森嶋悠人が勤めているという「高橋製鉄所」は、都内から少し距離のある郊外に位置していた。
まるで俗世から隔離されているように、高橋製鉄所は見るだけでぞの穏便な雰囲気と、工場長のおおらかな人柄がひしひしと伝わってくるようだった。
それは当然のように、部外者である宮川へも向けられ、工場長の高橋一平は、「アンタも仕事探しか?」と顔をクシャクシャにして笑った。
しかしながら、その表情は宮川が警察手帳を向けたことで一変する。
突如にして現れた警察関係者ということで、彼は警戒しているのであろう。
人懐っこい笑みは何処へやら、毅然とした表情へと変わり、そそくさと事務所から隔離された応接室に通される。
応接室と言っても、そこは工場のなかでの話であり、比較的生活感が残っている程度の部屋だ。一般的な応接室のような煌びやかなものではない。
当然ながら宮川としては、大仰な応接室などは望んでいない。
必要なのは、発見された手首の持ち主である「森嶋悠人に関する情報」である。
しかし宮川は、あえて神妙な調子で話すのではなく、警察としては珍しい柔和な笑みから話をスタートする。余計な警戒心を与えては、持っている情報も出てこないことがある。
妙に丁寧な自己紹介を宮川が行うも、高橋はその態度に一切の動揺を見せない。
高橋から迸るのは宮川に対する強烈な「警戒心」である。
まるで同郷の旅人に向けるような柔らさはそこになく、魚眼レンズのように温度のない視線が宮川へ向けられていた。
刑事の性か、宮川はその態度から高橋の奥底の感情を紐解こうとする。
だが宮川が思案するよりも先に、高橋はその「警戒心の答え」を出してしまう。
「こんなところに、お役人が一体なんの用事ですか? うちのモンは確かに前科モンばっかりだがね、それでもお役目を終えてここにいるんだ。また適当な難癖つけようものなら、いくら役人だって帰ってもらうよ」
捲し立てるような高橋の言葉が、そのままストレートに彼の人柄と、この製鉄所に勤めている人間の特徴を浮き彫りにする。
栄枯盛衰を思わせる都会の社会と隔絶するように、ひっそりと佇んでいる工場。
それだけで、この工場がある程度の「やんちゃ」を許容できる社会にあると言えるだろう。
高橋は経験的に、「前科者」という者の不器用さや仕事ぶりを知っている。
当然、一般的な社会で服役した者をどのようにして取り扱うのかということも、謂れもない罪を擦り付けられることだってあるだろう。彼は想起し、直感したのだ。
即座に高橋の感情を慮った宮川は、その胸のうちを解すように首を横に振る。
「いえ、ここに勤務されている人が、何かをしたということではありません。むしろその逆……詳しいことは捜査なのでお伝えできませんが、森嶋悠人という青年、ここにお勤めだとお聞きしたのですが?」
「悠人だって? アイツがなにか、事件に巻き込まれたのか?」
「詳細はお話できませんが、彼が何かしらの事件に巻き込まれた可能性があります。そのような事情で現在、警察としては彼の消息を追っています」
宮川は自分自身、驚いていた。
難しい判断が求められる状況で言葉がすらすらと流れ出ることに。
現在の捜査状況としては、「事件として成立する手前の段階」だった。正式な手続きに踏み切ることができないケースであると言えるだろう。
そんな中で、聞き込みとして話を確認する度合いは、そのまま「相手」に依存する。
勿論この状況であれば、話を完全に相手に伝えることなどできない。ともすれば、「なぜ、森嶋悠人を探しているのか?」ということすらも判断が分かれるところだ。
宮川が行った判断は、「彼を被害者として探している」という最低限の情報を開示することだった。
刑事によってはそこまでのことを開示することすら難色を示す場合もあるだろう。
だが、宮川は経験から高橋の人柄を買うことにした。
従業員たちに対する彼の接し方は実に真摯であり、それは工場長という立場だけではなく、高橋自身の人柄が多分に影響している。
そうでなければ、「前科者と理解しながら工場を経営する」などできるはずがない。
それまでの実績そのものが、高橋の持つ「従業員への信頼」を意味していると、宮川は判断する。
