あのときの痛みをまざまざと思い出して、私が眉根を寄せると、同じような面持ちの翼の君が声を押し殺しながら口を開いた。
「吾は山上宮様に言われるまで、全然気付きませんでした。ですが今考えると山上宮様とご一緒している宮様が、見たことのないお顔をなさっていたのを、度々垣間見ていたんです。見ていたのに気づけなかった吾は、大馬鹿者なのかもしれません」
いつもよりも低い口調で告げられた言葉は、翼の君の苦悩を示すもののように聞こえたため、問いかけることに戸惑いを覚えた。
打ちひしがれた顔のまま、むっつり黙り込んでしまった翼の君の重たい口を開かせるために、息を吸い込みながら思いきって声をかける。
「……翼殿、見たことのない宮様のお顔とは、いったいどのようなものであったのだ?」
「ああ、なんと表現したらいいのでしょう。甘いお顔というか、色っぽいお顔というか。ただ言えることは、吾と一緒にいるときには絶対に見ることのできないお顔でございます」
そのときの宮様のお顔を思い出したのだろう。目の前にある翼の君は悔しさを顔に滲ませつつ、瞳は諦めの色を滲ませた。
(私も宮様のそのようなお顔を、今まで拝見することはなかったな。山上宮様との逢瀬を覗き見てから、まともに直視できなくなったせいもあったが……)
「翼殿のお気持ちを考えると、その――」
気落ちしている翼の君に話しかけづらく、言葉がうまく出てこなかった。翼の君は変に気遣う私を見ながら、悲壮な表情をそのままに口を開く。
「山上宮様も酷いんですよ。やれ予の宮だの、柔らかい唇をしてるから溺れそうだとか、絹のように滑らかな肌をしてるなんて、わざわざ言わなくていいことまで仰って、吾の心を散々かき乱したんです!」
語尾にいくにしたがい翼の君は声を荒げさせ、感情にまかせるように手にした茶碗を音をたてて床に置く。その衝撃で中のお茶が零れて、辺りをしとどに濡らした。耳に残った割れてしまいそうな茶碗の異音と零れたお茶を前にして、私は不快感に顔を歪めながら語りかけた。
「それは逆に、山上宮様の敵対心から仰ったんじゃないのだろうか?」
その当時の翼の君と自身の立場を重ね合わせて指摘すると、翼の君は若干うな垂れながら答える。
「そうですね。すべてを把握した上でそういうことを仰った意味について吾がわかったのが、山上宮様が呪詛がもとで亡くなられる前日の夜でした。こんな吾に牽制なんて、無駄なことをしなくてもいいというのに」
「呪詛について、衛門府検非違使衛士の依川殿と海崎殿にお話を伺っている。きっと山上宮様は、翼殿が怖かったのだろう」
「残念ながら吾は、卑下すべき存在なのですよ
「なにゆえ、そのようなことを言うのだ?」
疑問を口にしながら翼の君を見やると、瞳を曇らせながらどこか諦めたような顔をした。
「あの夜、山上宮様をお送りするのに、いつものように中門までご一緒しました。夜空には刀で切られたような形をした赤い月がぽっかり浮かんでいて、山上宮様とふたりで忌まわしいなという話をしたんです」
「ほう……」
「山上宮様が涼しげな一重瞼をちょっと吊り上げ気味にして、赤い月から吾の顔を鋭く睨んだときに訊ねられたんです。『おまえはどうやって宮を守るのか』って。迫力のある声に、吾は一瞬固まっちゃいました」
帝の跡継ぎ争いで、互いが今よりも牽制しあっていた頃だった。だからこそ、なにが起きても不思議じゃなかった。同じことを山上宮様に問いかけられたら、まともな返事を私はすることができたであろうか。
「翼殿はなんと答えたのだ?」
自身の答えが出ぬままに、翼の君に訊ねてしまった。
「吾は喜んで、宮様の盾になると言いました。そしたら山上宮様に頭を強く殴られたあとに、この大馬鹿者ってこっぴどく叱られたんです」
「――そうであったか」
(自身の恋をとうに諦めてしまった私は翼殿のように、盾になって宮様をお守りすることができるであろうか。山上宮様のお訊ねになったことについて、瞬時に答えた翼殿が、ある意味羨ましい限りだ)
そんなことを考える間に、翼の君はさきほど浮かべていた憂鬱な表情を変え、瞳にありありと力を宿しながら語りかけていく。
「盾となることなど、誰にだってできる。盾となり斬られて死ぬだろう。そのあと宮がどうなるかわからないのかって、両耳が痛くなるくらいに酷く怒鳴られちゃいましてね。好きな者のためなら、全身全霊で最期まで守り抜けって……」
翼の君は右拳を胸の前に出し、力強く握りしめた。
「山上宮様から、吾のこの手で宮様を守り通さなければならない。そう教えられました」
「山上宮様のお言葉は、まるで遺言のようだな」
「誰かを想う気持ちは、どんなものよりも強い。そして自分も強くなれるんだって仰っていたのに……」
愛しい水野宮様を守ろうとする強いお気持ちが、山上宮様にあったからこそ、水野宮様にかけられた呪詛をみずから受けることになり、お亡くなりになられたのであろう。