高橋製鉄所から三島メンタルクリニックまでは、たっぷり一時間ほどの時間を要し、到着する頃には既にクリニックのエントランスには「休診中」の立て札が添えられていた。
本来であればそのまま踵を返すのが普通であるが、宮川はそのままクリニックの裏方へ周り、「三島」の表札がかけられたインターホンを鳴らす。
「はい?」と気のない返事が機械越しに聞こえてくる。
それに宮川は自らの名前を名乗る前に、「久しぶり」と手を上げた。どうやらインターホンで宮川の存在を理解したらしく、玄関扉は開き、家主でありクリニックの院長である三島が出迎える。
その視線は、宮川に対して白い眼差しだった。
「……僕は君に、こっちから入って来いと言った覚えは一回もないんだがね」
三島はちらりとクリニック側の扉を一瞥して、再び視線を宮川へと戻す。
壮齢にしては若々しい風貌をしているが、その眼差しは冷静にものを観察する凄みがある。刑事という職業である宮川ですら、腹の底すべてを見透かしてしまいそうな凄みを感じさせれた。
少しだけ白髪のまじり始めたところが年齢を感じさせるが、それ以外は数年ほど前からさほど変わっていないように見える。
「一般人にゃ、精神科の敷居っていうのは跨ぎづらいんだよ」
「君の初診はいつだと思ってんるんだ?」
「また初診からお願いしようかな」
「休診中だが、珈琲でも飲んでいきなよ。久方ぶりに幼馴染が来たんだ、もてなしくらいはするさ」
三島は基本的に感情の変化を見せない人間であるが、こういうときは人間的な態度を見せる。
この男は明確に、「仕事」と「プライベート」を人格ごと切り替えるタイプだった。
冷静で俯瞰的な医者としての三島。丁寧ながら妙に感情的な彼自身としての三島。宮川は三島と対峙するのがあまりにも久しぶりすぎて、今の彼がどちらの彼なのか、一瞬分からなかった。
だがすぐに、開け放たれた扉に促され玄関に足を踏み入れれば、それが「三島本人」であることを理解させられる。
宮川は三島の自宅に入るや、「奥さんは?」と突発的に不躾な質問が口から飛び出す。
もはや考えるまでもなく飛び出た質問に対して、三島はリビングから一瞥できるキッチンで珈琲を淹れていた。
「倅とともに実家に帰省中だ。僕は残念ながら仕事があってね」
「失礼だが、なにか良からぬことでもあったのか?」
もはや職業病と言わんばかりに、三島の近況を彼の表面上の態度から探ろうとしてしまい、一瞬の沈黙が辺りに流れる。
しかしながら、三島も宮川もこれにどっと笑い、緊張の糸は珈琲の香りによって解かれる。
「倅ももう大学受験の年なんでね、その兼ね合いで、海外留学を検討しているわけだ」
「なるほど、さすが国際結婚組だ」
三島は二十代後半でのドイツ留学にて、そこで出会った妻と国際結婚をした。
知った風に逡巡するが、宮川は三島のその後の動向を全く知らない。時々、年賀状として彼の奥方と倅の写真をたまに見たことがある程度である。
その奥方も、三島同様に医者をしているそうで、国際的な仕事に取り組んでいるという漠然とした話のみが、宮川の記憶に残っている。
恐らくは、彼の倅もまた医療の道を志し、ドイツへの海外留学を考えているというところなのだろう。
宮川は冷静に考えると、まるでドラマの中の住人のようなキャラクターをした三島に若干の距離感を抱かされる。
しかしそんなことより、三島から尋ねられた「今日はどういう風の吹き回しだ?」という言葉が脈を鳴らす。
正直、宮川も明確な目的を持ってここに来たわけではなかった。
なんとなく、高橋に対して自分の心の奥底にある「闇」に触れられたことが気にかかり、どこか同意を得たかったのかもしれない。
「……なぁ三島、俺は、あの事件から、おかしくなったんだろうか?」
「君自身はどう思っている? 僕の考えよりも、君自身がどう思っているか、どうやって向き合おうとしているかが重要なはずだよ」
「俺だって、分からないんだ。ただ、漠然としている」
言葉の通り、宮川の思考は絡まった糸のように交絡していた。
ぐちゃぐちゃに絡まり合い、手の施しようがなくなってしまっているような。
