ゆらゆらと、一定のリズムで体が揺れている。
ここはどこだろうか。それを考えるには、あまりにも思考がぼやけている。
しばらく心地良い振動に身を委ねていたリズベットだったが、次第に意識がはっきりとしてきた。
「ん……あれ、グレイ……?」
目の前には、見慣れた癖のある黒髪があった。目覚めたばかりの頭では、どうして彼の頭がすぐ近くにあるのかわからない。
「起きたかよ、お姫様?」
グレイの声で、ようやく意識がはっきりしてきた。
帰宅途中、男たちに襲われたことを思い出す。そしてどうやら自分は今、グレイに背負われていて、ゆらゆらと揺れていたのは彼がリズベットを背負ったまま歩いていたかららしい。
それに気づいた途端、リズベットはすぐさま彼の背中から降りようとした。
「ああっ、ごめんっ! 私、気を失って……! 痛っ」
頭に鈍い痛みが走り、思わず顔を顰める。痛みがあった箇所に手を当てると、乾いた血が髪にこびりついていた。全身を強打したせいで、体のあちこちも痛い。
すると、グレイがリズベットを背負い直しながら、気遣うように言葉をかけてくる。
「頭打ったんだから動くな。黙って背負われてろ」
「ごめん、ありがと……」
今は降りたところで、まともに歩けなさそうだ。リズベットは大人しく彼の指示に従った。
落ちないように首に腕を回してしがみつくと、ふわりとグレイの香りがした。柔らかな髪が鼻先に当たってくすぐったい。
「なんだか……あの日の夜みたいね……」
十三年前、家族が殺されたあの日の夜も、こうしてグレイが自分を背負って歩いてくれた。もう遠い昔のことだが、あの背中は今でも鮮明に覚えている。
「グレイは覚えてる? あの日、何があったのか。どんな人達が襲ってきたのか。私、あの日のことは記憶がおぼろげで、あまり思い出せなくて」
これまで、あの事件について自分から尋ねることはほとんどしてこなかった。つらい記憶に蓋をするために、無意識に避けていたのだと思う。
しかし、自分の命が再び狙われている今、事件に向き合わなければならない気がした。知っておかなければならない気がした。
だから尋ねた。が、彼から答えが返ってくることはなかった。
「思い出さなくて良い。あんな日のこと。思い出しても、つらくなるだけだ」
「…………」
きっとグレイは、事件当時のことをよく覚えているのだろう。つまり、つらい記憶をひとりで背負っているということだ。
リズベットの心が傷つかないよう、グレイも事件のことを話そうとはしない。ひとりで抱え込もうとする彼の優しさが、とても悲しかった。
「ねえ、グレイ」
「なんだ?」
素っ気ない返事だが、その声音はとても優しい。リズベットは、思わず抱きつく力をぎゅっと強めた。こうしないと、彼がどこかに行ってしまいそうな気がして。
「……グレイは、死なないでね。私のこと置いて、勝手にいなくなったりしないでね。絶対よ?」
「当たり前だ。俺はお前の護衛で、兄貴で、家族なんだから」
「うん、ありがとう。ありがとう、グレイ。ごめん。ごめんね……」
グレイには自由に生きて欲しい。護衛なんかさっさと辞めて、自分がやりたいことをやって欲しい。でも彼は、絶対にそうしない。
(だから、せめて、死なないで。生きて、笑って。悲しまないで、傷つかないで)
リズベットはグレイの肩口に顔を
* * *
リズベットの怪我は幸いにも軽く、翌日には動けるようになっていた。しかし、大事を取って仕事は休んでいる。
そして、襲撃に遭った三日後、とうとうレオナルドから手紙が返ってきた。
しかしそこには、たった一行だけ、こう記されていた。
『明日の夕刻、迎えに行く』
あまりにも急なことで、リズベットは便箋を持ったまましばらく固まった。
どうしてこんな急に?
