扉の中から小さい身体で大人の男物の衣を引き摺った幼女がゆっくりと進み出て来た。
黒い美髪は月明かりだけの闇でも艶めき、玉のような白い肌は神秘的な輝きを放っている。
愛らしく、美しい容姿だが、その瞳に幼子特有の無邪気さはない。
子供は倒れる桂月と詠貴のことを目を丸くして凝視していた。
この子の名は確か蒼子と言っていた。
「蒼子ちゃん! 逃げなさい!」
詠貴は幼女に向かって叫ぶ。
しかし蒼子は詠貴から視線を外し、厳しい顔をして凜抄と対峙する。
蒼子の瞳にも凜抄に負けないほどの怒りが滲んでいた。
「子供のような癇癪も、流石に度が過ぎる」
凜とした声で言い放ったのは幼い蒼子だ。
「……何ですって?」
「聞こえなかったか? 癇癪持ちの子供もここまでしないと言ったんだ」
子供とは到底思えないような語彙を並べて凜抄を挑発する。
詠貴はその様子をハラハラしながら見ていることしか出来ない。
「この餓鬼!」
目元をヒクヒクと痙攣させた凜抄が蒼子に掴み掛かろうとした時だ。
詠貴に寄り掛かっていた桂月が身体を起こし、今度は蒼子を庇う。
「桂月!」
詠貴の悲鳴のような声と共に凜抄の簪が再び桂月の背中に突き刺さる。
簪を勢いよく引き抜けば辺りに赤い雫が飛び散った。
「うっぐうぅ」
呻き声と同時に身体が硬直し、蒼子を強く抱き締めた。
「桂月さん!」
蒼子の身体を抱いた桂月がそのまま力なく倒れ込む。
「あら、折れちゃったわ」
カランと折れた簪が凜抄の手を離れ、地面に転がる。
「全く! どいつも! こいつも! 何で! 私の邪魔をするの!」
ドカっドカっドカっと何度も何度も桂月の身体を蹴り上げる。
しかし桂月の身体は大きく、重い。
凜抄の細い身体ではぐったりとする桂月の身体を蒼子から引き剥がすのは困難だったようで次第に脚が上がらなくなった。
「凜抄様、琳鳳様がお見えになりました」
一人の使用人がおずおずと伝えに来た。
「分かったわ」
凜抄が返事をすると使用人はこの惨状に目を瞑り、母屋へと戻っていく。
桂月から凜抄の脚がどかされる。
これで終わる。いつもよりも質の悪い癇癪だった。
凜抄は少しだけ安堵したが、これだけでは終わらなかった。
「舞優」
顎で桂月を指し示し、言った。
「この餓鬼、あそこに捨てなさい」
そう言って指を向けたのは今は使われていない井戸である。
「止めて下さい! 死んでしまいます!」
詠貴は叫んだ。
この邸は丘の上にあり、水を引くための井戸はかなり深い。
そしてあの井戸は支柱と滑車は老朽化して使われてこそいないものの、そ底には水が溜まっている。
大人であっても這い上がることは困難だ。
蒼子の小さい身体では這い上がることも出来ず、すぐに溺れて死んでしまう。
「ふん、この餓鬼が溺れる様を井戸の側で聞いてるが良いわ」
舞優が桂月の身体を軽々と蹴り上げ、蒼子の襟首を掴み上げた。
蒼子は桂月の服ごと持ち上げられ、手足が隠れてしまっているが手足をばたつかせて抵抗している。
「まるで蓑虫ね。虫は嫌いよ。早く捨てなさい」
蒼子を掴み上げたまま、井戸まで移動して腕を伸ばし、深い穴の上に蒼子の身体を持ってきた。
舞優が手を離せば蒼子は瞬く間に井戸の底へ落ちてしまう。
「お願い! 止めて!」
詠貴は再び叫ぶが聞く耳を持たない。
「お前、紅玉に怪我をさせた奴だな」
蒼子が臆することなく舞優を睨み付ける。
「紅玉? ……あぁ、あの神力持ちの子供か。って言っても大した神力じゃなかったけどな」
「子供じゃない。成人している」
「あぁ? 成人っていうのは十八歳。分かるか? どうみても十五そこらだろ。神力も大したことなかったしな」
舞優は蒼子を小馬鹿にするように言う。
「紅玉は今年で十九になる。神力だって強い。大したことないのはお前の方だ」
「あぁ?」
凄む舞優に蒼子は全く怯まない。
「早くなさい!」
舞優の背中越しに凜抄の急かす声がぶつかる。
「だとよ。恨むんならこのお嬢さんか男を恨め」
ニヤっと不気味に笑い、舞優は蒼子を高々と井戸の上へと掲げる。
冷ややかな風が身体を撫で、いつもよりも遥かに高い視線で蒼子は舞優と凜抄を見下ろした。
「あの人を恨む必要はない。彼女には自分の犯した事を悔い改めてもらう」
「お前、本当にただの子供か?」
「紅玉を傷付けたお前に関しては許さないからな」
怜悧な視線で自分を見下ろす蒼子に舞優は背筋に寒気を覚えた。
何だ、この子供は?
一瞬感じた凄まじい威圧感に舞優は呆気に取られる。
「舞優!」
はっと我に返れば、すぐ後ろに凜抄の姿がある。
耳鳴りがしそうな金切り声に舞優は顔を顰めた。
「あー、はいはい」
適当な返事をして再び蒼子を見上げる。
いい加減、腕も疲れてきた頃だ。
「じゃあな。餓鬼」
ふわりっと蒼子の身体が宙に浮き、瞬く間に井戸の底に向かって落下する。
小さい子供の身体が次第に遠くなり、暗い闇へと飲み込まれていく。
不気味な餓鬼だ。
蒼子は姿が見えなくなるまで舞優を睨み付け、視線を逸らさなかった。