レオナルドに手紙を出してから、一ヶ月が経った。返事はまだない。
リズベットは手紙が無事に彼の元へ届いていることを祈るしかなく、毎日ソワソワした気持ちで過ごしていた。
そんなある日の夜。
仕事が終わり、リズベットはいつもの帰り道を一人で歩いていた。
今日は急患が入った関係で帰りが随分と遅くなってしまい、少々早足で往来を進む。大通りには街灯が並んでいるが、この時間帯の人通りはまばらだった。
(……付けられてる)
一定の距離を保ちながら、一人の男がついて来ている。それに気づいたのは、家まであと半分の地点だった。このまま走って逃げ切るには、やや遠い。どこかの店に逃げ込もうにも、この時間に開いている店は見当たらなかった。
(どうにかして、撒くしかない)
リズベットは次の角を曲がった瞬間、全力で走ることに決めた。曲がり角に着くまでの間、男の足音に全神経を集中させながら、少しずつ歩く速度を上げていく。
(よし、もう少し……!)
曲がり角まで、あとわずかというところ。
リズベットの体は、突然とてつもない力で路地裏に引っ張られた。それが魔法だと気づいたときには、全身が路地裏の突き当りの壁に激しくぶつかる。
「ぐ……」
頭を強く打ったせいで、視界がグラグラと揺れる。立ち上がりたいが、全身が激しい痛みに襲われ、体を起こすことすら出来ない。
リズベットは己に対して必死に治癒魔法を施したが、その効果は微々たるものだった。
すると、路地裏に男たちがワラワラと集まってくる。どうやらリズベットを狙っていたのは、跡を付けていた一人だけではなかったようだ。
金、金、金、金、金、茶、茶。
男たちの瞳の色からして、それなりに高度な魔法を使う者が多そうだ。
相手を確認したはいいものの、今のこの状態では、反撃することはもちろん、逃げることすらもできない。
男たちが何やら話しているが、一枚の膜で隔たれたように音が籠もり、よく聞き取れなかった。耳鳴りがひどく、視界も段々と暗くなってくる。そしてそのまま、リズベットは意識を失った。
* * *
「黒犬の護衛は他が引き付けていると聞いていたが、こうもあっさりいくとは。楽な仕事過ぎて拍子抜けだな」
「間違いない。今まで何度も暗殺に失敗したと聞いていたが、その理由がわからないな。楽勝だろう、こんな小娘ひとり」
「ああ。さっさと殺して帰ろう。今日は祝い酒だ」
男たちは、意識を失ったリズベットを見ながら談笑していた。自分たちの仕事の成功を確信しているのだろう。
ようやくこの場に到着したグレイは、顔を激しく歪めて歯噛みした。他の刺客たちを大勢片付けていたせいで、助けに来るのが遅れてしまったのだ。倒れているリズベットの頭からは、わずかに血が出ている。
「随分楽しそうだな。俺も混ぜてくれよ」
リズベットと男たちを隔てるようにしてグレイが姿を現すと、彼らはこちらに向かって一斉に攻撃姿勢を取った。反応はそれなりに速いので、よく訓練はされているのだろう。
男たちから鋭い殺気が放たれるが、グレイにとっては、ただのそよ風に等しかった。
「噂には聞いていたが、実物の黒目は初めて見たな」
「売ったら高値がつきそうだ」
「捕まえるか?」
こちらを見ながら、男たちはそんな会話を繰り広げている。あまりにも脳天気な彼らに、グレイは思わず嘲笑を漏らした。
「おいおいおい。お前ら、俺を捕まえられる気でいるのか? 相手の実力も正しく測れないとは、哀れな奴らだ」
すると、男たちは皆あからさまに苛立ち、険しい顔で睨みつけてくる。そして、一人の男――リズベットの跡を付け、彼女を吹き飛ばした男が口を開く。
「……黒目が何をほざく。無能のくせに粋がるなよ!」
これまでにも散々浴びせられた言葉だ。瞳の色が黒いだけで、疎まれ、蔑まれ、気味悪がられる。そんなこと、もう慣れっこだった。
しかしリズベットだけは、この瞳を綺麗だと言う。もったいないから隠すなと、何も気にせず堂々と街を歩けと言う。
どんなに周りから疎まれようが、蔑まれようが、気味悪がられようが、グレイはたった一人の愛しい妹にそう言われるだけで、十分だった。十分、救われてきた。
「馬鹿だな、お前。魔力をたくさん持ってるから偉いって? 魔法が使えるから優れているって? そういうプライドの高い奴から、死んでいくんだよ」
刹那、グレイの刃がその男の首を斬り裂いた。
あまりにも一瞬の出来事で、他の男たちはみな理解が追いついておらず、しばらくの間、辺りが静寂に包まれる。
そして、首を斬られた男がバタリと地面に倒れたのを合図に、残りの男たちが一斉に動きを取り戻した。
「こいつ……!」
「黒目の分際で!!」
「殺せ!!」
男たちは怒り狂ったように口々に叫ぶと、すぐに魔法を放つ構えに入った。しかし、魔法を使う暇など与えてやらない。
「耳障りだな。俺は今、最高に機嫌が悪いんだ。うるさく喚くなよ」
グレイは何のためらいもなく、一人、また一人と斬っていく。誰ひとりとしてお得意の魔法を使えることなく、バタバタと倒れていく。
そして、最後のひとり。男は地面に尻もちをつき、恐怖で顔を歪ませていた。
「エ……エインズリーの黒犬め……!」
エインズリーの黒犬。エインズリー侯爵が娘のリズベットに残した番犬。
「そう呼ばれるの、久しぶりだな」
グレイは何の感慨もなくそうつぶやくと、最後のひとりもあっさりと始末した。全員片付けてから、すぐさまリズベットの元に向かう。
彼女の容態を確認すると、頭からの出血は既に止まっていて呼吸も安定していた。それを確認した途端、安心して気が抜けたのか、ぐらりと視界が揺れ思わず地面に手をつく。体中がきしみ、吐き気も襲ってきた。
「……もうそろそろ、限界か」
度重なる連戦で、体はとっくに悲鳴を上げていた。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。自分にはまだ、やることがあった。
「リズ。帰ろう」
リズベットの頬を優しく撫でると、グレイは彼女を背負い、歩き出した。