迎えに行くというのは、レオナルドが直接来てくれるのだろうか。
レオナルドに魔力暴走を起こさせた犯人は見つかったのだろうか。
たくさんの疑問が降って湧いてくるが、レオナルドとの別れ際の言葉を思い出した途端、余計に疑問が溢れ出して止まらなくなる。
『俺はリズの問題を必ず解決する。それまで待っていてほしい。君に再び会うのは、全てが片付いた時だ』
つまり、自分にまつわる全ての問題が解決したということだろうか。
今まで付け狙っていた黒幕が捕まったのだろうか。
これからは命を狙われることもないのだろうか。
もう、怯えて生きる必要はないのだろうか。
もう、隠れて生きる必要はないのだろうか。
「ねえ! グレイ! いる!?」
リズベットは心の底から湧き上がってくる興奮を抑えきれず、思わず叫んでいた。
レオナルドがリズベットの問題を解決しようとしていたことは、グレイも知っている。
だから、早くグレイに話したくて仕方がなかった。ひとりで抱えるには、あまりにも重大すぎる知らせだ。
「あー? どした。なんか良いことでもあったのか?」
いつも通り、グレイはどこからともなく姿を現した。リズベットはすぐさま駆け寄り、手紙を彼の目の前に突き出す。
「これ見て! レオナルド殿下から返事が来たの! 迎えに来てくれるってことは、私の問題が解決したと思って良いのかしら!?」
興奮したリズベットとは対象的に、グレイの反応は思いほか小さく、ただ微笑んだだけだった。
「……きっとそうだ。よかったな、リズ」
グレイが手紙の解釈を肯定してくれたことで、「問題が解決した」というのは自分の勝手な願望ではないのだと思えた。
そう思うと嬉しくて嬉しくて、リズベットは感極まって涙を流した。
「よかった……本当によかった……! グレイも、ようやく護衛のお役目から解放されるわね。きっとこれまで、たくさん無理したわよね。たくさん我慢したわよね。ごめんね。ありがとう。これからは、自由に生きてね」
「ああ。お前も、王子殿下と幸せになれよ」
「うん……!」
星空の下で、レオナルドから言われた。全ての問題が解決した時、もう一度気持ちを聞かせて、と。
(今度は、自分の気持ちを誤魔化さなくて良い。レオ様に、好きって言って良いのね……!)
早く会いたい、早く伝えたい。リズベットは、明日が待ちきれなくて仕方なくなった。
「そうだ。これ、渡しておく」
「なにこれ、ブレスレット?」
リズベットは雑に涙を拭いながら受け取る。
それは、金色の輪っかだった。紫色の魔石がひとつ付いている。
「リズの両親から預かってた物だ。いずれ、お前に渡してくれって」
「え……!?」
「今後もし危険な状況に陥ったら、それに魔力を込めろ。そうすればきっと、お前を助けてくれる」
五歳で家族を失ったリズベットにとって、両親との思い出はほとんどないに等しい。今ではもう、顔もはっきりとは思い出せない。ただ、とても優しい人たちだったことは覚えている。
そんな両親からの、贈り物。
(まるで、お父様とお母様から祝福されているようだわ)
そう思うと胸いっぱいに幸せが込み上げてきて、リズベットはブレスレットをぎゅっと胸に抱いた。
「ありがとう、グレイ。今まで大切に預かっていてくれて」
満面の笑みで礼を言うと、彼は真剣な表情で名を呼んだ。
「リズ」
そしてグレイは、その大きな両手でリズベットの頬を包みこむ。
彼の顔がすぐ目の前にある。いつも眠そうな瞳は、今は大きく開かれていて、黒い瞳に自分がはっきりと映り込んでいた。
しばらくの間、グレイに至近距離からじっと見つめられ、リズベットも流石に動揺する。
「グレイ、どう……したの……?」
そう言い終わるかどうかのところで、彼はリズベットを力強く抱きしめた。小柄なリズベットは、長身のグレイにすっぽりと収まっている。
「……どうか幸せに」
「う、うん……」
耳元で聞こえた声はひどく掠れていて、まるで神に祈るような懸命さがあった。そしてどこか、怯えも混じっている。
するとグレイはリズベットを離し、部屋から出ていこうとした。
「ねえ」
グレイの様子にどことなく違和感を抱き、リズベットは思わず彼を呼び止めていた。心の中にモクモクと湧いてくる不安を、そのまま彼にぶつける。
「ねえ、護衛の仕事を辞めても、別にいなくなったりしないわよね? もちろん、旅に出たいとか、違う国に行きたいとか、そういうのがあれば止めないけど、それでも、二度と会えなくなったりはしないわよね?」
ほんのわずかだったが、一瞬の間があった。
否定の言葉がすぐ返ってこなかったことに、リズベットは強い不安を覚える。一瞬の沈黙は、「もう二度と会えない」という意味と同義に思えた。
グレイは振り返らないまま、いつもの調子で返事をよこしてくる。
「……安心しろ。どこにも行かないよ」
「待って!」
リズベットは反射的にそう叫んだが、グレイは二度目の呼び止めには応じず、今度こそ部屋を出ていってしまった。