そう、まるで長年放置したテレビの裏側を見ているかのような感覚である。
しかしそれを紐解くように、三島は宮川へ「混乱していることは、最初から遡って考えるに限る」と話を促した。
その言葉をきっかけに、宮川は過去の出来事へと思考を遡っていく。
事の発端は、十年前に起きた「無差別死傷事件」であった。
時刻は二十一時きっかりであり、週末の夜の出来事だった。
最も人で賑わい、活発な夜の街の中、突如としてナイフを持った男が、歓送迎会から帰る女性を刺殺した。
男は被害者女性が確実に死亡するまで、何度も腹にナイフを突きつけた。
その回数はおよそ八回。時間にして一分も満たない間に行われた。
当然周りの人間はその異変に気づくも、週末の夜である。
酒に飲まれた人間が多かったことも助けて、男の毒牙は不運なことに、多くの人間へ届いてしまった。
結果、そこから男は無差別にナイフで人を切りつけ、多くの被害者を生み出すことになる。
だが、不幸中の幸いというべきか、死に至ったのは最初の被害者になった女性だけであり、その後男はすぐに取り押さえられた。
早速捜査は開始され、初動捜査の段階から宮川は、聞き込みを始め事件に携わった。
最初に行われたのは、事件を起こした男、高倉巌(たかくら いわお)への聴取である。
それ自体に宮川は参加していなかったが、男の言い分は全く持って理解できなかったという。
「あの家に行ってから、おかしくなったんだ」
高倉は開口一番そう言った。
高倉の言う「あの家」とは、都内近郊でも有名な心霊スポットとして名高い、通称「写真の家」という場所である。
「写真の家」とは、某所にあるという一軒家のことで、もう何年も前から空き家となっている心霊スポットだ。
特筆するべきはその内部である。
リビングルームには、大量の写真が撒き散らされているのだという。それらすべてが、そこに住んでいたと思しき親子の写真なのだ。
異様極まりない話であるが、この「写真の家」は警察関係者でも有名な話だった。
なぜなら、当時そこに住んでいたという親子が殺害される事件が起きたからだ。
被害者の親子は、犯人の自宅であるアパートで惨たらしく殺害されており、そしてその犯人も自殺。
事件としてはあまりにも悲劇的な内容であるが、その一方で、この事件に関わった多くの人間が、その詳細に口を噤んだ。
自殺をした犯人は、死刑宣告を受けてから拘置所にて拘留された。そこで犯人は、自身の首を、その手で締め上げるという常識では考えられないような方法で自殺した。
死刑宣告を受けたものは、その精神的な不安定さから、厳重な監視がなされる。この犯人も、もちろん例外ではなかった。
彼の行動は常に監視され、死亡するときも男の姿は監視カメラで記録されており、拘置所の職員が自らを扼殺する犯人を見たという。
職員はそれからすぐに仕事を辞めた。その理由は、残された監視カメラの映像にある。
自殺をした犯人は恐るべき形相で、監視カメラの方向を見ていた。恨みをぶつけるような、異形の表情で。
結果として事件は、「犯人が死亡」という幕引きが行われた。当然警察関係者もこれに対して深い詮索をすることはなかった。
それでも、この件に関わったもののほとんどが、「この事件は常識では考えられないことが起こっている」と認識させられたという。
これだけであれば、「不審死」という認識に留まったであろう。
問題は、写真の家が心霊スポットとして名が知れ渡るようになってから、「母子を対象にした不可解な傷害事件」が大量に発生したことだ。
親切な好青年が、見知らぬ親子へ攻撃をする。そんな類似事件が、当時繰り返し検挙されることとなる。
検挙された人間は皆、口を揃えてこう供述した。「写真の家に行ってから、おかしくなった」と。
流石にこの状況には警察関係者も頭を悩ませた。不可解な犯人の自殺、脈絡のない親子への傷害事件。
犯罪の最先端で捜査をしている刑事だからこそ、「なにかおかしなことが起きている」ということを早々に気付くことになった。
このような事件に対しては、そのあまりの事件数から、対応が「精神的なストレス」と一辺倒になっていく。
