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13.ささやかな祈り


「え……?」


 あまりにも予想外の言葉だったので、思考が停止した。聞き間違いかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。


「だめか?」


 レオナルドはこちらを覗き込みながら、ほんの少しだけ甘えるように言ってきた。その顔はずるい。


 リズベットは視線を逸らし、必死に言葉を返す。


「ええと。だめというか、婚約者がいらっしゃる身で、それはまずいのでは……」

「婚約者はもういない」

「……え?」


 またもや予想外の言葉が飛んできて、リズベットは固まった。先ほどまでうるさく鳴っていた心臓は鎮まり、サッと頭が冷えて冷静になっていく。


 婚約者がいないということは、つまり。


「正式に王太子の座を降りることになった。国王に呼ばれたのはそのためだ。今日付けで弟のミケルが王太子となり、マイアと婚約をし直した」


 レオナルドの表情はとても穏やかだった。今までの立場を失った人間の顔には、とても見えない。


「そんなのって……」

「いいんだ。王太子という座にそれほど執着はなかった。これからは王族として、ただ国のために尽くすだけだ」


 彼の表情は依然として穏やかで、ショックなどこれっぽっちも受けていないように見える。だが、自分に言い聞かせているようにも見える。


 リズベットはこの半年間、レオナルドのことをずっと見てきた。


 心に大きな傷を負いながらも、彼はそれを乗り越え、一歩踏み出した。その後は、失った信頼を少しでも取り戻そうと、体調が許す限り執務をこなしていた。再びこの国を守れるようにと、剣の鍛錬も欠かさなかった。


 レオナルドに出会うまでは、リズベットは漠然と「この国の英雄はきっと天才なんだろう」と思っていた。が、そうではなかった。


 彼は、天賦の才を持つ努力家だ。


 きっと今までも、才能の上にあぐらをかくことなく、王太子としてたくさん努力をしてきたのだろう。この国をより良くするために。


 そんな彼が王太子の座を降ろされて、何も思わないなんてことがあるだろうか。平気だなんてことがあるだろうか。


 いつも甘えようとしない彼が、今日に限って甘えたがっているのはなぜ?


 抱きしめていいか、なんて聞いてきたのはなぜ?


 そこまで考えて、リズベットは思いっきりレオナルドを抱きしめた。


「……リズ?」

「自分の気持ちに、嘘をついてはいけませんよ、レオ様。つらかったらつらいって言わないと、気づかないうちに心に傷が溜まっていくんです。だから、だから……」


 声が震えそうになって、そこから先の言葉が出せなかった。いま喋ったら泣いてしまいそうで、言葉で伝える代わりに、抱きしめる力を強めた。


「すまない。少し、嘘をついた」


 レオナルドはそう言うと、優しくリズベットを抱きしめ返してきた。そして、静かな声で、心の内を語ってくれた。


「俺がやったことを考えれば、民が不安がるのも当然なんだ。だから、王太子の座を降りることになったのは、本当に気にしていない。だが……俺をこれほどまでに貶めたかった奴が、近くにいた」


 彼の声が耳元で響く。とても穏やかだけれど、とても悲しい音がした。


「それがわかった途端、今まで信じてきたものが、これまで築き上げてきたもの全てが、足元から崩れ落ちていったような気がしたんだ。他人を信じるのが怖くなった。他人を疑うのにも……もう疲れてしまった」


 気持ちを吐露したレオナルドは、「聞いてくれてありがとう」と言ってリズベットを離した。見上げると、彼は泣きそうな笑顔を浮かべていた。


「……頭、撫でてもいいですか?」


 気づけばそんな言葉が口をついていた。レオナルドは驚いたように目を丸くしたが、すぐに苦笑する。


「君は……俺を甘やかすのが、本当にうまい」


 レオナルドはそう言って、少し頭を下げた。


 そっと、彼の頭に触れる。艷やかに輝くプラチナブロンドの髪は、とても柔らかかった。


「今は、無理に誰かを信じようとしなくていいと思います。でも、たった一人でも信じられる人がいれば、それだけでとても救われるから。まずはその一人を、ゆっくり見つけていきましょう」


 リズベットも、十三年前の事件当時は、グレイ以外誰も信じることができなかった。いつ誰が殺しに来るかわからない恐怖に苛まれ、グレイが隣りにいないと眠れない日々が続いた。


 しかし、ナイトレイ子爵家の優しさに触れ、次第に人を信じることができるようになっていった。


 だから彼にも、また誰かを信じられる日がきっと来るはずだ。


「少なくとも、この屋敷の者は信じている。もちろん、リズ。君のことも」


 レオナルドは微笑みながらそう言うと、頭を撫でていたリズベットの手を取り、そのまま自らの頬に当てた。


「君の手は、本当に温かいな」

「そう……ですか?」

「ああ。とても、温かい」


 レオナルドはそう言いながら、気持ちよさそうに目を閉じていた。


 手のひらに、彼の体温が移ってくる。そのせいか、心臓がまたうるさく鳴りだした。


 彼の美しい顔がすぐ間近にあるせいで、緊張が止まらない。胸が高鳴って仕方ない。


 今すぐ離れて顔のほてりを鎮めたいのに、彼の手を振りほどく気にはなれなかった。


(今日は、どうかよく眠れますように)


 レオナルドの顔を見つめながら、リズベットは心の中でそっと祈るのだった。


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