すぐに電源を供給して電源をいれることができた。
内部を見てみると、雀の涙程度の内部ストレージに、何枚か写真が保存されているようである。
「中を見たことは?」
「あるけど、なんだか変なもんばっかりだぞ?」
「確認しても?」
「ここまで来て駄目なんて言うわけがないだろ」
青年の言葉が言い終わるよりも前に、宮川は写真のデータをデジカメのディスプレイに映し出す。
そこには何処かの森を写したような写真が数枚映し出される。
見る限りはただの森の写真だが、宮川が気になったのはその独特な画角だった。
普通、森をカメラで撮影するときは、色々なものを一枚の画角に収めようとするため、引きの画角で撮影しようとするものだ。
にも関わらず、この写真は、木々に対して異常に寄った構成のものが殆どを占めており、特に木々の枝が中心に捉えられている。
こんなものを写真に残しているというのは、一体どういうことなのだろうか。
それに内部ストレージに数枚だけ残っているというのも気にかかる。まるで、今の宮川のように、将来的になにかが起こって、調べた際にギリギリ発見することができるような手がかり。
宮川は先程から自らの頭にぼんやりと浮かんでいる、「レール」という感覚を掴む。
同時に、警視庁に手首が置かれたときのことも思い出されていた。
あのときも、まるで想定された道筋をたどるように、「手首を届けることを仕組んだ人間」の存在が明かされた。
宮川の思考を読み取り、絶妙なタイミングで手がかりへとたどり着く。まさに犯人が敷いた「レール」の上をひたひたと歩かされているようだった。
青年が持っていた、行方不明の木内から譲られたデジカメなどまさにその類であろう。
それだけを切り取って考えれば、真相にたどり着くために雑に配置された伏線のような、現実離れした違和感が生じる。
現実の捜査というものは、一本の線で結ばれていないことのほうが遥かに多い。
もしかしたら事件に関わっているかもしれない。そんな曖昧な手がかりを探し、誰一人として有効な証言を持っていないことを繰り返す。
それでも捜査を続けていくうちに、新しい証言が出てきて、思わぬところで点と点が結ばれる。
捜査はまさに、奇跡的な噛み合いによってもたらされる答えの道筋なのだ。
にも関わらずこの状況は、あらかじめ敷かれたレールの上のように、一本筋が通り過ぎている。
宮川はこの違和感から、「犯人の思惑」がわからなくなってくる。
事件のことを多くの人間に知ってもらいたいが、自分が犯している犯罪的な行動に対しても理解できている。
それでも、宮川のように事件の捜査をするものへ、薄氷のような手がかりを残し続けている。滴り落ちる血液を、あえて見た目だけわからないよう、タオルで拭うように。
もし仮に、宮川が考えている人間像が犯人であるのであれば、相手は相当な策士であり、頭の切れる人間だ。
ここまでの捜査状況についてある程度の当たりをつける事ができるのだから。
それと同時に宮川は、敷かれたレールをあえて進み、少しずつそれを拾っていくことを決意する。
その先にどんな目的があるのかはわからないが、それでも何処かで綻びが生じるはずだ。
だから宮川は、青年へ「このカメラ、こちらで調べても?」と尋ねる。
その時の宮川の表情は、自分では認識できずとも、凄まじい力強さが込められていたようで、青年は気圧されるように首を縦に振った。
「あぁそれと、なにか分かった時にこちらから連絡がしたいから、これに名前と連絡先を」
宮川はカメラを確認しつつも、自らのメモ帳を青年に渡して、何かあったときのためにコンタクトが取れるようにする。
すると青年は、怪訝な態度を見せながらも、メモに「霧島克己」と書き込んだ。その時の態度は険悪であり、右手をポケットに入れ込んだまま、片手でメモを書き殴る。
全て書き終えると、霧島は投げるように宮川へと押し返した。