加えて、高橋は「従業員」に対して一人ひとり、「心配」をしているようだった。
複雑な経歴を持つ人間であることを理解しているからこそ、再び反社会的な行動に出てしまうのではないかという懸念が拭えない。
高橋から立ち上る機微を、宮川は丁寧に思考で洗っていく。その結果、高橋は宮川に対しての一定の警戒を緩めるに至った。
「……アイツは、森嶋悠人は去年まで、ここで働いていた。誰にでも噛みつくタイプだったが、ある程度信頼した人間には、マトモに接するやつだったよ」
「突然、辞められたんですか?」
「なんだか煮えきらない感じだったね。正直、俺たちもアイツがどういう意図で出ていったのかは分からない。逃げるように、って感じだった。後ろ暗いことでもあったんだと思う。まぁ、色々ある人間ばかりだからな、ここは」
「そういうところも含めて、心配してくれる人がいたのに、森嶋さんは何処に行っちまったんだか」
宮川の言葉を聞いた高橋は、少しだけ表情を緩めて着席を促した。同時視界から外れて、応接室の奥側に位置しているガスコンロの火を鳴らす。
そんな状況でも奥側から、「書面で退職したんだよ」と話を続けた。
「何処で知ったんだか、最近流行ってるっていう、退職代行ってので辞めたんだよ。別の就職先が見つかったってね。正直俺としても、そんなもの使われるの初めてだったからパニクったけどさ、そんなの使うくらいなら、次に何処に行くとか、アレがしたいコレがしたいって、話してほしかったなって思ったよ」
いそいそと話をしながら高橋は、無造作に並んでいるカップに湯を注いだ。
安っぽい香りのコーヒーを宮川の前に差し出し、自らも手に持ったカップへ口をつける。
宮川はというと頭を下げてカップを手に取り、「それ以前の彼の様子は?」と尋ねる。
対して高橋は、質問が原因かコーヒーが原因か、苦々しい表情を浮かべながら言葉を探した。
「……何かの事件に巻き込まれたっていうのは、本当だと思う」
「というと?」
「辞める前にアイツ、一週間くらいぱたっと会社を欠勤したことがあった。出社したアイツを見て皆んな、驚いたよ。まるで暴走族の抗争にでも、巻き込まれちまったんじゃないかって思うくらいボロボロでさ。腕なんて折れちまったみたいで、包帯ぐるぐる巻きって感じさ」
そこで宮川は耳をそばだたせる。
当然、その感情の変化や起伏を悟らせることはせずに、淡々とした様子を繕って、手帳にボールペンを走らせて続きを促す。
その時に、あえて質問をぶつけるようなことをせず、相手の語りを待った。
「何があったのか問いただしてみても、その日からアイツは変わっちまったよ。今までの、バカだったが人懐っこい感じがなくなって、なーんか根暗の真面目くんみたいな雰囲気にな」
「今までの森嶋さんとは、別人のようだった、ということですか?」
「あぁ。うちでもアイツの変わりぶりには驚いたさ。仲良くしてた連中とも付き合わずに、なにかに怯えたような感じになっちまってさ。俺から何度問いただしても、なんでもありません、ごめんなさいってうわ言みたいに繰り返すんだよ。一体全体、アイツに何があったのかって皆で話し合ってもさ、分かるわけもない。それからすぐにその退職代行? だかなんだかってヤツで辞めちまった」
「最後まで、彼に何があったのかはわからず、ですか」
「あぁ。正直なところ、なにかはあったんだと思う。だけど誰も知らない。誰もわからないんだ。なぁ刑事さん、守秘義務だか、そういうモンがあるのは重々承知している。だが、アイツに何があったのか、爪の先程度でも教えてくれねぇか? 俺はバカだからさ、なんかこう、難しいことは分からねぇんだが、アイツのことは気になるんだよ。もし、俺たちになにか分かることがあれば、してやりたいんだ」
高橋は精一杯の言語化能力で、自らの腹に燻った感情を宮川に吐き出した。
一連の話や彼の口ぶりから、高橋がこの工場の従業員に対してどのような腹づもりであるかは十分理解できる。
同時に、心の底から森嶋のことを心配しているという優しさも、高橋の人柄の良さも伝わってきた。
宮川は柄にもなく、多くの前科者にとってこの職場は理想的なものであると直感する。
ある程度人の目に触れることもなく、やや粗暴であるがしっかりした信頼関係を築いてくれる上司など、必要な要素は充実しているだろう。