そんな奇妙な事件の連鎖が続いている最中、高倉は無差別死傷事件を引き起こす。
この無差別死傷事件に関わったものの中で、「写真の家」に対して鋭敏に反応したものは多かった。それだけ、当時の奇妙な事件の連鎖が警察組織全体へ、気味の悪い感覚を与えていたのだと思う。
だからこそ、捜査本部は表向きには「高倉は心神喪失を狙った言い逃れをしている」としつつも、内心では「写真の家が原因ではないか」と考える刑事も多かった。
その考えに拍車をかけたのが、高倉の言動である。事件の内容に関係のない話や、「写真の家から言われた」などの奇々怪々な言動の数々。それらが刑事へ与えた影響は大きく、捜査を行う刑事はひどく混乱させられた。
宮川としては、「十中八九、高倉は言い逃れをしようとしている」と考えていた。
「写真の家」のことを知らなかったわけではない。宮川自身、あの一連の事件には狂気性を感じていたし、他の刑事の意見もわからないものではなかった。
しかし、高倉が本当に「写真の家」で奇怪な現象に巻き込まれたかについては、甚だ疑問に残るのも事実である。
またその疑問以上に、宮川には「高倉が写真の家という口実を使っている」と直感していた。
結果としてこの事件は、過去の事件が影響したのか、高倉の心神耗弱が認められた。
結果として、高倉には懲役八年の懲役刑が課されることとなる。
宮川はこの結果に何度も不服を申し立てた。
宮川の見立てでは、今回の事件は「写真の家」に端を発する奇妙な事件の連鎖は関係ないと考えていたからだ。
そもそも事件の対象が全く違っている点や、これまでの類似ケースの一致率から比べると、全く持って違うケースであると確信していた。
更に宮川は、最初の被害者とそれ以外の被害者の攻撃性の違いを主張する。最初の被害者であり、この無差別死傷事件で唯一の死者となった女性は、明らかな殺意があったと思える。
だが、警察としての判断は宮川の意見で覆ることはなかった。理由として、被害者女性と犯人の関連性を見出すことができなかったこと。更に、明確に殺意があったとするなら、個人を殺害するはずだという理由からだった。
勿論、被害者遺族もまた結果に異議申し立てを行った。
控訴するも、結果は覆ることなく、男にはそのまま懲役八年の刑が執行される。精神的な治療を受けながら、男は模範囚としても生活しており、結果として一切の刑期が延長されることなくそのまま刑務所を後にした。
だが、問題はここからだった。高倉は出所したその足で、自ら殺害した女性遺族のもとに向かい、今度はその父親を刺殺したのだ。
高倉は被害者女性の母親までを殺そうとしたが、なんとか父親が身を挺して守ったことで命を取り留める。
辛うじて逃げ果せた母親が警察に通報したことで、高倉は逮捕、今度こそ死刑判決が下される。
再度、事件に対して聴取が行われたなかで、高倉は被害者女性と面識があったことが判明した。
高倉は被害者女性の幼少の頃からの幼馴染であり、社会人になって再会したのだという。両親が知らなかったのも無理はないようで、男は中学校に上る前に、親の都合で転校しており、それから一切の面識がなかった。
男の犯行理由はただ一つ。「結婚すると約束していたのに、恋人と手を繋いで歩いていたところを見たから」と主張した。
最初の事件はまさに突発的であり、犯行を決意したその足で事件を行ったと供述。
感情的な犯行であることは間違いない。だが、高倉は事件を終えて、「彼女の両親が自分のことを覚えているはずだ」と考えた。
これが二度目の悲劇の発端である。高倉の殺意は、被害者女性の両親にまで向けられ、「刑務所を出たら両親を殺すこと」を画策させる。
その計画を実行するため、高倉は数十年前に起こった「写真の家」だった。一連の奇妙な事件の連鎖は、当時の週刊誌ではひっきりなしに取り上げられていたため、高倉も事情について理解していた。
これを利用すれば、「心神喪失、もしくは耗弱を狙うことができる」という考えが至ってもおかしくない。そしてその計画は、不幸にも噛み合ってしまったのだ。