現代社会において前科者は、まさに目の上のたんこぶである。
前科者に対しての社会の風当たりは冷たく、多くの人間が「犯罪者である」というイメージによって、まともな人間関係を築くことは難しい。
そんな柵を理解しながら、それでも人間の温もりを思い出させてくれるには、ここは十分すぎる。
だからこそ、宮川はこの「森嶋悠人が失踪した」ということに対して、異常な奇怪さが滲み出ているような気がした。
こんな理想的な職場と環境を手放して、森嶋は何処に行ってしまったのか。
それも、世話になったという上司に最後の別れを告げることもなく。
何が引き金となって、森嶋はここを去ったのか。その答えは既に出ている。
発見された手首と、森嶋が退職する直前に起きた出来事は無関係であるはずがない
そこで何があったのかを突き止めることが、この事件の全容を知るうえで最短の道筋となるだろう。
宮川はそれを理解しながら、高橋に対して深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。現状、森嶋さんについてのことはお話できません。ですが、事件の収束に際しましては、必ず高橋さんにもご報告させていただきますので、何卒、今はお納めいただきたい」
宮川は自分が持ちうる丁寧な言葉をすべて引っ提げて、深く頭を下げる。複雑な腹の中はあるものの、高橋に対しての申し訳無さという部分は確かにあった。
それが高橋にも届いたのか、彼は少し物憂げに「そうですか」と言葉を結ぶ。
「私共としても、森嶋さんの事件については全身全霊で捜査させていただいております。複雑な胸中をお察ししたうえで、今後も捜査に当たらせていただきます」
「……えぇ、ぜひともよろしく頼みます」
「最後に、森嶋さんと親しい関係だった従業員の方などは?」
「あぁ、それならうちの若いので、親しかったヤツがいますよ。すぐ呼べますから、ちょっとお待ち下さい」
そう言うと高橋は、すぐに近くにある内線を使って「小谷を応接室に寄越してくれ」とだけ告げて、そのまま電話を置いた。
「今すぐ来るんで」と砕けた調子で話した高橋であるが、そのままの流れで、宮川の顔を一瞥した。
その視線に気がついた宮川は、高橋に対して疑問符をぶつける。
「……どうかされました?」
「いんや、刑事さん、他のデカとは少し違うと思っただけだよ」
「というと?」
そこで高橋はカップを置いて、「こういうところで仕事してるとね」と前置きの上で話し出す。
「前科持ちのヤツや、今まさにろくでもないことをした人間を捕まえようとする、アンタみたいな役人を見る目も養われるんだわ。デカってのは、人の話を信じない。疑うことが仕事ってのは重々承知してる。アンタもまぁ、丁寧だが、聞いた話のほとんどを疑ってかかってるってのは分かる」
「……私ももう、この齢なものですから、色々と自分のなかで経験があるものです。その疑いが、態度に出てしまっていたかもしれません」
「いんや、アンタが相当な上澄みだってことは、素人目でも分かる。なんていうんだろうね、アンタの目は、怖い」
宮川は高橋の思わぬ言葉に驚かされる。宮川の捜査スタイル上、「優しい」や「甘い」と評される事はあっても、「怖い」と表現されたことは、長い刑事人生の中でも片手で数えるほどだ。
それに対して理由を訪ねようとした時、高橋は滔々と自らの思ったことを語る。
「妙に作り物っぽいんだがね、そこに強い気持ちが入ってるって感じだ。デカとして、必要な肝っ玉はしっかりしてるっていうか、むしろ、犯罪者は逃さないっていう、芯はとんでもなく硬い感じがする。それでいて、敬意も払ってくれてる。珍しい感じがする刑事さんだ」
「……初めてそんなことを言われました。褒め言葉と受け取らせていただきます」
「だが同時に忠告でもあるかもしれない。アンタ、心を病んだ人間の目をしてるからさ、気をつけなよ」
高橋の言葉に宮川はつくづく驚かされる。
驚異的な洞察力であると心のなかで称えながら、同時に強烈な不快さを突きつけられた。
頭にちらつくのは精神科への通院紹介状。ほんの数回の通院で捨て置いた「三島メンタルクリニック」の記憶が逡巡するも、それはすぐに記憶の奥底へとしまい込み、「気をつけます」と頭を下げる。
そうこうしているうちに、応接室には高橋の言う「森嶋と面識があった人間」がはいってくる。
金髪風の髪と着崩した工場着が印象的であるが、その表情は若者特有の攻撃的な態度であり、特に眼差しは「警察」というものに対しての敵意が感じられた。
しかしながら、その態度に高橋は「おいノリ、ちゃんとしろよ!」と眉を吊り上げて、自らの隣に若者を座らせる。
「すみません、コイツ、森嶋と仲が良かった鈴木紀光です」
高橋の紹介を受けて、鈴木は挑発的に頭を下げる。ぞんざいな態度であるが、高橋の弁に従って最低限の礼節を見せようとしているようだった。
会釈に近い調子でかぶりを振れば、早速「悠人に何があったんすか?」と本題に入ってくれる。
宮川は、高橋にしたのと同じように鈴木へ話をすると、こちらの腰の低さに気を良くしたのか、存外に饒舌な態度で話し始めた。
「アイツ、ここでの仕事楽しかったらしいっすよ。だから突然いなくなって辞めるなんて聞いたときには驚きましたよ」
「その時、突然いなくなったときのことで、なにか覚えていることはありませんか? 前後で、森嶋さんになにか、変わったことがあったとか」
「いやー、正直あの時って、急に失踪? みたいな感じでいなくなっちって、皆でどっかトんだんじゃねって話になったくらいなんすよ」
鈴木の言葉はまさに口語的であり、その節々で彼が生きてきた世界が浮き彫りになるようだった。
「トぶ」とは、いわゆる高飛びのことであり、その場にいられなくなった犯罪者が身を隠すために何処かに逃げることであろう。
森嶋悠人もまた、そのような高飛びの可能性がある人物であり、この工場の人間もそれを理解していた。
だから森嶋が不自然にいなくなったときも、「ひょっとしたら何かしらの理由があって所在を隠したのではないか?」という推察に至ったのである。
「だから急にまた出てきたときには驚きましたよ。でも、なんかそれからアイツ、手のひら返したみたいに変わっちまってね」
「……どんな感じで、変わってしまったんです?」
「なんか真面目ちゃんって感じっすね。ちょうど、刑事さんみたいな話し方っすよ。それまで俺らみたいな喋り方だったのに、丁寧な言葉遣いはするけど、時々崩れて無理してる感じ出まくってて、正直イタかったっすね」
鈴木は嘲笑するようにそう続けた。
その表情の裏側には寂しさのようなものを感じているようで、だがそれを気づかれまいと「別にどうでもいっすけど」と口を結ぶ。
「……それから、彼が仕事を辞める理由については?」
「だから、それもさっぱりっすよ。真面目ちゃんになったその次には、ここを辞めるって言って、すぐにトんじまった感じ」
宮川は、鈴木の言葉を耳で聞いて即座に自分の言葉へ直してメモを書き取っていく。
鈴木の弁から、「突然いなくなった後、人が変わったように真面目になって仕事も変えた」という流れは間違いないようである。
それに加えて、森嶋悠人は高橋製鉄所での出来事を忘れ去るように退職をした。
更生を目指して社会に戻った模範囚として考えれば、好意的な変化と受け取ることもできるが、それであってもこの急激な人間性の変化には無理がある。
ましてや、高橋製鉄所という、いわば「前科者の掃き溜め」の中で、自分の存在を認めてくれた仲間がいる状況だ。
手のひらを返すようなことをするというのは、宮川の考える森嶋の人物像と乖離する。
間違いなく、森嶋には「なにか」があった。そのなにかは今のところ、思考の何処にも結びつくことなく浮遊している。
しかしこれこそが警視庁へ届けられた「手首の真実」に結びつく秘鑰であろうと、宮川は確信していた。
「森嶋さんは、突然いなくなり、帰ってきた後、誰かと関わるようなことをしていましたか?」
「前は結構喋ってたんだけど、アイツそれから誰とも話さなくなっちゃって。なーんか、メンヘラって感じ? カバンからどっかの病院のチラシっぽいもの入ってたし」
鈴木の言葉に、宮川は鋭敏に反応する。
僅かな時間でここまでの変貌、精神的にかなりの負担がかかったはずだ。
もしかすると、森嶋が精神に異常を抱えて、病院に罹った可能性は考えられないだろうか。