結果として、警察と司法は、「写真の家」というイレギュラーな事件から、高倉巌という怪物に二度の殺人を許してしまう。
宮川がこれについて知った時に走った衝撃は、想像以上に大きかった。
捜査当初、自身が考えていた仮説が的を射ていたこと。そして、それが最悪の形で果たされてしまったことに、宮川は絶望した。
そんな宮川を更に絶望の淵に叩き落としたのは、唯一生き残った母親を目の当たりにしたときである。
傷だらけでベッドに座り込む彼女は、一切の表情を無くしており、ただただ呆然としていて、会話などできる状態ではなかった。
言葉では表現されずとも、彼女が抱えている巨大な暗がりは、宮川にとって痛いほど伝わって来る。
もはや絶え絶えの宮川の心に、止めを刺したのは、彼女がぽつりと呟いた「一緒に死にたかった」という一言である。
宮川は自問する。
一体、自分が今まで培ってきた矜持は、警察というプライドと権威は、なんの力があったのかと。
高倉は間違いなく、警察や司法によって裁かれ、「懲役八年が適切だ」と審判をくだされた。
にも関わらず、その判決はこんな最悪の結果を産み落とす。あの場で死刑を求刑していれば、せめて、無期懲役であれば、こんなことにはならなかったのではないか。
宮川はそれを引き起こした原因が、まるで全て自分にあるのではないかという錯覚に陥る。
そんなこと、あるはずがない。頭では理解していた。自分ひとりの力で、何かが変わるなど思わない。それでも、宮川は自分を責めずにはいられなかった。
これ以降宮川は、自分のなかで育った「刑事」というものに対して疑問を抱く。
最前線で悪と戦いながら、結局は司法という巨大な天秤の前では、なんの効力も待たないこと。その天秤を動かす力が、自分にはなかったのだと、理解してしまった。
「そこで一度区切ろう」
宮川を逡巡の世界から引き戻したのは、三島の柏手だった。
どうやら宮川は、自らの過去の逡巡が言葉になって現れていたようで、三島もまた、神妙な面持ちでカップに口をつける。
「……あの事件は確かに、警察の失態かもしれないが、それは本当に君自身のせいなのか。あの事件があったからこそ、日本の司法は無駄なところが削ぎ落とされ、完成に近づいていくのでは。色々な考え方ができるかもしれない」
「だが……」
「だが、君の腹の底にあるのはこうだろう。被害者の人生はたった一度きり。その無念を一体誰が晴らしてくれるのか」
三島は宮川の逡巡を先読むようにそう続ける。
「人間は途方もない理不尽にさらされると、神なる存在を信じて、きっと報われるはず、幸せになるはずと願う。僕だって同じだよ。だけどこの世には、一切の慈悲を受けることができなかった悲劇だって存在する。だからこそ僕たちは、その渦に飲まれる可能性を常に考えなければならないはずだ」
「言えてる話だ。俺も、お前だって常にそのリスクを持ち続けているはずだ」
「そう。君はなんとか自らに折り合いをつけて、今もこうやって、何かしらの事件に靴底をすり減らしている。それだけで、僕は十分被害者たちへ手向けになっていると思う。まぁ、これはあくまでも僕の考え方。君の考え方じゃない。どう解釈したって、君の自由さ」
宮川は三島との会話に何処か安堵していた。
自分の腹の底を探られるというのは良い気持ちはしないが、それでも三島は一つ一つ丁寧に、自分が無視してきたネガティブな感情を吐き出させるに至る。
高橋に投げつけられた言葉は未だ、自分のなかで棘になっているかもしれない。それでも今ここに立っている分には十分、気持ちは救われた気がする。
当たり前だがすべての気分が晴れ渡ったわけではない。それでも、一つの心の段落をつけることができたような気がした。
宮川は、すり減っていた感情をようやく俯瞰して見ることができたと直感する。その感覚が、カップの中の珈琲を一気に飲み干して、三島に頭を下げさせた。
「三島、本当に、お前にはいつも助けられる。ありがとう」
心のわだかまりに微かな穴が開けられたと同時に、宮川は三島の洞察に目をつける。
これだけの推察能力があれば、今回の「手首」から、なにか別の視点での手がかりをつかめるのではないか?
宮川はそんな考えから、とある写真を三島に見せる。
「実は……、聞きたいことがある。この写真を見てくれ」
その写真は、切り落とされた手首の写真であり、それを見た瞬間、三島は顔を顰めた。
その表情は、先程まで話を聞いていた穏やかな態度は鳴りを潜め、一転険しさを滲ませる。
同時に「僕は君の主治医であって、鑑定人じゃない」とそっぽを向いてしまうが、宮川の真剣な眼差しも助け、三島は表情を変えずに写真を手に取った。
「三日前、それが警視庁のエントランスに届けられた。手の持ち主が現在、生きているかどうかは不明。目的も分からない。精神科医として、考えを聞きたいんだ」
「……この手首の持ち主の素性は?」
「森嶋悠人、警視庁のデーターベースにヒットした元少年犯罪者だ。無免許運転で死亡事故を起こしたろくでなしだったが、出所後は郊外の製鉄所で働いていた。今はそこを辞めて行方不明になっている」
「切り落とされた指は発見されていないの?」
「今のところ発見されているのはそれだけだ。手の持ち主すら見つけられていない。森嶋が勤めていたっていう工場で履歴書をコピーしたが、たかが知れているだろう」
三島は切り落とされた手首の状態をまじまじと見つめ、その都度顔をしかめる。
黙りこくって指を見つめる三島に対して、宮川は口頭で補足するように一連の出来事をつなげていき、手についてわかっていることの粗方を彼へ話していく。
内容を聞き終わってから息を吐いた三島は、宮川に対して質問の具体化を要求した。
「それで? 君は僕には何を聞きたいんだ」
「聞きたいことは一つ、どうしてこんなことをしたのかっていう考えだ」
「……まずは君の意見から聞こう」
三島は宮川へ意見を求めるが、当然のように宮川はこれを拒絶した。
「先入観を抜きにした三島の意見を聞きたい」という意図はすぐに三島へ伝わったようで、表情を翻す。
それとともに三島は一瞬の沈黙を挟み込み、言葉を濁すようにカップの珈琲を飲みきった。
「犯罪心理学は専門じゃないけれどね、被害者の一部分を持っていたいという感情は珍しくはあるが、猟奇殺人においては比較的多いと考えられている。手の切断面を見れば、かなりキレイに切り落とされている。このことから医療従者、もしくは繰り返し犯罪を行うシリアルキラーという印象を受けるね」
三島の言葉を宮川は丁寧にメモへと落とし込んでいく。それに対して三島は「メモを取る内容じゃない」と言いながらも、写真を手にとって話を進めた。
「シリアルキラーの類型から考えれば、これは被害者に対する拷問、つまり相手に自らの力の差を主張する支配的な印象を受ける。でも、それ以外はオーガナイズド型、計画的な犯行を行う印象もある。これは相反する人格性だ」
「確かに犯人は、梱包のやり方から警視庁に届けるまでも綿密な印象があるな」
「そう。直感に頼れば、この犯人は暴力的で支配的、同時に一定の計画性も持つ人間だと思うが、実は僕の考えはちょっと違う」
三島の言葉に宮川はメモを止めて顔を上げる。
なぜなら、そこまでの考え方は宮川とほとんど同じだったからだ。
計画的で何処か支配的。そんな雰囲気を醸し出す犯行。自分の考え方の裏取りを取るような印象をいだいていた宮川だったが、そこで話が急展する。
三島はというと、道筋は近いが結論が全く違うのだという。
「これだけの情報だけだと判断が難しいが、犯人にとって切り取った一部のものは、自分のコレクションに近い。そんなものをわざわざ、権威の象徴である警視庁に置いたということは、自身の主張が正しいと考えた表れだと思う。これは、暴力によって自分の優位を主張する支配的な印象と噛み合わない」
「確かに人間性が矛盾している……というより、そこが分からないところだ」
「これを齟齬なく説明するには、犯人は使命型、つまり社会正義のために何かしらの意見を持っていて、その目的のために手段として犯行を行ったということだ。これであれば、犯人の目的や主義主張によって、犯行の形が変化するのも納得できる」
「つまり、犯人は何かしらの主張をするために手首を切り取って、桜田門に置いたってことか?」
「そう考えれば納得できるところが多い、っていうのが今現在の考え方だ。そうなれば、この指にも、嫌な想像ができるようになってくるだろう」
三島はそこで、机に写真をおいて、切断された指の断面をコツコツと鳴らす。
「ここであえて君に問おうか。君の考えとして、どうして犯人は指先を切り落としたんだと思う?」