不意に考えられた可能性に、宮川は「森嶋が腕を怪我していた」ということを含めて、鈴木に尋ねる。
「森嶋さんは、戻ってきた時に腕を怪我していたそうですが、病院はそれのものではなく?」
「違うと思うっスよ。チラシの病院にはメンタルクリニックって書いてましたし、なんかハートマークみたいなのもありましたから」
鈴木の言う「ハートマーク」というものは確かにメンタルクリニックに多いかもしれないが、それでも循環器系の病院にもそのようなことが描かれることもある。
恐らく鈴木は、なんとなくのイメージでの表現かもしれないが、それでもはっきりと「メンタルクリニック」という言葉が出ている。
確信には至らないが、精神科に罹ろうとしていた可能性は十分あるだろう。
そもそも、鈴木も高橋も、森嶋がどうして二週間も姿を消し、腕を欠損するような怪我を負っていたのかすら分からないのだ。
もし仮に、その怪我が原因で病院を探しているのであれば、既に処置された怪我と矛盾が生じる。
明らかに森嶋は、怪我を既に処置された状態であった。これは高橋と鈴木の話からも妥当であると判断できる。
鈴木の漠然とした話に対して、宮川は自らの経験で補完しつつ、結びと言わんばかりに「それ以外に気になることとか、変わったこととかは?」と尋ねる。
「アイツ喋らなくなったんでね、変わったことはー、あぁ、元々かなりヘビースモーカーだったんすけど、輪にかけてタバコの量は増えてましたね。片腕を怪我してるもんだから、タバコに火を付けるのも大変そうで。だって何回も何回もタバコを落とすんすよ。もー見てられねぇって感じ?」
「一日に何箱くらい吸ってました?」
「分からねぇけど、一箱は確実に開けてたんじゃねぇかな。なぁ工場長、そうだろう?」
突然話を振られた高橋は、鈴木の軽快な態度に眉を吊り上げるものの、その場に流されるように続ける。
「えぇ。かなりのタバコ飲みでしたね。吸ってないと、落ち着かないって話は何度かしてましたよ」
宮川はなぐり書きのメモに「ヘビースモーカー」という単語を残して、口頭で聞き取ることができるのはこの程度であると判断してメモを閉じる。
できるだけ丁寧にお礼を残して、工場内に残っていた「森嶋悠人」の履歴書などの個人情報を提供してもらい、宮川は高橋製鉄所を後にした。
雪崩れるように車へ乗り込み、帰路につく中、宮川はそこでの出来事を書き込まれたメモを想起して思案させられる。
森嶋悠人は、無免許での交通死傷事故を引き起こし、家族からも勘当されてた状態で出所した。
行く宛のない森嶋を受け入れたのは、同じように前科を持って社会の爪弾き物となった人間を受け入れる「高橋製鉄所」であった。
そこで森嶋は、自分の課題と向き合いながら、確実に社会生活を学んでいた。
宮川が見ただけでも理解できる、あの工場長は人格者であり、森嶋もそんな工場長に惚れ込んで勤めていたのだろう。
しかしそんな折、森嶋は二週間も姿を消した。
理由は誰にも分からず、帰って来る頃には片腕が使えなくなるほどの大怪我を負っていたという。
自分に何があったのかを話すこともなく、森嶋は平穏に思えた高橋製鉄所を去った。
誰にも、その理由も告げずに歩み去った森嶋は、利き腕もない状態で今何処にいるのだろうか。
宮川は未だ、森嶋が生きているという想像をすることはできなかった。
けれど、ここでの森嶋の痕跡を聞いたことで、幾分「まだ生きているのではないか」という希望的観測が生じ始める。
それと同時に森嶋悠人に何が起こったのかは何一つとして分からない。宙に撒き散らされた疑問符が無造作に浮かぶばかりで、何一つ手がかりになるものはない。
霧の中を泳ぐように、宮川は帰り道の車内で腕しか見たこともない森嶋のことを考えていた。
同時に、高橋の話したことが引っかかる。
ノイズのように考えを乱したのは、見透かされた「自分の闇」だった。
「そろそろ、向き合うべきなのかもな」宮川は傾き始めた西日を受けて、自身へそう言い聞かせる。
宮川は、あれほど遠いのいていた「三島メンタルクリニック」への意識を向ける。
それが行動に現れ、車はそのままの勢いで、三島メンタルクリニックへとタイヤを回した。