問われた内容に対して、宮川は先程の「先入観」の話を思い起こすも、恐らく三島はこちらの考えにある程度当たりをつけたうえで話している。
それが理解できたからこそ、宮川は自分の考えをスマートに吐き出す。
「拷問かなにかの類だろう?」コンパクトに纏められた宮川の答えに、三島は表情を変えずに「そうだ」と結ぶ。
「警察の人間じゃなくても、これが何かしら、拷問を目的にしたものなのは分かる。でも重要なのは、どうしてそんなことをしたのか、の方だ」
「その通りだ。わざわざこんな手間を掛けることをする必要があったってことだからな」
「そう。そしてこれを行った人間は、人間の心理的な負担を怖いくらい理解していると思う。それを裏付けるのが、この三本の切断された指だ」
三島の話に、宮川は首を縦に振る。
切断された指は、親指、人差し指、中指。手の中では最も頻繁に使用されるものだ。それを切断するということは、それだけ生活的な負担も増えるし、精神的にも多大な影響を与えるだろう。
そんなことをすることができたのは、ある程度の心理学の知識を持ち合わせているからだ。
三島が話し出す前に、宮川は納得の表情を見せる。
だが、三島の次の一言で、その考えは浅慮だったことを思い知らされる。
「この三本の指が切断されたのは、単純によく使うからというだけではないだろう」
「というと?」
「親指と人差し指、中指、これは日常的にもかなり使われるが、それ以外にこの三本の指で行う事がある。君だったら、なんとなく分かるんじゃないか?」
三島はそう言いながら、三島の前に三本の指を立てた状態を示す。同じように宮川も同じ形を作るが、それを見てしっくり来る解釈は出てこず、宮川は「フレミング?」と直感のままに答えると、三島は露骨に白い視線を向ける。
「こういうときの冗談は好かないんだけどね」
「本当に分からないんだが」
「ならこうすれば分かるんじゃないか?」
三島は右手で三本の指を前に出し、それを口元に持っていった。
その仕草はまるで、タバコを吸うジェスチャーのようである。そこで宮川は、森嶋がヘビースモーカーだったことを思い出す。
「タバコか」
「その通り。ペンを持つみたいに、タバコもまたこの三本の指が必ず必要になる。人差し指と中指でタバコを持ち、フィルター部分に親指を触れさせる。ヘビースモーカーには、ままある持ち方だ。親指は灰を落とすためにも使われるし、ヘビースモーカーならより、この三本の指を失えば致命的と感じるだろう」
「確かに森嶋は、かなりタバコ飲みだったって話だ。拷問としてはぴったりだろう」
三島の話に宮川は深く納得させられたが、三島はそこで改めて「ここからは僕の妄想だと思って聞いてくれ」と話を続ける。
宮川はこの言葉に思わず身構えてしまう。三島がそのような警告をいれてくるということは、そこから先の話は相当な内容であることが想定される。
そしてその対応は間違っていなかった。
「このタバコを使った拷問がある」というたった一言で、宮川はそう確信させられる。
「まず最初に、被害者に物理的なダメージを与える。やり方はなんだって良い、顔面を袋叩きにするとか、皮膚の柔らかい部分を多少斬りつけるといったようにね。ここでは相手に、自分が攻撃されている、っていう感覚があれば良いんだ」
「拷問の典型だな」
「ここまではね。そんな極限状態、拷問者は被害者へ、一本のタバコを差し出す。被害者がヘビースモーカーであり、かつ自分の命が脅かされているという状況。日常的にタバコを常飲しているのなら、離脱症状のストレスも相まって、確実にタバコへ飛びつくだろう」
「天地がひっくり返っても飲むだろうな」
「タバコを吸わせて一旦はストレスを緩和させる。とはいえ、この状況では緩和などにはならない。極限状態に微かな気休めを与えるだけ。一服を終えた被害者へ、まずは手始めに人差し指を切り落とす」
三島はそんな内容のことを一切表情を変えずに言い放った。なんなら聞いている宮川のほうが顔を顰めてしまっているかもしれない。
それでも三島は一切躊躇うことなく、その先を続けていく。
「切断された指先は当然だが激痛に襲われる。悶絶して失神してしまう可能性だってある。そんな中、激痛を与えながらも指先から感染が生じないように治療をし、完全に血が止まるまで待つ」
「まさか……その後に?」
「そうだ。出血が止まってから、再びタバコを差し出す。しかし今までのように、人差し指を使ってタバコを持つことはできない。だから不慣れな方法かもしれないが、親指と中指で摘むようにタバコを吸うしかないだろう。あまりの激痛、強烈なストレス状況の中、しかも数時間前にタバコを吸ってしまっていることも相まって、ここでもタバコを吸ってしまうはずだ。痛みを和らげたいとも思うだろうしね」
「そして、同じように一服の後、指を切り落とすのか」
「あぁ。今度は親指だ。そうなってしまえば、中指と薬指を使ってタバコを吸うことになる。激痛もあるだろうから、うまくタバコを吸う事はできないはずだ。だが、痛みとニコチンの離脱症状が重なるのは想像を絶する苦しみになる。単純に、痛みだけの拷問を受けるより、よっぽど苦しみが伴うだろう。まぁ、そういう可能性もあるっていうことなんだけれど」
三島は内容に対してやけに軽い態度で、自らの話を結ぶ。同時にカップに取り残された最後の珈琲を飲み干した。
一方で、一連の話を聞かされた宮川はというと、自分が考えていたものよりも遥かに凄惨な拷問の可能性に、すっかり気圧されてしまっていた。
本当に、こんなことを人間ができるのだろうか。一瞬そんな思考が頭を掠めたが、自分が対峙してきた犯罪者はまさに、人を人とすら思っていない連中ばかりであった。
そう考えると妙に納得がいくが、どうしても煮えきらない。ここまでの凄惨なやり方をするからには、相応の理由が必要になってくるはずだ。
これを一体どのように説明するのだろうか。宮川は何処か好奇心もあり、三島にそれを尋ねる。
「一体、なんの目的があってこんな酷いことを?」
「そこから先はむしろ君たちの仕事じゃないか?」
「妄想で良いさ、三島の意見が聞きたい。参考にはするがね」
三島は「目的」という、恐らく今まで考えていなかった出来事を思案する。少々の沈黙が宮川へたどり着く頃、三島は腹を決めるように話し出す。
「使命感から来る嫌悪ってところか?」
「複雑な感情だな」
「さっきのはあくまでも、僕の個人的な妄想だけれど、もし本当にそんなことをやったのなら、矛盾するところも出てくる」
「というと?」
「まず指の切断面が綺麗すぎることだ。もし仮に、苦痛を背負わせることが目的であれば、指の切断はノコギリ状の刃物を使って痛みを強くさせるはず。にも関わらず、犯人は指先を綺麗に切り取った。確かにこんな拷問をするくらいなんだから、憎しみや怒りなど、負の感情は当然あるだろう。犯行の節々で、どこか嫌悪感が滲んでいる。あえて危険を犯して手首を警察に送りつけるなんてことまでしてるし、使命的な感覚も感じられる」
「……確かに、さっきの人物像とは、かけ離れるな」
「だから僕は、怒りはあるけど、ハッキリとした目的もある犯人だと思う。さぁ、妄想はこんなところだな」
三島はそう言うと、写真を伏せた状態で宮川へと押し戻してくる。
それは当然「これ以上の事件に対する言及はしない」ということの意思表示である。
しかしながらそれでも、三島は事件について気にしているのか、「まずはその、森嶋っていう手首の持ち主を探すべきだろう」と、わかりきった方向に話の舵を切る。
「あぁ。明日には、早速訪ねてみようと思う。大方、手がかりは残っていないだろうがな。それと最後の一つ、手首の持ち主は、まだ生きていると思うか?」
それを聞いて三島は複雑な表情を浮かべている。いくつか考えを脳内で走らせているのだろう。顎に手を触れて唸り声を上げた後、「こんな事言うべきではないが」と前置きをしたうえで続けた。
「もうこの世にいない可能性のほうが大きいだろう。手首の切断があった時点で、輸血の必要性がある出血量だし、指を切断する残忍な方法で犯行に及んでいる以上、生きて返すとは思えない。それこそ、生かさなければいけない理由があるのであれば、また別かもしれないけれどね」
「……そうだな。警察としても、仏が出てこない限りは表立って動くことはできない。できる限り早く見つけ出してあげないととは、思ってるさ」
宮川の言葉を聞いて三島は、「君のためにも、その方が良い」と微笑む。
言葉では棘の多い言い方をするが、三島は幼少の頃から、心を許した人間に対しては穏やかな人物である。宮川はそんな三島の温かさに久しぶりに触れて、「今度は、クリニックの方から入る」と頭を下げて、三島の家を飛び出した。
対して三島は、宮川へ「予約はしてくれよ」と同じく微笑んで語り返す。